日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

集落

2016-03-30 12:53:24 | 日記
医者を必要とするのは丈夫な者でなく、病人です。(マルコの福音書2章17節)



ふと見れば集落の高い所にピンクの綺麗な梅が見えます。ちょっと入らせてもらいましょう。



高尾高原へ来ていつも思うのは、こんな高い山の頂上付近にどうして集落があるのかな?平地が広がっているし、そこは便利なのにわざわざこんな不便で学校やお勤めに通うのに、毎日急な山道を往復しなければならない。よ~
こんな所に住まわれたものです。



ネット友さんの書き込みによれば、織田信長に追われた佐々木氏という方が隠れ住んだところとか。なる程頷けます。昔、そういった方でないとこんな高い不便な所に住まないですから。耕地もなく、急斜面に梅林を植え、柿と杉の材木で生活されてたのでしょうか?ほんの少しの空き地に野菜は植わりますが、困窮を極めた生活が想像されます。







でも美しい梅風景だな、、、暫し見とれました。今まで通り過ぎてこんな風景があるとは知らなかったです。



私はおっとりノンビリして、気が着かないですね。暫し後悔。でも今回の収穫ではありました。





さくらも咲き始めましたが、次はもう少し上のサンシュを見に行きましょう。

上の言葉
(イエス様はこの世の普通の人である漁師や、また嫌われていた取税人等に、私について来なさい、と12弟子を選ばれました。今もわたしに着いて来なさいと、戸を叩いてられます。素直に従う人は僅かですが、着いていく人は恵みが追って来ます。
我々は罪びとですから、一種の病人かも解りません。本当にそう思います。癒してほしいのです。そして救ってほしいのです。それには素直に従う必要があるのですが。)

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宇治田原 高尾高原梅林

2016-03-28 18:10:45 | 日記
谷川の流れを慕う鹿のように 主よ我が魂あなたを慕う あなたこそ我が盾 あなたこそ我が力 あなたこそ我が希 我は主を仰ぐ(新聖歌69)



3月21日に宇治田原の高原に何か咲いてるかも?と早朝ではないですが、出かけました。何と梅の時期でサンシュが咲いていました。梅はとっくに済、サンシュは期待していましたが、梅と一緒にここでは咲くのでした。ところがです。私、若いつもりだったのです。よく似た年齢の方が足腰が悪くなってられ、私も気をつけないといけないのを忘れていたのです。



ここは45度に近い傾斜。途中で怖くなりました。しかしもう引き下がれません。用心して!オソル、オソル、、、





アングルよりも護身。









最も奥の大きなサンシュの木に辿り着きました。あまり安堵もしてられないです。帰りがある。







空青く空気も爽やか。しか~し、帰りは崖を這い上がります。足場位の横道が着いていたはずが今や消えています。下へ転げ落ちたら再起不能になるかも?草をつかみ、何とか上の車のある道まで上らなきゃ!頑張りました。何とか道路まで。ホッ。助かりました。感謝です。

上の言葉
(新聖歌の大変美しいメロデイと歌詞です。詩編からですが、鹿が美しい谷川の水を慕い飲んでいるように、我々はキリストを慕い仰いでいます。そして御言葉を日々仰いでいます。力となって下さり、希望を与えられます。感謝はそこから来ます。)

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嵯峨風情

2016-03-26 09:43:09 | 日記
いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(詩篇36篇9節





枝垂れ桜が美しい様です。何故か忙しい気分になるのは、写真を趣味としているからでしょうか。でもこうして下手な写真で喜んでられるのも一杯恵みをいただいてる証拠ですね。天龍寺の少し入った所にサンシュが美しいでした。



何処にでもある水貯め?です。嵯峨であるから風流かも?





桃の木と竹の根元です。





塀から見える山茶花?も自分勝手に風流に感じまして、、、



落柿舎に着けました。ヤレヤレ、これで渡月橋まで近いです。お腹が空いて、、、



こんな所でシラサギが。いろんなものがいますね。



苔が美しく、つい好きでパチリです。ついパチパチ撮りすぎました。

上の言葉
(命は主イエスにあるのです。命の泉は主イエスにあり、また光はイエスそのものです。イエスの内に光を見ます。その光はこの世を照らす唯一の光なんです。この方以外には光を見出されません。)

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嵯峨模様

2016-03-25 10:08:15 | 日記
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。(詩篇34篇18節)>



嵯峨へ行ったのは今月16日でした。もう随分時間が経ったような。夫がこんな遠くへ連れてくれるのは感謝で嬉しい事ですが、性格の違いでしょうが、私は見て良かったらパチパチ思い切りよく撮るのですが、いつも夫は遅い!慎重にゆっくりとパチ。さっさと撮って、帰ってからマズイのは削除すればいいのですがね。



そんなこんなで私ならこの竹の道なら2時間で終わりですが、なんと4時間!待ち草臥れた、、、連れて来てもらってそうはいえなです。我慢の子でした。





それぞれ楽しんでられるのを見ました。



10時になれば人力車が一斉にお客を乗せ出発の様です。





お店も嵯峨は日本風のもの、オシャレで欧風のもの様々で楽しめます。



保津川べりでパチリの皆さん。悪趣味かも解らないけど思わず顏が綻びました。





楽しいですが、お腹も空き、待ち草臥れもしてレストランへ。

帰って夫の画像を見れば、竹藪を横に撮ったのばかり。真ん中に道を入れ、両横の竹がスーと伸びたのがここの美しさで特徴では!?、、、何やら人が通り過ぎるのをじっと待っていた様でした。そりゃここは人の途切れる時は無いでしょう。だから時間がかかるはずだ!後日、夫だけがまた撮り直しに出かけました。天龍寺の竹も撮って、竹の道の写真を飛び切り良いのを撮って来ました。ア~ア。

上の言葉
(心の打ち砕かれた者、魂の打ち砕かれた者とはどんな人でしょうか?何かで自己掲示欲、貪欲、自己中心等を疎外され、助けを必要とした状態の人を指すと思います。そういう人に主は心の戸を叩かれるのです。戸を開くのはその人の自由ですが、戸を開き、神の言葉に聞きいり、その言葉が真実であると悟った人が救われるのです。
だから苦難も益です、との御言葉通りなんです。心が渇き、生ける水の主を受けようとする人をいいます。)

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藪椿

2016-03-23 18:12:45 | 日記
ゲッセマネという所に来て。。。(マルコの福音書14章32節)



竹の道の所々に藪椿が色を添えています。そのコラボにうっとりします。





落ち椿は私の好きなパターンで、パチパチと。





後ろがうっすらと霧で綺麗でした。





今は椿の見ごろ。従って皆美しいです。椿は12月から4か月は咲くとおもいます。長く咲くので、冬の色どりに重宝されると思います。我が庭にも鉢植えですが、随分楽しみました。



竹と椿を何とか旨く撮りたい!と思いながらなかなかその被写体に巡り会うのが大変。満足いかないものです。



落ち椿の群れ。凄くたまってますね。

(ゲッセマネという所はオリーブが咲いています。そこでイエスは十字架にかけられる直前で血がと思わせる汗を出して、祈られました。それをゲッセマネの祈りといいます。今日、ある姉妹のお家で小集会に行きました。そこにオリーブの木が3本植えてあって、日本ではオリーブを庭に植えるのは珍しいので、久し振りに聖書の世界にしたり感謝でした。)

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