中国製品は粗悪品で世界中の人々から「安かろう悪かろう」と思われている。
日本製品といえば高品質の代名詞になっている。
しかしそんな風にいわれ始めたのはほんの30年前のことだ。
70年代までは日本製品の評価は低かったのである。
おまけに「パクリ」を指摘されることも多かった。
ディープパープルの不朽の名作として名高いアルバムのタイトルは「メイド・イン・ジャパン」である。
レコーディングされたのは1972年だ。
当時、武道館でのライブ録音は困難を極め、高いクオリティのレコードを製作することはできなかった。
しかし内容は大変すばらしくバンドのメンバーは気に入ったのだが、
録音技術は低くて必ずしも納得のいくものではなかった。
それでもリリースすることが決まり、
バンドのメンバーは低い録音技術を皮肉って「メイド・イン・ジャパン」と名付けたのである。
今では考えられないことではあるが当時は日本の技術力に対する評価は低かったのだ。
ちなみにパープルはブレークする前、フェイセズの前座を務めている。
フェイセズのベーシストは山内テツで元サムライズのギタリストだ。
当時、南アフリカでは白人優遇政策が行われていて、
日本人に対してヴィザを出さずフェイセズは南アフリカでコンサートをすることができなかった。
それから40年。
日本人の地位も上がった。
今では御伽噺のようである。
ところが「メイド・イン・ジャパン神話」が崩壊しつつあるという。
一部の識者の指摘ではあるが、看過できないことだ。
「歴史は繰り返す」という。
それが正しいかどうか、それは歴史が回答するだろう。
清志郎が逝って4年になる。
「早すぎる死」といわれたものだが、
清志郎の母親の最初の主人は20代で死んだのだから、
彼と比べたらずいぶんと長生きしたといえるだろう。
清志郎の母親は再婚して清志郎を産む。
最初の主人は太平洋戦争で戦死している。
ある時、清志郎は彼が戦地から母親に送った手紙を読み、
初めて彼女に前夫がいたことを知る。
彼女はその手紙を大切にしまっておいたのだった。
清志郎の母親が戦争で辛い思いをしたことを知り、それが反戦思想の源になる。
彼女の最初の夫が戦死し、太平洋戦争は終わり、
戦地から復員した二等兵たちは自分たちが騙されていたことを知ることになる。
戦時中は思想統制が行われ、
日本が戦っているのは「聖戦」であると教えられ、天皇は神であると信じ、
上官に意味もなく殴られ、仲間の屍を見捨てることしか出来ない辛さを知る。
だが復員した彼らは口を閉ざした。
騙されたことを軽々しく話す気にはなれなかったのである。
だが身内にだけには話しただろう。
反戦思想はこんなところから広まっていった。
清志郎の運命は複雑だ。
母親の最初の主人が生きて帰っていれば、清志郎はこの世に誕生していない。
人の運命は紙一重だ。
そういえば清志郎が作ったユニット「HIS」も偶然から生まれたものだ。
きっかけはローリング・ストーンズである。
ストーンズが来日した時、ベーシストのビル・ワイマンが、細野晴臣のアルバムを聴いたことがあり、
それを気に入っていたので楽屋に彼を招待した。
清志郎は仕事でストーンズの楽屋に行くことになり
「それならば」ということで二人一緒に行くことになった。
そこで二人は意気投合して「HIS」を結成することになる。
ストーンズが来日していなければHISは生まれていない。
清志郎が反戦思想を持ったのは、彼の母親の前夫の手紙がきっかけだ。
しかし、彼が戦死していなければ清志郎は生まれていない。
つまりRCサクセションも誕生していないということだ。
日本を代表するロックバンドの成立は戦争で死んだ男によるものなのである。
日本のロック黎明期の代表的なバンドといえば「頭脳警察」だ。
その一風変わったバンド名の由来は、フランク・ザッパの曲名にあるが、
ザッパは自由競争支持者であり、資本主義支持者だった。
そして宗教を批判、言論の自由を標榜し、検閲に反対した。
「頭脳警察」のリーダー、パンタは共産主義者を名乗った。
彼はザッパの表面しか見ていなかったのだろうか?
それともザッパの思想を理解していなかったのだろうか?
ザッパの主張は理に適っている。
言論の自由を求め、検閲を否定するのならば、資本主義を支持するのは当然だ。
パンタが言論の自由を求め、検閲を否定し、
その上で共産主義を支持するのは矛盾している。
何故なら共産主義社会には言論の自由などない。
全ての出版物には検閲がある。
かつての左翼はこうした自己矛盾を抱えていたのだ。
「幼稚な左翼主義者」といってもいいだろう。
パンタは常に矛盾を抱えるロッカーだった。
バンドを始めた頃はキャンプで米兵相手に英語の歌を唄っていた。
だが、アメリカ人相手に下手糞な英語で唄うことに疑問を持つ。
それが「日本語ロック」の始まりだった。
「はっぴーえんど」同様、英語で唄えないから、日本語で唄うという選択をしたのである。
当時、共産主義運動の大きなムーブメントが起きていて
「革命」という言葉が合言葉のように日常的に使われていた。
私はベトナムにいた頃、ホーチミン市にある「8月革命通り」という名前の幹線道路を通る度に思ったものだ。 「日本でもし共産主義革命が起きていたら、日本もこんな国になってしまっていたんだろうか?」と。
ロッカーは夢を売る商売である。
「ナイトメア(悪夢)」を売ってはいけない。
パンタは才能のあるミュージシャンだ。
だからこそパンタの同世代のサラリーマンの生き方を否定するのではなく
かつての自分の過ちに目を向けて欲しい。
ザッパはこんな言葉を残している。
「宇宙には普遍的なものが二つある。それは水素と愚かさである」