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阪急中津駅高架

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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榎原杏奈さん

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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阪急中津沿線

2010年03月13日 | 河原実乃梨 榎原杏奈 鍛冶沙都紀

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毒殺未遂犯の女中が毒蛇穴に・・・という加賀藩御家騒動

2010年03月12日 | 池波正太郎 江戸時代

 個人的にはお家騒動の筆頭といえば以前紹介した薩摩藩のお由羅騒動だと思うのですが、一般的には加賀藩の御家騒動ということになっているようです。 どこの藩においても当主争いを巡らす2派閥があれば騒動はつきものですが、真実がわからない場合は、後に色々な想像が付け加わって歌舞伎や講談に仕立てられていくようです。 ここに紹介する御家騒動もそのひとつで、毒殺未遂事件の実行犯で楊姫付きの女中の中臈浅尾はなんと数百匹の毒蛇を入れた穴に裸で押し込められ刑の執行が行われたと伝わるもの。 そういう伝説もあって3大騒動となるのであるが、実のところは証拠も無く毒蛇とは関係はなさそうである。

 加賀藩といえば120万石を誇る大大名であったため、江戸幕府はその力を削ぐことに力を注いできた。 目付役の本多家は背後に幕府の威光を背負い前田家を監視し、加賀藩の運営の主たる重臣となっていた。 こうした中で第5代藩主となった前田綱紀は藩主独裁体制をめざした藩政改革に取り組んだ。 しかし加賀藩の財政は百万石の家格維持で悪化し、領内の金銀山も不振を極めた。 1723年藩主・綱紀が隠居し、綱紀の三男・吉徳が藩主の座に着くと、吉徳はより強固な藩主独裁をめざして側近に御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を抜擢する。 吉徳・大槻は藩主独裁体制を目指す一方で藩の財政改革にも着手する。 大槻は、新税設置、公費削減、倹約奨励を行い、財政の悪化を食い止めたことから益々吉徳は大槻を厚遇した。 すると、既得権を奪われた門閥派の重臣や倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満は募ることとなる。 1745年大槻を支え続けた藩主・吉徳が亡くなると、翌年大槻は閉門蟄居を命ぜられ五箇山に配流となる。

 吉徳逝去の後、嫡男の前田宗辰が第6代藩主となるが、わずか1年半で宗辰も亡くなり、異母弟の前田重煕が藩主の座を継いだのであるが、1748年 藩主・重熙と前藩主・宗辰の生母で現藩主・重熙の養育も務める浄珠院の毒殺未遂事件が起こった。 吉徳の娘・楊姫付きの女中であった中臈浅尾の犯行と判明し、主犯は吉徳の側室・真如院であった。 実子・前田利和を藩主につけることを狙った暗殺未遂であった。 又、真如院は大槻伝蔵と不義密通があったとして詮議が進み、同年大槻は五箇山の配所で自害する。 この騒動により女中の中臈浅尾は死罪、真如院と利和は閉門となり、大槻一派に対する粛正(加賀騒動)は1754年まで続いたという。 大槻伝蔵は主君・前田吉徳を裏切り、真如院と通じたことから生まれた前田利和を藩主に仕立てようと企て、加賀藩おとりつぶしの危機に瀕したところを保守派の前田直躬が救ったという話もあるが、大槻伝蔵にとっての最大の庇護者であり主君の前田吉徳を裏切るはずはなく、重熙・浄珠院毒殺未遂事件は大槻伝蔵を陥れようとした前田直躬によるものと考えられる。

在(金晴院)     
 ┣知好1590-1628     
前田利家1539-1599(金沢藩主初代)     
  ┃┃┣利長1562-1614(加賀藩主初代)
  ┃┃┃┣-
  ┃┃┃永姫1574-1623(織田信長娘)
  ┃┃┣利政1578-1533(前田土佐守家初代)
  ┃┃┃┗直之1604-1674(前田土佐守家2代)
  ┃┃┣摩阿姫1572-1605(豊臣秀吉室)
  ┃┃まつ(芳春院)1547-1617
  ┃┃  
  ┃┣利常1594-1658(加賀藩主2代)
  ┃┃ ┣光高1616-1645(加賀藩主3代) 
  ┃┃ ┃┃正室:摩須(保科正之娘)
  ┃┃ ┃┃ ┣-
  ┃┃ ┃┣綱紀1643-1724(加賀藩主4代) 
  ┃┃ ┃┃ ┃正室:松(徳川綱吉養女)
  ┃┃ ┃┃ ┃ ┣-
  ┃┃ ┃┃ ┣吉徳1690-1745(加賀藩主5代) 
  ┃┃ ┃┃町姫 ┃┃┣宗辰1725-1747(加賀藩主6代)
  ┃┃ ┃┃   ┃┃側室:伊与(浄珠院)⇔前田直躬1714-1774(前田土佐守家5代) 
  ┃┃ ┃┃   ┃┣重煕1729-1753(加賀藩主7代)   
  ┃┃ ┃┃   ┃側室:民(鏑木氏・心従院)
  ┃┃ ┃┃   ┣前田利和1734-1759
  ┃┃ ┃┃   ┣楊姫(佐竹義真正室)
  ┃┃ ┃┃   側室:真如院
  ┃┃ ┃┃   ┣-
  ┃┃ ┃┃   大槻伝蔵1703-1748(吉徳重臣)
  ┃┃ ┃大姫(徳川家光養女)清泰院 
  ┃┃ ┣利次1617-1674(富山藩主初代) 
  ┃┃ ┃┣前田正甫1649-1706(富山藩主2代)
  ┃┃ ┃┃ ┣利興1678-1733(富山藩主3代)
  ┃┃ ┃┃須磨
 ┃┃ ┃八尾
 ┃┃┏珠姫1599-1622(天徳院 秀忠次女)
 ┃┃┗千姫
 ┃寿福院1570-1631
  ┣利孝1594-1637
お幸和(明運院)

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田沼意次にみそめられた秋山小兵衛

2010年03月11日 | 池波正太郎 江戸時代

 十代将軍・徳川家治の寵愛を受けた老中といえば田沼意次である。 もともと田沼意次は家重の息子・家治の側衆にすぎなかったのであるが、死に際して家治に重用するようにとの遺言を残したのである。 家重は田沼意次を抜擢し大名にすると、家重が将軍になったときには小姓組番頭となり側用取次(側用人)として老中と将軍の連絡役を行った。 そして1761年に病弱であった家重がなくなった後の10代将軍・家治の時代には最大の権勢を振るったのである。 これは5代将軍・綱吉の時代の柳沢吉保や、6代将軍・家宣の時代の新井白石が将軍の死とともに権力の座から去っていったことを思えば異例のことである。 家重の遺言を守った家治は田沼意次を老中兼、側用人という特別の地位をあたえた。 これは江戸幕府史上最高の権力といえる。 家重・家治の時代に行われた改革には田沼意次の改革ともいえる、税制改革がある。 吉宗の享保の改革をはじめとした寛政の改革、天保の改革に比べると評価は低かったのであるが、それは結局成果が得られなかったことと、松平定信に影響されていることが挙げられる。 松平定信は8代将軍吉宗の孫にあたり、父は御三卿の田安徳川家の初代当主である。 祖父である吉宗の享保の改革をさらに進めた寛政の改革を行い、税制的には庶民をさらに苦しめ、幕閣からも批判されることとなり最終的には政界から去るのであるが、 定信の「商は詐なり」 の政治が庶民を苦しめたのにたいして、田沼意次の税制改革は、「商人たちに課税をしよう」というものである。 もちろん松平定信にしてみれば田沼意次は大悪人であり、意次の子・意知も同様の扱いであった。 そしてついに田沼意知は江戸城内で暗殺されることとなる。 当時意次は老中、意知は若年寄であったが、もともと田沼家は紀伊徳川家の鉄砲足軽であった。 この成り上がりが旗本の逆恨みをかって暗殺されたのである。 つまり開国を目指していた田沼親子は松平定信に失脚させたれたのである。 1786年、将軍家治が死去すると、死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は失脚する。 この動きには、反田沼派や一橋家の策謀があったともされている。 家治時代の加増分の2万石を没収され、大坂、江戸屋敷の明け渡しも命じられた後、意次は蟄居を命じられ二度目の減封を受ける。 意知は既に死去していて、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助がかろうじて家督を継ぐことを許されたのであるが、柳沢吉保や間部詮房が辞任のみで家禄も維持し続けたことに比べると苛烈な末路となった。

 さて、ここから本題である。 田沼意次は武芸を奨励していたため、無外流の達人秋山小兵衛に何かと目を懸けた。 秋山小兵衛には息子秋山大治郎がいて田沼家屋敷内の道場を任せられ、田沼意次の妾に産ませた娘・佐々木三冬を娶った。 秋山親子は戦国の世と違って武士にとっては平穏な徳川時代において、剣術を生業として生きるのである。 実はこれ、『剣客商売』といって、池波正太郎により描かれた小説でTVドラマ化もされている。 主役である無外流の老剣客・秋山小兵衛には藤田まことが扮してしたが、つい先日お亡くなりになって大変残念である。 因みに秋山小兵衛の息子・大治郎の妻である女剣客・佐々木三冬、つまり田沼意次の妾腹の娘は結婚前は一刀流・井関忠八郎の弟子で、井関道場の四天王の一人といわれる剣の達人であったが、妾に産ませた娘ということもあって田沼の屋敷ではなく、母方の叔父である書物問屋・和泉屋吉右衛門が持つ根岸の寮に老僕の嘉助と暮らしていた。父への反発もあり何事にも肩肘を張った性格で、自分より弱い者の夫になる気は無いとして、田沼意次からの縁談は断っていた。 結婚後は男装をやめ、帯は細く水木結び、若衆髷は髪を後ろに垂らし先を紫縮緬で包むという特徴的な風俗に変化させた。 因みに三冬役は女優の大路恵美がやっており、わたしの家の近くのお好み焼きやの娘でもある。(これはほんとうの話)

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大久保利通と精忠組

2010年03月10日 | 幕末

 精忠組とは薩摩藩主・島津斉彬が他界したあとにその遺志を継ぐ目的で密かに結盟された組織である。 お由羅騒動で頭角を現した西郷隆盛を盟主とし、大久保利通ら下級城下士らが組織したのではあるが、表立った決起などはなく精忠組の名も後に呼ばれたものである。  

 大老・井伊直弼は勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結び、将軍継嗣問題も慶喜を退けて紀州慶福に決定する。 この井伊直弼の強圧政治に対して島津斉彬は幕政改革に乗り出した。 そのさなかに島津斉彬は他界し、西郷の盟友である橋本左内が捕らわれ、安政の大獄の恐怖が広がるなか、西郷は熊本藩家老の長岡監物に協力を求めた。  安政の大獄期、僧月照とともに入水した西郷隆盛(蘇生後、奄美大島に潜伏)を盟主的存在とし、大久保利通らの下級城下士らが主導して水戸藩と共に大老・井伊直弼を暗殺し京都への出兵しようと「突出」を計画したが、藩主・島津茂久およびその父で後見役の島津久光から抑制されて頓挫する。 結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。 久光はその後、いわば御家騒動の敵ともいえる精忠組の取り込みを図り、大久保らを側近として抜擢した。 1862年に久光は、精忠組の主張する「突出」に代わって、幕府改革を企図した出兵を実行に移す。 しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木和泉・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携して、孝明天皇奪還計画などに加わった。 有馬らが集結する旅館寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂したために精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生したことで精忠組は事実上崩壊することとなる。

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中条友莉さん

2010年03月09日 | 中条友莉 中島遙 永井愛里 なすたろう

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薩摩藩跡継ぎをかけたお由羅騒動

2010年03月09日 | 池波正太郎 江戸時代

  島津17代当主・島津義弘は島津貴久の次男として生まれ、足利義昭から諱を賜って義珍と改め、更に義弘と改めた。 豊臣政権にはは協力的で1592年、1597年の二度に渡る朝鮮出兵に参加し、敵兵38717人を討ち取ったといわれる。この勝利により、島津軍は「鬼石曼子」と呼ばれて恐れられ、武名を明にまで轟かせたという。徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評しており、島津恐るべしの思いを強くしたといわれる。  後に関ヶ原の戦いでは西軍に参加し徳川軍に破れたときに敵中突破を果たして退却した。薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川との対決姿勢を図り、国境を固める一方で全知全能を傾けて徳川との和平交渉にあたり、1602年島津本領安堵は決定されると義弘の三男・島津忠恒(長男・久保は文禄の役で陣没、次男は夭折)への家督譲渡が無事承認された。

 この時代から約250年後に再び島津藩に登場したのが島津斉彬(11代薩摩藩主)で、 尊王攘夷という国民運動ともいえる流れのなかで、開国・近代化を具体的に推進した。 外国人を先生にして技術を学び交易を結ぶことが祖国を売る裏切り者とする風潮が高まり、開国論者が暗殺されるという危険な状況のなかで道を開いた。黒船の大砲に対抗するために、溶鉱炉の建設から始め、蒸気機関によるわが国最初の軍艦・汽船を作り交易を盛んに行ったが、これを薩摩だけにとどめることなく日本全体のものにする構想を持っていた。 幕府は井伊直弼を大老にして開国し強引な弾圧によって反対派を抑えようとしたが、後に安政の大獄という形で井伊直弼は暗殺される。 島津斉彬はこれを阻止しようと挙兵を決意し、西郷隆盛を先遣隊として準備を整え、自らは3千の将兵を率いて上洛しようとしたのであるが真夏に赤痢で急死した。 藩主ひとりが赤痢で急死するのもおかしな話で、薩摩の現体制を保守すべきとする旧勢力によって毒殺されたという説もあるという。

 さて、本題の お由羅騒動であるが、これは幕末に薩摩藩でおこった御家騒動で別名高崎崩れともいい、島津斉彬の藩主妨害を願った家臣により起こされた騒動である。 お由羅の方・島津斉興の側室はわが息子・久光の藩主襲着を謀って正室出生の斉彬廃嫡を目したことが事件の原因ではあるが、祖父であり8代藩主・島津重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や重臣達が久光を後継者にと望んでいたのが実情とされる。 久光擁立派は、島津重豪同様、「蘭癖大名」と見られていた斉彬が薩摩藩の財政を悪化させるのではと恐れていたと見られる。 実際、薩摩藩の緊迫した財政を立て直すのに島津斉興は功があった。 また、後に島津斉彬は評価されるが、当時は開国の名のもとに藩財政を圧迫する浪費ばかりを行っていたのも事実である。 それに対して倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する江戸幕府は、西洋の事情に明るい斉彬の藩主襲封を望んだのである。 斉彬亡き後の維新時の薩摩藩の開国のための膨大な資金繰りには難儀を極めたのも事実である。  お由羅の方は我が子・久光擁立を計った家老・調所広郷の遺児を密かに側用人として支援し、一方斉彬は多数の子女を儲けていたもののその多くが幼少の内に死亡し、生き残っていたのは女子3人だけであり、久光の子女が無事に成長していたのとは対照的であった。 斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣をこれを理由として排除しようと計った。 この薩摩藩の跡継ぎをめぐった騒動をお由羅騒動という。 こうした中で、西郷吉之助(後の隆盛)は、父・吉兵衛から赤山靭負の切腹を聞き、斉彬の襲封への志を強く願い、一方、大久保利通も父・利世が鬼界島に遠島になり生活に困窮したことから島津斉彬派として活躍することとなる。 考えてみれば、お由羅騒動がなければ後に開眼する西郷隆盛や大久保利通は無かったのかもしれない。

16代島津義久1566-1587       
 ┗17代義弘━18代忠恒(初代薩摩藩主)━2代光久━3代綱貴━4代吉貴━5代継豊┓      
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛        
┗6代宗信━7代重年━8代重豪┓        
┏━━━━━━━━━━━━━┛        
┣広大院1773-1844(11代徳川家斉正室)     徳川宗尹┓
┗島津斉宣1774-1841(第9代薩摩藩主 母:春光院 養母:保姫)
 ┣島津斉興1791-1859(第10代薩摩藩主) 
 ┣┃┃━島津忠剛1806-1854(今泉家10代当主)     
 ┃┃┃  ┃┃     ┣忠冬1824-1859(今泉家11代当主)  
 ┃┃┃  ┃┃     ┣久敬1829-  
 ┃┃┃  ┃┃島津久丙 ┣一1836-1883 
 ┃┃┃  ┃┃  ┗お幸(島津久丙娘)-1869
 ┃┃┃  ┃┣島津忠敬1832-1892(今泉家12代当主)  
 ┃┃┃  ┃河野通記娘  
 ┃┃┃  ┣お熊1838-1842  
 ┃┃┃  ┣お龍1840-1840
 ┃┃┃ 海老原庄蔵娘  
 ┣┃┃━松平勝善1817-1856(伊予松山12代藩主)
 ┃┃┃  ┗松平勝成(聟養嗣)
 ┃┃┃              貞姫(斉彬娘)
 ┗┃┃━郁姫(島津興子)1807-1850  ┣篤麿1863-1904
   ┃┃          ┣忠房1838-1873
   ┃┃ 近衛忠熈1808-1898(安政の大獄で失脚)
   ┃┃  
   ┃┃直仁親王┓
   ┃┃   鷹司政熈(関白)┓一条忠良(公卿)┓堀利邦(旗本)┓
   ┃┃   鷹司任子(天親院),一条秀子(澄心院),お志賀(豊倹院) 
   ┃┃徳川家慶1793-1853 ┣-
   ┃┃ ┣13代徳川家定1824-1858
   ┃┃実津 ┣-
   ┃┃ ┏篤姫1836-1883(近衛忠熈養女)   
  ┃┣島津斉彬1809-1858
  ┃┃ ┃┃┣夭折  
  ┃┃ ┃┃恒姫(徳川斉敦娘)1805-1858
  ┃┃ ┃┣寛之助1845-1848
  ┃┃ ┃横瀬克己娘
  ┃┃ ┣篤之助
  ┃┃ ┣暐姫(島津忠義室)1851-1869 
  ┃┃ ┣典姫(島津珍彦室)
  ┃┃ ┣寧姫(島津忠義室)1853-1879近衛忠熈養女
  ┃┃ 伊集院寿満
  ┃┣池田斉敏1811-1842
  ┃┣候姫1815-1880
  ┃┃┣- 督姫(家康次女)
  ┃┃山内豊熈1815-1848
  ┃弥姫(周子:鳥取藩主・池田治道娘)
  ┣島津久光1817-1887
  ┃┃┣忠義1840-1897薩摩藩12代藩主
  ┃┃┣久治1841-1872宮之城家15代当主
  ┃┃┣珍彦 重富家
  ┃┃島津千百子
  ┃┗忠欣 今和泉家
  ┣唯七郎
  ┣智姫
 お由羅1795-1866斉彬廃嫡を謀略(お由羅騒動)

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大坂東町奉行所跡

2010年03月08日 | 池波正太郎 江戸時代

 大阪城公園で写真撮影を行ったあとスタジオへ向かう途中で見つけたのがこの『東町奉行所址』の石碑。 城の京橋口の外、京橋通りと谷町との角屋敷で、天満橋の南詰東側にあたり、東町奉行所の東は城、西は谷町通、南の島町通りには街を隔てて籾蔵があり、小泉淵次郎が切られて大塩平八郎の乱が早まったきっかけを生んだ舞台・大坂町奉行所があったところなのである。 ここには幕府直轄地として将軍直属の大阪城代が置かれており、城代は約5万石の譜代大名から選ばれ関西の諸大名の監視に務めた。 

 大坂町奉行所の創設は1619年、幕府の畿内・西国を支配し1722年以後は、管轄範囲が和泉・播磨に拡大された。 東町奉行と西町奉行にわかれると配下にそれぞれ与力30騎と同心50人が置かれ裁判の処理、犯罪人の探索などは与力が担当する。 さて、大塩平八郎は陽明学者で、ここ大坂町奉行所で与力を勤めていた人物なのである。 そして与力であったにもかかわらず、「大塩平八郎の乱」 という幕府に逆らう事件を起こして最後は自決をした人物なのである。 代々与力を務めて禄を受けていた平八郎は清廉潔白にして不正を次々と暴くことから市民の尊敬を集めたが、奉行所を辞職すると養子の大塩格之助に跡目を譲り、自宅で洗心洞という私塾を経営したという。 与力というのは特別職とされ、一代限りの採用であるのに対して、旗本は後継が耐えない限り息子が跡を継げるところに違いがある。 しかしながら平八郎家は代々 与力職を世襲したから実力があったのだろう。 陽明学に傾倒した平八郎が引退した数年後の45歳のときに天保の大飢饉が起こった。 幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米と、豪商による米の買い占めにより大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛めた平八郎は、当時の東町奉行に対して、蔵米を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。 聞き入れられなかった平八郎はとうとう洗心洞の門弟数十名とともに米蔵を襲う暴挙にでたが、あえなく失敗におわり鎮圧された。 陽明学の本分は失敗を怖れずに実行することにある、という意味でも、また幕府の役人が町民を集めて幕閣のやり方に対して反乱を起こしたという意味後世に与えた影響は大きい。

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花井りなさん

2010年03月07日 | 花井りな 春菜 初音 Hitomi Valeria 橋本美寿

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