「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じた者は死んでも生きるのです。また、生きていて、わたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。そのことを信じますか。」ヨハネの福音書11章25節)
18日は大阪へ行ったので、礼拝はお休みしました。今では教会が違う息子ですが、牧師のメッセージを録音してくれて、私のPCに貼り、聞く事が出来ました。何という素晴らしいメッセージ!こういったメッセージを聞きたかったのです。ここにお証します。
上の言葉は聖書で有名な箇所です。
日本では「死」はすべての終りで、何もないです。
ベタニアに住む貧しいマルタ、マリア、ラダロはイエス様を信じていました。しかしながら弟ラダロは病で死んでしまいました。マルタ、マリア、は悲しみにくれ、イエス様をみつけ、「主よもう少し早く来て下さっていたら、弟も御言葉でも聞けましたのに、、、」と告げました。イエスは「いや死んでいるのではない。眠っているのです。」と。イエスは墓からラザロを生きかえらせました。
ユダヤでは死は終わりではなく、この世の終りには甦るという、知識では持っていた。しかし知識には限界があるのです。ラザロの蘇りで、マルタは神の子イエスから「私は蘇りです。命です。」と本当のキリストとの出会いを経験したのです
いのちの言葉を持っている神の子キリストは、後に十字架と復活を経験していきます。十字架と復活は罪許された者信じている者に絶大な証なのです。キリストはこの事を信じるか?厳しい現実の中で信仰を働かせるか?と呼び掛けておられる。
かって信仰があったや、好きな事をしておいて、医者からあと何か月の命です、と告げられてからにする、では
遅いのです。今が救いの時、今が恵みの時、という無言葉があります。
キリストは我がうちにおられる。、、、どん底の中で経験する。そこにキリストがおられ、命の言葉を経験することから生まれます。
死=肉体の死 霊的な死 永遠の死
命=肉体の命 霊的な命 永遠の命
霊的な死と霊的な命が大切です。
神など必要ないと、自分勝手な生き方を罪、原罪という。神から分離していき、霊的な死です。けっして良い実は結びません。死んでいるのです。
電線に電流が通って光が輝くように神と我々がつながってこそ、神と共に生き、永遠の命が注がれるのです。
生まれ変わらせて下さるのです。これを新生といいます。
地上の人生をイエスの命に生かされ、豊かに生きていきたいですね。
18日は大阪へ行ったので、礼拝はお休みしました。今では教会が違う息子ですが、牧師のメッセージを録音してくれて、私のPCに貼り、聞く事が出来ました。何という素晴らしいメッセージ!こういったメッセージを聞きたかったのです。ここにお証します。
上の言葉は聖書で有名な箇所です。
日本では「死」はすべての終りで、何もないです。
ベタニアに住む貧しいマルタ、マリア、ラダロはイエス様を信じていました。しかしながら弟ラダロは病で死んでしまいました。マルタ、マリア、は悲しみにくれ、イエス様をみつけ、「主よもう少し早く来て下さっていたら、弟も御言葉でも聞けましたのに、、、」と告げました。イエスは「いや死んでいるのではない。眠っているのです。」と。イエスは墓からラザロを生きかえらせました。
ユダヤでは死は終わりではなく、この世の終りには甦るという、知識では持っていた。しかし知識には限界があるのです。ラザロの蘇りで、マルタは神の子イエスから「私は蘇りです。命です。」と本当のキリストとの出会いを経験したのです
いのちの言葉を持っている神の子キリストは、後に十字架と復活を経験していきます。十字架と復活は罪許された者信じている者に絶大な証なのです。キリストはこの事を信じるか?厳しい現実の中で信仰を働かせるか?と呼び掛けておられる。
かって信仰があったや、好きな事をしておいて、医者からあと何か月の命です、と告げられてからにする、では
遅いのです。今が救いの時、今が恵みの時、という無言葉があります。
キリストは我がうちにおられる。、、、どん底の中で経験する。そこにキリストがおられ、命の言葉を経験することから生まれます。
死=肉体の死 霊的な死 永遠の死
命=肉体の命 霊的な命 永遠の命
霊的な死と霊的な命が大切です。
神など必要ないと、自分勝手な生き方を罪、原罪という。神から分離していき、霊的な死です。けっして良い実は結びません。死んでいるのです。
電線に電流が通って光が輝くように神と我々がつながってこそ、神と共に生き、永遠の命が注がれるのです。
生まれ変わらせて下さるのです。これを新生といいます。
地上の人生をイエスの命に生かされ、豊かに生きていきたいですね。