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親愛なる日記

僕が 日々見つめていたいもの。詩・感情の機微等。言葉は装い。音楽遊泳。時よ、止まれ!

さよならシナプス

2008年09月10日 | 男と女
さよならシナプス。さようなら。


先日、奥歯の神経を抜きました。

麻酔の技術が発達したせいか、痛みはまったくありませんが、、自分の一部が失われていく感覚は物悲しい。

一度、自分の歯の神経を医者に見せられたことがあります。

新鮮な薄桃色の細く小さな神経細胞がピンセットでつままれ、目の前でぷるぷると震えている様子を僕は鮮明に覚えています。

かつて僕の一部であった神経細胞よ、さようなら。

僕に痛みを教えてくれた細胞。

僕を支えてくれた細胞よ。

僕はできることなら君とともに生きたかった。我慢もした。

でも、結局はその痛みに耐え切れなかったのだ。

医者は言う。もう少し我慢できないのか、神経を抜くのは簡単だけど、もう二度と戻らないんだよ。


看護師の女の人は言った。こんな状態で我慢している人はなかなかいないよ。そりゃそうさ。僕だってできることなら失いたくはない。

しばらくの思考の後、僕はやはり神経を抜く決心を彼女に告げる。



人には本当に無数の決断するタイミングがある。

そして、その多くを、考えてみれば他人任せにして生きていることが驚くほど多い。その結果、決定的な判断すら他人任せにしてしまいたくなるのが人情である。そう感ずることが多い。

だからこそ、いざ、重要な判断。それが自分の人生に関わる大きな事柄であればあるほど人は困惑するのだ。私が私自身が判断をせねばならない。その事実に人は困惑する。

私は困惑し、そして決断を下す。

それは正しい判断であったか、わからない。

無数のありえたかもしれない結果は、所詮、無数の夢想に過ぎず、人は自らの通った道しか覗き見ることはできない。

そして、判断など、時の過ぎ行くままに変質を続ける。


不毛だ。

けだし、人は選び、生きなければならない。

さよならシナプス。

さようなら、僕の片隅。

ワタシガイナイ 再編

2005年10月02日 | 男と女
夜中、嫌な孤独に塗れて

私は私を失う。

私はあなたがあることで生まれるから。

あなたが存在することでしか僕は私を認識できない。

コーヒーカップの話を昔君に聞かせたことがあっただろ。

君がコーヒーカップを持ち上げた時、君はコーヒーカップを発見する訳ではない。

コーヒーカップによって、君はーコーヒーカップを持つ君の掌の存在を発見するのだ。

つまり。

あなたがいて、私に気付く。

あなたがいなければ私は私を見失う。

そういう具合さ。

笑っちまうことに。

こうして

台所で

独り

酒を飲んでいても

私は

私すら

見つけることができない。


今、この瞬間ー私は私を見失い、世界と、音楽と一体化して、もはや虫みたいになっている。

甘いくだりの小説もドラマも、空想も、夢もそこにはない。

うずくまり、膝を抱える。

そこには 静まり返った部屋と空間だけが残る。


会話

2005年10月02日 | 男と女
そして誰もいなくなった。

あなたが言った。

「あなたの部屋には誰でもノックもしないで入ってこれる。それであなたは楽しいし。でも、みんなさよならも言わずに帰っていってしまうのよ。」

「そうかな、僕はみんな帰る気なんかないんじゃないかと思っているよ。さよならを言ったら、それはもう本当に会えなくなる時さ。だったらさよならなんて言わない方がいいじゃないか。」

「あなたは人を信用しているか、または全く興味がないかのどちらかね。」

「僕は前者だと思って生きている。」

「そうかしら、、。」

「ああ。」

「それにしては、あなたさっきからあたしの顔すら見やしないわね。」



そして何かが始まる

2005年09月05日 | 男と女
たぶん、今が何かの限界点なんだといつも感じている。

それは私が悪者である限界点であり、

それは私が走り続けられる限界点であり、

それは私の幸福の限界点であり、

それは私の愛の限界点でもある。


最近の生活ははっきりいってよろしくない。

酒を飲み過ぎているし、煙草も吸い過ぎている。

黙り過ぎているし、音楽が通り過ぎていく。


あなたという名称が薄らぎ、同時にわたしという名称も消えかけていく。

「私にも愛なんてものはわからないのよ。ましてや、あなたのようにアタマで理解しようなんてムリがあるわ。」

そう君が言う。

その通りだろう。

で、どうすりゃいいんだ。


ー僕が君を愛しているかどうかなんて、誰に聞けばわかるんだい?


僕は音楽を必要とし、音楽がなければもう生きていてもしょうがないとはっきり思う。

それは僕が音楽を愛しているというたしかな実感に繋がる。

僕はあなたを必要とし、あなたがいなければ生きていてもしょうがない。そう、はっきり思わなければ愛とは言えない。

とまでは思わない。

でしょ?

前者は愛を証明するための一つの道筋であって、その道筋でなければならないわけではないもの。

そういって完璧な愛の幻想から外れたところで果たしてあなたは何をもって愛を選びとるのだろう?

そこになんの説得力のある感情が残るというのか。



親愛なる日記よ。

あなたはいつだって何もこたえてやくれない。











オリオンその後

2005年09月02日 | 男と女
ー中略ー


その時のことを、彼女は何年間も考え続けた。

つかの間の出来事だったし、実際に感じたのは、オリオンの腹に生えた砂まじりの毛が彼女の肌を引っかく感触くらいなものだった。

ことを済まして、早くもぐうぐういびきをかいているオリオンを彼女はわきへ押しやった。いびきが大地を揺さぶった。月日が経っても、その時間は生々しく、変わらぬまま彼女のなかで生き続けることになる。

彼女はそれを違ったものとしては考えようとはしなかった。

記憶のなかで柔らかくしたり、硬くしたりしようとはしなかった。

あくまでそのままの形で保持し、両手で何度もひっくり返してみた。

アルテミスの復讐は迅速だった。

単純で、これ以上ないというくらい屈辱的だった。

彼女はサソリを使ってオリオンを殺したのである。


ひとりについて

2005年08月10日 | 男と女
一人でも落ち着いて楽しく過ごしている人もある。

最も一人で楽しくと言っても、一人だから自由でいいとか、好きでもない人と一緒にいる人の気持ちがわからないとか、何のかのといいながら、一人で楽しみを追いかけまわしたり、一人の楽しさを見せびらかして生きているような人もあるが、そんなのは偽物であることが多い。

本当に楽しい人は、もう少し静かである。

一人でも結構楽しいのだから、何のかのと他人を煩わす必要がない。

一人の楽しさを多くの人々に見せつけている人は、本当の一人になったときーそれに見合うだけの税金として、相当な涙を流して居られると考えていいだろう。


と、河合さんはおっしゃっている通り、ひとりを楽しむというのはなかなか難しいことだと思う。

僕自身にしても、「ひとり」は好きだけど「ひとりぼっち」は嫌いだ。


君がいないことより、君がいないと思うことが寂しいーと歌った人もおったが、これも同じことだと思う。

「ひとり」というのは状態ではなくて観念なんだろうね。


オリオン-つづき

2005年08月08日 | 男と女
錬金術師の格言に、テルティウム ノーン ダタというのがある。

三番目は与えられない。

すなわち、一つの元素から別の元素への変容、廃棄物から黄金への変容は、文書に残せるたぐいのものではない。

それは全き神秘なのだ。

何が斯様な変化をもたらすのか、だれにもわからない。


精神にしても同じである。

いかなる運動も伴うことなく、広大なる平原への移動が成しとげられるのだ。

何が起こったのか、我々としては想像するほかない。


ある晩、獲物を逃したアルテミスは、一休みしようとその場で火を起こした。

だが、夜は影と戯れに満ちていた。

火のそばに、自分の姿が見えた。子供の自分、女の自分、狩人の自分、女王の自分。

子供を捕まえようとすると女を見失い、弓をひくと女王は逃げた。

たとえ世界を股にかけ、生きるものすべてを追いつめたところで、いくつもに分かれた自分自身に逃げられてしまうのなら、一体何の意味があるだろう?

いずれは、他に誰もいなくなって、自分と向きあるしかあるまい。

家を去るとは、何ものもあとに残していかないことだ。自分自身もやはりそのままついて来て、闇のなかで待っているのだ。戦うに値する唯一のいくさとは自分のなかで荒れ狂ういくさであることを彼女は悟った。

あとはみな遊びでしかない。

この小さな場所、我が狩り場で、自分を家へ連れ帰るのだ。

家とは気弱な人間のための場ではない。

真に勇敢な者だけが、自分自身とともに生きられるのだ。

朝のうちに彼女は出かけていった。

毎日毎日、朝が来るたびに出かけていった。

その落ち着かぬ徘徊のなかに、彼女は安らぎを見出した。



それからオリオンが現れた。

オリオン

2005年08月04日 | 男と女
嵐の晩に、分別よりも倦怠に導かれて、王ゼウスは娘に違った生き方を許すことにした。


すなわち、娘は結婚を望まなかった。


神であれ人間であれ、夫がいくさに出かけて、宮殿の王子から荒武者へとお決まりの変容を遂げるあいだ、自分はおとなしく家で待っている、なんていう暮らしは望まなかったのだ。

子供も欲しくなかった。彼女が望んだのは狩りをしてくらすことであった。

狩りをすると気分がよくなるのだった。



夜明け前に支度を済ませ、森での新しい人生に向かってアルテミスは出発していった。

やがてその名声は広まり、ほかの女たちも加わったが、アルテミスは他人と一緒にいるのを好まなかった。

一人でいるのが彼女の望みだった。

孤独の中で彼女は奇妙な発見をした。

彼女はかつて、世界をのびのびさすらう男達の自由を羨んだものだった。

ただひたすら待つだけの妻のもとに、男達は栄光につつまれて帰る。

歴史を作るものと、家を守るもの。

人生を成立させているこの大いなる分業は彼女も承知していた。その分業を否定するというのではない。

彼女はただ、向こう側にある自由を我が身に浴びてみたいと思ったのだ。

英雄のように世界を巡り、七つの海を旅したら?

何か違うものが見つかるだろうか、それともみかけが違うにすぎない、いままでと同じものに出会うだけだろうか?

世界全体をひとつの場所に収めうることを彼女は発見した。

その場所とは彼女自身だった。

まさかこんな発見に至るとは、夢にも思っていなかった。


                      ジャネット・ウィンターソン「オリオン」より


愛を引っかけるための釘

2005年05月18日 | 男と女
昔、僕がまだ中学生だったころ、姉の長電話を親父が叱って言ったものだった。

「それはどうしても緊急な用事なのか。話したいだけなら会って話せ。」

そう言って、ひどい時には会話中に電話線をハサミで切ったりした。

大切なことは会って話さなければなにも伝わらない。だからどうしても話したいのなら今から会いに行け。さもなくばすぐに電話なんか切れ。

それが親父の持論だった。

もちろん、華の女子高生であった姉とは大きく衝突することとなった。

例え高校生といえども社交性をもってしまった現代人には、そう必要でもない電話でもー電話というものが存在する以上ーしなければならないのだということを親父は認めないし、そもそも親父はそういう人間ではなかった。

今思うと、当時の姉は本当に家にいるのが苦痛だったろうと思う。

妹にしたってそうだ。


しかし、僕はというとそういう親父のこだわりとあまり対峙してこなかった。

高校生の頃はポケットベルもこっそり持っていたし、終わり頃になるとPHSも所持して不自由なく使っていた。

僕が大学に入った後も、高校にあがった妹が携帯電話を持つ持たないで散々揉めたのを聞いて、正直、親父は僕に甘かったのではと思った…。

まあいい。

そんな、僕の家族の思い出を語ることがテーマではない。


今となってみれば、そんな親父の持論がそれはそれで正しいことなのだなあ。ということなのだ。

どんなに文明が発達しようとも、大切なことは直に人と人が出会っていることなんだなあ、と最近ますます思うに至る。


とくに僕という人間は記憶がそう長く持たないから、どんどん、どんどん、いろんなことを忘れていってしまう気がして自分でも恐くなる。

いや、アルツハイマーとかではなくて、あくまでその時その時に感じた感情を忘れていってしまうのだ。

時計の針のようにきちりと感情がめぐり戻るのならいいのだけどね。

僕がそんなことを疑い出すと、また人もそうであるように感じ、それは恐いことなのだと思うのです。


そんなことを考えていたら、こんな文章を思い出したので引用して今日は終わりにしてみましょう。




人間の実相は刻々と変わってゆく。

無限分の一秒前よりも 無限分の一秒後には、

無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。

だから肝心なのは、想う相手をいつでも胸の中に抱き締めていることだ。

ぴたりと寄り添って、完全に同じ瞬間を一緒に生きていくことだ。

ニ本の腕はそのためにあるのであって、

決して遠くからサヨナラの手をふるためにあるのではない。



                    「愛を引っかけるための釘」中島らも

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)
中島 らも
集英社

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デンマークの自立した女性?

2005年01月08日 | 男と女
デンマークのとあるエコハウスでの会話(少しだけ設定を変えさせてもらいました)


若いヒッピー風の母が現れ話し出した。

「ハシシがあるから吸わないかって誘ってくれているよ」

ということで、彼女を交えて5人で話をすることになる。


セビリはビールを持ってきて飲んでいる。

僕は彼女に、なぜこのエコビレッジを選んだのかと聞いてみた。

「ココには友達がいて、来たときに、ヒッピーカルチャーの感じがあって、とってもクールだって思ったの。ああ、ここでなら、過ごせるって。」

「じゃ、ここで家を建てるの?」

「そう思ってる」と。

そして、自分の子供について話をしてくれた。


昔結婚していたけれど、もう一人すごく素敵な男性が現れてしまったの。

私は両方を愛していた。

そして、それを旦那に話した。

色々話し合ったわ。そしたらついに旦那は

「OK、君がその人を好きでも、僕を愛しているのなら構わない」と言ったの。

ある時のパーティでは、私とその2人の男性と一緒に出席したこともある。でもほんと、そのときはさすがにちょっとナーバスになったわ。」


ここですかさずアンリは僕たちに

「これこれ、コレがデンマークの女性だよ。自立してるだろ?」と言ってけらけら笑う。


それから、新しい彼との間に子供ができて離婚したの。

でも新しい彼は昔の彼女とよりが戻っちゃって。

で、今私は色々混乱状態にあったけど、今こうしてここででゆっくりしているの。ちょっと疲れたしね。」

そう言ってにっこり笑いながら、マリファナをゆっくりと吸いこんだ。


私は思う。

女の自立ってのは壮絶なものだなあ、と。

さいとう・たかを―女性論―

2005年01月05日 | 男と女
『ゴルゴ13』の作者さいとう・たかを氏の50年に及ぶ劇画人生を回顧して語られたエピソードの中で、なかなか興味深いものがあったので、紹介します。


さいとう氏は、女性を描くのが苦手だという。いや、苦手と言うよりも、男には女性は描けないとさえ言い切るのである。

男に女性が描けないというのは、女性が―男性の上位にいる生き物―だからだそうである。

生物の根源は女であり、男は女性のついでにいる。

そして、女は―母親―になるけれど、男は―父親―にはなれない。また、子どもというのは、―男と女の間―にいるのではなくて、つねに―女の向こう側―にいるのだとも言う。

さらに、さいとう氏によれば、女性は、男を生んで初めて母親になるもので、女の子を生んでも、まだ本当の母親になったとは言えないのだそうだ…。


だそうです…。

ジェンダーとかかじった人に聞かれたらエライ怒られるかもしれませんね。一見、女性上位のようで、極めて男性上位な考え方のようにも思えます。

でも、僕はこの考えってあながち間違ってないと思うのです。

いくら男女平等だって言っても男には子どもを産むことはできないのです。

腹を痛めていない男はどこかでほんのちょびっとだけ疎外感を持つはずだと思うのですよ。

(たとえ、母性愛が本能でないとしてもです。)

男を生まなければ母親にはなれないっていうのは、時代錯誤な感もありますが、その辺は僕になにかを言う資格なんてないので言いません。

まあ、資格の話をしたらきりがないですけど。


ただ、まあ、なんとなしに思うことなんですけど、ジェンダーやらなんやらで女性の立場を保護する風潮が著しい昨今ですけど、そもそも女って男よりも強い生き物だって皆さん知ってます?

生物学的に言っても、最初に誕生するのは女であることは知ってますよね。受精卵が分化を始め、最初に出来上がるのは女です。その際に男になれ、という脳からの指令を何度か受け、やっとこさ男はできあがるのです。

つまり、基本は女なのです。

また、女は遺伝子的にも安定していいます。XX染色体とXY染色体という、ホモとヘテロの関係はホモ関係の方が安定するらしい。(教授がそう言ってた、という根拠しかないけど)

出産時の乳児死亡率も男の方が高く、自殺者の割合も男が高い。

寿命は女が長く、精神的成熟度も女の方が早い。

確かに力の差は男の方がありますが、それってこの現代社会で無意味では?

なーんてね。

ゴルゴにとっては敵なしですけど。




カナダ鴨のように

2004年12月26日 | 男と女
それは頭に最初に浮かんだたとえだった。

というのも、なにしろ彼はそのころしょっちゅう鴨たちのことを考えていたからだ。


鴨たちは一生に一度だけ結婚するんだ。

人生の最初の頃に伴侶を選んで、そのままいつもいつも一緒にいるんだ。

もしどっちかが先に死んだりしたら、その相手は二度と再婚したりしないんだ。

その鴨はどこかで一人きりで生きていくんだ。

あるいは群れの中で暮らしていくことだってある。

でも、その鴨は、たとえ仲間たちと一緒に行動したとしても、ずっと独身のままひとりぼっちで生きていくんだ。



哀しい話しね、と少女は言った。

そんな風に仲間たちと一緒にいながら、一人孤独に生きていくということの方がきっとずっと哀しいでしょうね。

自分一人きりで生きていくよりもね。


哀しいことだよ、と少年は言った。でもそれが自然というものなんだ。


                    『隔たり』レイモンド・カーバーより
ファイアズ(炎) (村上春樹翻訳ライブラリー)
レイモンド カーヴァー
中央公論新社

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この短編はある父親が娘と対話するシーンから始まる。

娘はもう大きくなり、物事の分別もつくようになり、一人の大人の女性になった。

そんな娘が父親に尋ねのは、昔の父と母との物語だった。

どうして二人の間に隔たりが生まれたのか、それを娘は知りたがっていた。

男が話し始めたのは、まだ二人が若く、愛し合っていた頃のある夜の出来事だった。

話が終った後でも、娘はしばらく自分の疑問が煙に巻かれてしまったような気分になる。

しかし、しかるべき後、娘はある了解を経て、自分の疑問をしまい込むことになる。

男の話の中に見いだした、夫婦の隔たり。

僕は夫婦という二文字を思うとき、いつでもこの『隔たり』が頭をよぎる。※

過去を美しく再構築することは誰にでも必要なものではあるが、過去は厳然として変わりえない。

娘が本当に知りたかったことは、自分がきちんと愛されていたという証明だったのかもしれない。

機会があればあなたも一度読んでみて下さい。


※ちなみに夫婦に関する言説は勝手な僕の思い込みですので、結婚されている方はたわごとだと思ってください。結婚生活を云々かんぬん言いたいわけではないのです。。









開店休業

2004年12月05日 | 男と女
猫の手さえも貸したいくらい、人は大変忙しいのに、僕の周りは誘惑だらけ嬉しいね。

今日も朝からテレビとビール、君はそれをプー太郎と言うけど、いつも傍にいるだけ君を愛してるよ。

言葉は大切だね。

仲直りの情事、君はとくにきれいさ。

今日はとっても天気がいいよね。

おまけに鳥も泣きじゃくりだし、そんな日には午後からそうね熱海にでも。


たまには休まなきゃね。退屈の向こうで出るものは出るのさ。


大きな雲が流れてゆくよ。小さな声の虫も死んでいく。

いつも傍にいるだけ、だけど愛してるよ。


今日はとっても天気はいいけど、朝から君は泣きじゃくりだし、

そんな日には二人でそうね、熱海にでも。

僕の周りは誘惑だらけ、嬉しいね。



                           『開店休業』ユニコーン