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中国人の民度が低い理由

2013-09-30 20:56:22 | 中国事情

自由とは一体何を意味するのか? 
秩序を保つためには自由を捨てるべきなのか? 
世界中の全ての人が好き勝手なことをやり始めたらどうなるだろうか? 
そうなったら地球はたちまち滅亡してしまう。 
そんなことは子供にでも理解出来る。 
もしも理解出来なければ人間をやめた方がいい。 

フランス人は革命よりも先に秩序を作った。 
秩序を作った上で、革命を起こして王制を廃止したのだ。 
つまり秩序があって初めて民主主義が誕生したのである。 
人間は秩序を作る能力があり、それに従う能力がある。 
だからこそ動物とは違う道を歩むことが出来たのである。 
秩序を失くしてしまえば動物と同じ生き物になってしまうだろう。 

中国にも秩序はあるにはある。 
だが国民は自由を捨てることが出来ない。 
その上、秩序を乱すものを取り締まる者がいない。 
いや、いることはいるのだが、その方法に合理性がなく 
取り締まる者に権力はあっても、良心がないため 
秩序が正常に保たれていないのだ。 

そんな中国ではあるが政治の自由はなく、政治犯は迫害される。 
共産党政権を転覆させようと試みる者こそが「秩序を乱す者」と断罪されるのだ。 
中国には政治的言論の自由はないが、それ以外の自由は満ち溢れている。 
小便をしたければ、どこでもそれをする。 
痰を吐きたければ、どこでもそれをする。 
大声で叫びたければ、どこでもそれをする。 
邪魔者を殴りたければ、どこでもそれをする。 
中国人の自由は街に溢れ返っている。 
威嚇運転、暴走運転、飲酒運転など秩序を乱す行為などやりたい放題であり、 
事大主義が通用する社会だ。 

買い物にもルールなどない。 
好き勝手に行動する。 
商品は手にとって見て、気に入らなければポイと投げ捨てる。 
子供が商品を手で握り潰すのを見ても、注意しないし、 
カートに子供を乗せ、一緒に店内をグルグル回って遊ぶ。 
レジの列に並ぶかどうかも自由だ。 
並びたくなければ弱そうな客を見つけて割り込む。 
皆が自由を謳歌すると収拾がつかなくなる。 
中国のスーパーマーケットは自由市場なのだ。 

だから皆が自由に発言すれば中国は方向性を失い、迷路に入ってしまうだろう。 
だからこそ言論統制を行うのだ。 
中国政府は国民から政治的発言の自由を奪うために 
それ以外のすべての自由を与えるのである。 
中国人の民度が低いのには理由があるのだ。 

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戦争の教訓

2013-09-30 20:55:21 | 歴史

毎年8月15日、中国政府は日本軍に勝利した日として国民に共産党の正当性を示し、 
「歴史を鑑に」と日本政府に訴える。 
しかし、戦艦ミズーリで日本の降伏文書に、 
勝利者として署名したのは蒋介石であって毛沢東ではない。 
中国共産党が支配する現在の中国は戦勝国ではないのだ。 
アメリカが台湾を見捨てたおかげで「幸運な戦勝国」になったつもりでいるだけだ。 

1942年、蘭領東インドのジャワに日本軍が上陸した時、 
ほとんどのオランダ兵は逃亡した後だった。 
しかし米軍の援護によって戦況が激変、「幸運な戦勝国」になる。 
私はジャワ島中部の町シドアルジョで北海道生まれの石井さんという残留日本兵に会ったことがある。 
1995年のことだからおそらく亡なくなられただろう。 
捕虜になった時に受けたオランダ兵からの仕打ちはひどいものだったと彼は言った。 
帰国のために用意した船を岸壁に着けず、 
海に丸太を浮かべて「これに乗って船まで行け」と嫌がらせをして 
日本兵が海に落ちるのをみて笑い転げていたという。 
シドアルジョではたくさんのインドネシア人に会った。 
友人宅に居候させていただいたのだが、 
「日本人が近くにいる」という噂を聞いて数人の老人が私を訪ねて来た。 
そして私に日本の軍歌を唄ってくれた。 
オランダ兵が日本兵の捕虜をいじめているのを目撃していて、 
「オランダ野郎は日本人にひどいことしやがった。日本人が可哀そうだった」と言った。 
オランダ兵は戦わず逃げたことが悔しかったのだろう。 
インドネシア人は見ていたのだ。 
強いはずのオランダ兵が血相を変えて逃げて行く姿を。 

蒋介石の国民党とオランダ政府はアメリカと同盟したおかげで戦争に勝利することができた。 
日本政府はドイツと同盟したおかげで、「廃墟の国」になった。 
パートナー選びを間違えると、破滅への道を歩むことになるのだ。 
あの戦争の最大の教訓がそれだ。 

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几帳面になれない理由

2013-09-30 20:53:16 | 日本人とプライド

人間の行動には優先順位があり、 
そして24時間で出来ることには限りがある。 
さらには資本主義の社会に生きていれば、 
商品をドンドン買い増すことになり、 
家中商品だらけの環境で生活しなければいけないのである。 

几帳面の定義とは一体全体いかなるものなのか? 
几帳面の平均値というものが存在するとは思えないので、 
私は平均以上の几帳面な性格なのか、平均以下なのかどうか、全く分からない。 

優先順位を考慮して行動するため、 
丁寧に扱うべきかどうかを決めないといけない。 
全ての物を平等に扱うことは無理だ。 
運転免許証と新聞のチラシを同等に扱うことはしないはずだ。 
人間には物を分類する能力がある。 
そして誰にも趣味があり、大切にしたい物を持っている。 
例えば音楽が好きな人ならCDを大切に扱うものだ。 
その場面だけ見ればその人は大変几帳面な性格の人だといえる。 
反対に興味のない物を無造作に扱う場面を見たら、だらしのない人になるだろう。 
優先順位を考えず行動する人はいないのである。 

そして仕事で帰宅が遅く、整理整頓の時間を持てない人も多いだろう。 
日本人は仕事中毒で、夜遅い時間にクタクタになって帰宅し、 
それから整理整頓出来る人は正に超人である。 
人間離れしているといえる。 
資本主義社会で暮らしていると、部屋にドンドン物が溜まってしまう。 
まだ使用出来る物を捨てられる人が几帳面で、 
貧乏性で節約好きの人はだらしないといわれてしまうのだ。 
無尽蔵に金があり、1回だけ使用した物を捨てられるのであれば、几帳面にもなれるだろう。 
そんな大金持ちは正しく資本主義の鑑である。 
整理整頓が好きな人というのは物を捨てることが出来る人であり 
経済的に恵まれた人でなければならないだろう。 
だが、そんな人は問題を起こすこともある。 
他人の所有物を勝手に捨ててしまうことがあるからだ。 
その所有者というのは貧乏性の人であり、蚊取り線香1本も決して無駄にしない。 
半分残った蚊取り線香を捨てるか捨てないか? 
それが大きな問題なのかどうかで、関係を壊すこともある。 

何が大切で、何が大切でないか? 
日々、それを考える人がだらしない人であり 
何でもかんでもポイポイと捨てられる金持ちは几帳面な人なのである。 
だらしない人にとって、生きるということは毎日が難しい選択の連続なのだ。 

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マレー沖海戦の教訓

2013-09-30 20:51:11 | 歴史

日本人の考え方は独特だといわれ、「結果」よりも「過程」に目を向けたがる。 
茶道や華道、柔道、武士道などにはいずれも「道」という言葉がある。 
「物事を極める」は「道に従う」ということだ。 
日本人は「結果」よりも「過程」が重要だと考えるのだ。 
これは独特の考え方だ。 

日本では「結果」が良くても「過程」が悪いと評価されない。 
日本人はそれを「ケッカオーライ」と呼ぶ。 
間際らしい言葉だ。 
意味は「結果のみはオールライト」ということだ。 
外国人が聞けばきっと正しい「結果」のことだと思うだろう。 

日本人は「結果」が正しくても「過程」が正しくなければ納得しないのである。 
だから時に重要なサインを見落とすことがある。 
「太平洋戦争は日本軍の真珠湾攻撃で幕を開いた」といわれているが 
実はそれよりも先に日本軍はマレー半島で英国軍を攻撃している。 
その時日本軍は戦闘機だけで英国の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈させている。 
当時、戦闘機といえば偵察に使うのが一般的で、 
戦闘機を主体にした戦法は確立されていなかった。 
つまり初めて戦闘機だけで戦艦を撃沈させた大変重大な意味をもつ戦闘なのだ。 
正しく戦史に残る大きな出来事である。 
それまでの戦闘といえば戦艦と戦艦が攻撃し合うスタイルで、 
戦闘機は相手の戦艦を探す役割くらいしか与えられていなかったのだ。 
ちなみに私はマレー沖海戦が行われたとされるマレーシアのクアンタンに出かけ、 
町を散策したことがある。 
どこにでもあるような普通の町で、特に新しい発見がなかったことは残念だった。 

日本軍はこの成功(正しい結果)を「ケッカオーライ」と判断し、 
大艦巨砲主義に執着して戦艦主体の戦法にこだわった。 
つまり「結果」よりも「過程」にこだわったのである。 
やられた方の英国軍・連合国軍の方がこの「結果」を重要視し、 
大艦巨砲主義を捨て、戦闘機主体の戦法に変えるのだった。 
ちなみに真珠湾攻撃はアメリカの陰謀だという説があるが、私は同意しない。 
真珠湾攻撃だけならそれもあり得るが 
日本軍はマレー半島でも同じことをしているのだ。 
マレー半島を攻撃したのは山本五十六ではない。 

日本人はとにかく「過程」に執着する民族である。 
「過程」と「結果」ふたつ揃わなければ納得しない。 
「結果」だけいいのは「運が良かっただけだ」というのである。 
けれどもそれは日本人独特の考え方であり「運が良かったことを認めたくない」という願望がある。 
日本人は運で片付けることを拒否したい心裡が働くのだ。 
だから太平洋戦争で戦死した兵士の遺骨収集にこだわる。 
「運が悪かった」と片付けたくはないのだ。 
外国人であればおそらく「運が悪かった、諦めるしかない」と思うだろうが、日本人は違う。 
諦めきれないのである。 

真珠湾攻撃だけが脚光を浴びるが、 
実はマレー沖海戦は重要な課題に日本人を向き合わせる。 
「過程」と「結果」はどちらも同じくらい重要な意味を持つ。 
どちらかひとつにだけ目を向けると重要なサインを見落とすことを忘れてはいけないだろう。 

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殺人者の小さな理由

2013-09-30 20:49:45 | 歴史

殺人は人間が持つ本質的な欲望だ。 
「セックスしたい」とか、 
「おしいものを食べたい」とか、 
「他人の持っている物を所有したい」とかそんな欲求のうちの一つで、 
人間であれば誰もが持っている欲望だ。 
法律があるから殺人をしないだけで、 
法律がなければ私だって最低でも10人は殺しているはずだ。 

そもそも人間は誰も殺人者の子孫である。 
先祖は間違いなく誰でも人を殺している。 
石器時代ならたった一回の食事にありつくために、 
平気で人を殺していたのである。 
法律がなければ人間は人を殺す生き物だ。 
何故なら人間は動物の一種だからだ。 
殺人が法律よりも価値があると思ったら人間は殺人者になる。 
若しくは「自分は特別な人間だ」と規定すれば殺人者になる。 
あるいは何もかも頭の中から抜け落ちて、 
本能だけが残り、動物に逆戻りしたら殺人者になる。 

いずれにせよ条件が整えば人間は殺人者になるのだ。 
だからこの世界から殺人をなくすことは出来ない。 
どんなに社会が変化しても絶対に殺人はなくならない。 
何故なら人間は欲求に忠実であるからだ。 
そして欲望を否定出来る人間はもはや人間ではない。 
それは人間を超える存在だ。 

子どもは残酷だ。 
何故なら他人に同情しないからだ。 
他人に同情しない子どもは動物と同じである。 
殺人に大きな理由は必要ない。 
小さな理由で十分なのだ。 

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