中国人の思想に影響を及ぼしたものは儒教だ。
儒教は形式を最も重視する。
現象を見る場合「こうあって欲しい」という願望の色眼鏡をかけ、
「こうあって欲しい」が徐々に「おそらくこうだろう」という楽観に変わり
最後には「いや必ずこうであるべきだ」という必然性になる。
つまり中国人の頭の中では理想が現実なのだ。
人民日報に書いてある「事実」はこうして出来上がる。
歴史認識の問題も同じで、理想が事実でなければならない。
そして中国人は過去と現在の区別が曖昧である。
今考えていることと既に考えたことが頭の中で混同し、
新しい事実と古い事実は同化する。
2001年のアメリカ同時多発テロが起きた時欧米人は非常に驚いた。
予期せぬ出来事に直面した時、その事実を直視し、新しい事実と認識するのである。
中国人の反応は違った。
「おそらくこういうことが起きるだろうと考えていた」と話す者が多かったのだ。
中国人と歴史認識を共有することは観念の中でしか成立しない。
そんな中国人にも勿論道徳心はある。
しかし道徳のスタンダードが欧米人とは根本的に異なるので
欧米人の物差しで計れば中国人には道徳心が欠如していることになろう
欧米人から見て最も欠けていると判断されるのは公共心かも知れない。
自分の家と公共の場との区別は一切ない。
「プライバシー」という概念はないのだ。
中国人にとっての道徳とは親を敬うことで
親を蔑ろにする欧米人は「動物に近い」ということになってしまう。
今、世界はグローバル化が進み、人類共通の価値観を持つようになりつつある
そのスタンダードが欧米の価値観である以上、
中国がいくら頑張ってもグローバル化の大きな波には逆らえないだろう。
中国文明は衰退していくしかないのだ。
それが嫌ならば鎖国するか、
もしくは一か八かの戦争を欧米に対して仕掛けて勝利するしか中国文明衰退を阻止する道はないだろう。
中国社会は「外見重視型社会」である。
未だに儒教の呪縛から解放されていないからだ。
中国は偽物だらけだ。
とりあえず外見さえ真似ればOKで、中身は本物とはまったく違う代物のことだ。
乳製品からメラミンが検出されたことがあるが、
なぜメラミンなのか?といえば外見を似せるためだ。
「外見を本物と同じにするためには何でもあり」なのである。
その発想はある意味すごい。
普通の日本人なら絶対思いつかない。
「この発想力を他で活かせばいいのに」と思うのは私だけか?
中国製の「ステレオ・ラジカセ」を店頭で視聴させてもらったことがある。
確かにスピーカーは二つあるのだが音はモノラルであった。
おそらく買った中国人は気がついてないだろう。
スピーカーが二つあるのがステレオと勘違いしている。
外見しか見ていないのだ。
中国社会では外見の優れた者は極端に優遇される。
一番図々しいのは若くてきれいな女性である。
スーパーのレジの列に割り込んでくるのは若い女性が多い。
自分を特権階級と勘違いしているらしい。
そして女性の美に対する執着心は半端ではない。
玉の輿に乗ることができたら人生は安泰だ。
男性は女性を外見でしか判断しないからだ。
未婚男性に「夢は何だ?」と訊けば
「きれいな女性と結婚すること」と答えるのは普通のことだ。
あまりに偏重した「外見重視型社会」を是正しなければ
永久に「本物の美しさ」と出会うことはないだろう。
本物の美しさとは蓮の花のことである。
汚い泥水の中で咲く蓮の花は圧倒的に美しい。
いうまでもないが汚い泥水とは中国社会のことだ。
日本は国民党政権とサンフランシスコ条約で講和し、
台湾に投資したものすべてを寄与した。
戦前に日本人が作り上げたインフラのすべてを放棄することで戦勝国の台湾に賠償金は払わなかった。
一方、毛沢東政権に対しては満州に日本人が築いたインフラを寄与した。
戦勝国として講和条約に参加していない中華人民共和国に対して賠償責任はないのにも関わらずにだ。
戦前に台湾と満州に日本人がどれだけの情熱を込めてインフラを整備したか、
正確に理解しなくてはいけないだろう。
そして「熱意」は金で買うことができないことも。
台湾人は日本人の功績を認めるが、
中国人は満州の「日本人の遺産」の素晴らしさを全く認めていない。
それどころか「賠償金の支払いを免除してやった」という。
しかし日本が降伏した相手は蒋介石であり
毛沢東に対し降伏していないのだから、賠償金を払う根拠などどこにも存在しないのだ。
つまり無償で満州の権益を全て与えた、ということだ。
満州を開発するのに日本人がどれだけ心血注いだか、安倍総理は中国政府に理解させないといけない。
安倍総理はするべきことを忘れてはならない。
中国の雑誌・小康は職業を対象とした信用度調査の結果を発表し、
農民、宗教家、慰安婦、軍人、学生が上位にランキングされている。
ワースト5は不動産会社の経営者、秘書、マネージャー、芸能人、映画監督である。
注目したいのは社会的地位の高い人の評価が低いことで
慰安婦に信用があっても映画監督には信用がないのである。
共産党が検閲を行う中国映画はそのほとんどがプロパガンダであるといえる。
そして共産国のプロパガンダ映画は「モンタージュ」が使われる。
「モンタージュ」とは視点の違う複数のカットを組み合わせるもので、
一般的には編集と呼ばれる。
つまりパッチワークのように別のカメラで撮ったものを繋ぎ合わせて、
ある意味を持たせるというものだ。
プロパガンダ映画には不可欠な要素だ。
今風にいえば「やらせ」である。
つまり中国の映画はすべて「やらせ」なのだ。
もっとも映画自体が「やらせ」なのだから、どこの国の映画も「やらせ」ではある。
けれども重要なのは中国人も映画が「やらせ」であることに気が付いていることだ。
中国の反日映画についても冷ややかに見る中国人は多い。
問題なのは反日映画を製作することではなく、それを公の場で批判出来ないことだ。
例えば南京事件を扱ったプロパガンダ映画を批判することは許されない。
ネット掲示板に「あれはやらせだ」などと書き込めば大変なことになる。
誰もが恐ろしくてプロパガンダ映画を批判などしない。
映画監督もそのことを織り込み済みで製作するのだ。
だから好き勝手に映画を作れる。
今回の調査でハッキリしたのは、
そのプロパガンダ映画に対する信用度が極めて低いということである。
それは映画監督に対する挑戦状といってもいい。
「お前たちの作ってる映画なんてやらせじゃないか?」
こういわれているのである。
共産党もこの結果を冷静に受け止めて
いい加減、プロパガンダ映画を作らせるのはやめた方がいい。
今や人民は無知ではないのだ。
既に中国映画が「やらせ」だと認識しているのである。
慰安婦よりも信用度の低い者に映画を作らせることが
どれほどバカげているかよく考えてみたらいいだろう。
そして映画監督は慰安婦のところに弟子入りして
どうやったら人民の信用を得られるか、勉強した方がいい。
いうまでもないが、下半身の勉強などとんでもないことだ。
自由とは一体何を意味するのか?
秩序を保つためには自由を捨てるべきなのか?
世界中の全ての人が好き勝手なことをやり始めたらどうなるだろうか?
そうなったら地球はたちまち滅亡してしまう。
そんなことは子供にでも理解出来る。
もしも理解出来なければ人間をやめた方がいい。
フランス人は革命よりも先に秩序を作った。
秩序を作った上で、革命を起こして王制を廃止したのだ。
つまり秩序があって初めて民主主義が誕生したのである。
人間は秩序を作る能力があり、それに従う能力がある。
だからこそ動物とは違う道を歩むことが出来たのである。
秩序を失くしてしまえば動物と同じ生き物になってしまうだろう。
中国にも秩序はあるにはある。
だが国民は自由を捨てることが出来ない。
その上、秩序を乱すものを取り締まる者がいない。
いや、いることはいるのだが、その方法に合理性がなく
取り締まる者に権力はあっても、良心がないため
秩序が正常に保たれていないのだ。
そんな中国ではあるが政治の自由はなく、政治犯は迫害される。
共産党政権を転覆させようと試みる者こそが「秩序を乱す者」と断罪されるのだ。
中国には政治的言論の自由はないが、それ以外の自由は満ち溢れている。
小便をしたければ、どこでもそれをする。
痰を吐きたければ、どこでもそれをする。
大声で叫びたければ、どこでもそれをする。
邪魔者を殴りたければ、どこでもそれをする。
中国人の自由は街に溢れ返っている。
威嚇運転、暴走運転、飲酒運転など秩序を乱す行為などやりたい放題であり、
事大主義が通用する社会だ。
買い物にもルールなどない。
好き勝手に行動する。
商品は手にとって見て、気に入らなければポイと投げ捨てる。
子供が商品を手で握り潰すのを見ても、注意しないし、
カートに子供を乗せ、一緒に店内をグルグル回って遊ぶ。
レジの列に並ぶかどうかも自由だ。
並びたくなければ弱そうな客を見つけて割り込む。
皆が自由を謳歌すると収拾がつかなくなる。
中国のスーパーマーケットは自由市場なのだ。
だから皆が自由に発言すれば中国は方向性を失い、迷路に入ってしまうだろう。
だからこそ言論統制を行うのだ。
中国政府は国民から政治的発言の自由を奪うために
それ以外のすべての自由を与えるのである。
中国人の民度が低いのには理由があるのだ。