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東大寺大仏

2008年03月31日 | 奈良・飛鳥時代

東大寺大仏

 聖武天皇が関東へ行幸したのは740年広嗣の乱直後である。吉野宮を出発した一向400名は伊賀・名張→伊勢・鈴鹿→桑名→野上(関ヶ原・不破)→近江→恭仁京(くにきょう)に着いた。 

安積親王が急死したという恭仁宮(くにのみやこ

  

 これは大海人皇子が大友皇子と戦い壬申の乱で勝利したときの軍行に非情に似ている。壬申の乱の後を辿り、自分の心の逃避を勝利宣言に塗り替えるための行動とも読み取れる。 僧・玄坊により母・宮子の幽閉が解け、37年ぶりに再会したときには、聖武天皇の藤原氏による呪縛も解けて、藤原氏に対する反発が、この流浪へと駆り立てたようにも思える。 恭仁京は平城京の真北すぐに位置し、橘諸兄とゆかりの深い地であったと同時に背後には天然の要塞があり、平城京という藤原一族への挑戦のようにも思える。 因みに藤原不比等の所有する5000戸を朝廷に返上したのは、聖武天皇一向が恭仁京に着いたすぐ後である。400名の軍行の先頭には藤原仲麻呂が任命され、漢氏・秦氏を指名した。藤原仲麻呂は背中に槍を付き立てられ、身動きができない状態で先導さされたのを考えると思いつきの流浪でもなさそうである。そう考えたとき、藤原氏の象徴である興福寺を圧倒するかのように建てられた東大寺の意味もわかるような気がするのである。  

 741年、諸国国分寺に与えられた藤原家の諸領は仏像造りに当てられた。聖武天皇は国分寺建立の詔を発し広嗣の乱の連座者を処刑にするとともに平城京にあった兵器・官位等の諸機能を恭仁京に移した。当時藤原の最高権威であった藤原豊成が平城京の留守役を命じられたのは屈辱であっただろう。742年に恭仁京内の大安殿にて踏歌の節会の宴が開かれ五節田舞(天武天皇の血統重視の舞)が行われ、翌月には皇后宮に行幸し、聖武天皇の絶頂の様子が記録されている。 藤原氏が敗北すると橘諸兄は左大臣となり、743年紫香楽宮に逗留したあと大仏発願の詔を発した。

 大養徳国金光明寺で大仏の基壇が造り始められたのは745年8月頃である。聖武天皇が崩御する756年にはほとんど出来上がり、翌757年に完成する。大仏は民衆の協力によって完成させることを理想とするものであり、それを託されたのは行基とその集団であった。紫香楽で詔が出された直後には行基は弟子を率いて大仏造立の知識勧誘に乗り出していた。行基とともに東大寺の経営を支えたのは後の東大寺初代別当の良弁である。 良弁は689年生まれで聖武天皇の基皇太子供養のために金鐘山房に住まわされた僧の一人とされ、金鷲菩薩ともいわれた。 大仏建立により金光明寺は東大寺へと発展し、造東大寺司という組織が誕生する。 この最初の長官は施基皇子の曾孫・市原王で佐伯今毛人が支えたとされる。大仏の設計・鋳造を担ったのは国中公麻呂で、761年には造東大寺司次官になっている。

 大仏は1180年南都焼き討ちによって灰燼に帰し、白河法皇の開眼供養により復活するが1567年に三好・松永の争いにより再び崩れ落ちた。1692年の再建後は1708年に大仏殿も再建され現在に至る。 

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武家の棟梁と平氏

2008年03月22日 | 平安時代

武家の棟梁と平氏

 伊勢に本拠地を置いた平維衡を祖として伊勢平氏は登場する。平維衡は一条天皇時代に代表する在京武士であったが、平致頼との合戦などで在京武士としては生き残れなかった。 伊勢平氏の本流は正度マサノリに移るがあまり功績は残っていない。また、その子・正衡も含めて源氏の英雄である頼義、義家の景に隠れて表にはあまりでてきていない。 やがて平正衡の嫡男・正盛は白河院の恩寵を受けて北面武士になると伊勢平氏は表舞台に登場することとなる。 1092年正盛が郎党として仕えていた加賀守・藤原為房が阿波国に配流となった。翌年赦免されて帰京すると、信任を得た正盛は隠岐守に任ぜられている。1098年には受領功過定に合格して若狭守となり、これを契機に白河院の恩寵を受けるとともに、受領を重ねて巨万の富を得ることとなる。 そして院の御幸や寵姫・祗園女御への堂提供などでさらに院の歓心を引いている。正盛の嫡子・忠盛も白河院に北面の武士として仕え、18歳で従五位下に叙されている。 1129年の白河院葬儀では種々の役目を担当して、鳥羽院からも寵愛され鳥羽院北面となり、1148年には執事別当となっている。 こうして白河北院造営などの成功により切れることなく受領を歴任しさらに富を増やした。 忠盛の出世を妬んだ殿上人が豊明節会で闇討ちを計画した話は平家物語の序盤でもでてくる有名な場面である。

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武士系図

2008年03月22日 | 平安時代

清和源氏と桓武平氏系図

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)           
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
              ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃     安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃(1062前九年の役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃             ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃             ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
 ┃ ┃┃             ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃             ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘      ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-    ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┣義賢-1155(頼長侍従)   ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲 ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┣為朝1139-1170      ┣範頼
 ┃ ┃┣義元1045-1127┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃平直方娘    ┃        義平
 ┃ ┃        ┃         ┣
 ┃ ┃            ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┗義忠  ┣新田義重1114-1202    ┣
源俊娘(嵯峨源氏)    1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面) 
 
桓武天皇737-806
 ┣葛原親王786-853
 ┃ ┣高棟王804-867
 ┃ ┣高見王817-855
 ┃ ┗高望王839-911
多治比真宗  ┣平国香-935(桓武平氏祖)⇔平将門
       ┃┣平貞盛-989(平将門乱で功)
       ┃┃ ┣維将(北条氏祖)
       ┃┃ ┣維衡(伊勢平氏祖:伊勢守 一条朝の在京武士)
       ┃┃ ┃ ┗正度-1067?(越前守)
        ┃┃ ┣正輔 ┣正衡(藤原師実に近侍)
        ┃┃ ┗正済 ┃ ┗正盛-1121(源義家近侍 源義親討伐 白河北面武士)
        ┃┃     ┃   ┣忠正-1156(頼長に仕え崇徳天皇側)
        ┃┃     ┣維盛┗忠盛1096-1153(白河・鳥羽上皇近侍)
        ┃┃     ┗季衡  ┣頼盛(母:池禅尼)  
        ┃┃         ┣教盛(母:藤原家隆娘)
        ┃┃         ┣忠度(母:藤原為忠娘)
        ┃┃         ┣経盛(母:源信雅娘)
        ┃┃         ┗清盛(母:祗園女御妹)
        ┃┃        
        ┃┃
       ┃┣繁盛(常陸平氏祖 藤原師輔家人)
       ┃┗兼任
       ┣平良兼-939(母:藤原良方娘)
        ┃┣公雅━致成━致方
       ┃┗公連
          ┣平良将-917
        ┃┣将門903-940(藤原秀郷,平貞盛に討たれる)
       ┃┣将頼-940
         ┃┗将平
       ┗平良文886-953(母:藤原範世娘)
         ┗忠頼
          ┣忠常975-1031(房総平氏祖 教通に侍従 忠常の乱)
            平将門娘 ┣常将━□□━上総氏,千葉氏
                  ┗常近

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院政下の源氏

2008年03月22日 | 平安時代

院政下の源氏

 後三年の役の後、白河は天皇は源義家を天皇親政隊長とすべく期待していたが、義家にはその意思はなかった。 それを見抜いた白河天皇は後三年の役を私合戦として勲功を与えず、1106年死去するまで無官のまま放置した。 これは義家の源氏の棟梁としての力を恐れ警戒していたからである。 そして兄の活躍に隠れていた源義綱を表舞台にたたせることとなる。  義家は死去するにあたって源氏一門の将来の不安を抱いていたが、 まず1101年義家嫡男の義親が大宰府での濫行により隠岐に配流となる。 1106年義家の三男・義国と弟・義光が合戦し義家は義国の召喚を命じられた。 1107年隠岐に配流となっていた義親が出雲国目代を殺害したことで、白河天皇は近臣・平正盛を追討使として派遣し、翌年追討は成功し正盛という新たな武家の棟梁が誕生する。

 1109年義親の配流後、義家の後継者となっていた検非違使・義忠(義親の弟)が斬殺された。 源重実に嫌疑がかけられ連行されると、その弟・重時が義綱邸を襲撃して義綱三男・義明を殺害した。 このとき義綱は逃亡を図るが、白河院の命を受けた源為義が追捕に向い、義綱は投降するが後に配流先の佐渡にて暗殺される。 また、6人の子は全てこの事件で自害等々にて死亡している。翌1110年、鳥羽天皇呪詛事件などもあり左大臣源俊房一家は義綱一家とともに滅亡することとなった。

 源義忠が殺されたことにより義家の家督を継いだのは義親嫡子・為義であった。 白河・ 鳥羽院は東国武士を束ねる為義を恐れて抑圧を加え、検非違使としたのは1124年頃、従五位下としたのは55歳のときである。 これに対して嫡男の義朝は鳥羽院の近臣として熱田大宮司藤原季範娘を妻とし、待賢門院からの支持ももあつかった。 こうして義朝は義家一族を引き継ぐこととなる。

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後三年の役と源義家

2008年03月20日 | 平安時代

後三年の役と源義家

 前九年の役の勲功により清原武則は俘囚の主として鎮守府将軍に任命された。 武則はもともと清原氏の庶流であったが、兄・光頼より惣領の地位を受け継ぎ、安倍氏による奥六郡支配権を奪い取ったのである。 1070年陸奥守・源頼俊は終任にあたり、後三条天皇の親政の一環として行われてきた北海道の荒夷まで服従させたと報告する。 この征服は鎮守府将軍・清原武則の孫である真衡の功績が大きいとして鎮守府将軍に任命されたのである。真衡による奥州平定は安定し、1083年新任受領義家による初任検注も何ら妨害を受けることなく行われた。 しかし清原氏庶流から成り上がった真衡には異母弟・家衡、叔父・武衡らの反感を生むことになる。

 惣領真衡には実子がなく、庶流との緊張関係のなかで惣領家の支配的地位を維持するには海道氏から成衡を養子に迎えるしかなかった。成衡は源頼義の娘を妻とすることにより惣領家の安定を図っている。ところがこの婚儀の席で、ある事件がおきたのをきっかけに、真衡側と庶流がぶつかるのである。 庶流側の吉彦秀武(清原武則の娘婿)は同じく従者扱いされてきた清衡(源頼義に討たれた経清の忘れ形見で奥州藤原氏の祖)、家衡(清原武貞の子)を見方につけた。 こうして異母兄弟、異父兄弟間の惣領家と庶流の対決が始まるのである。

 ちょうどこの1083年に源義家が陸奥守として着任すると、清原真衡は義家に至極の饗宴を催し、吉彦秀武を討つべく出羽に向かった。 それを知った清衡、家衡はただちに真衡邸を襲撃するが、源義家に撃退されている。この間に真衡は出陣の途中で急死し、清衡、家衡が義家に投降した。 このとき義家は武則、武貞、真衡三代に渡って支配してきた奥六郡司職を召し上げ、これを清衡、家衡に与えたのである。 こうして清原惣領家は滅亡し清衡、家衡の間で緊張感が高まっていく。

 1086年、清衡邸が家衡により襲撃され妻子は殺害されると、源義家は出羽国沼柵に立て篭もる衡を軍勢を率いて攻めた。 これには義家の策略がからんでいる。 1086年は鎮守府終任の年であり、重任を望んだ義家が清衡、家衡を挑発して勲功を期待してのことであった。ところが衡の猛攻はすざまじく、義家は屈辱の中で撤退した。 武名を誇る義家はこのまま終任を迎えて帰京するわけにはいかない。 1087年戦闘準備に専念し、政府は合戦を停止させるために官使を派遣するが、義家は大軍を率いて衡が篭る金沢柵に出陣。 なかなか城は落ちる気配を見せないため、兵糧攻めに切り替えた。衡側は降伏を求めたが義家はこれに応じず、吉彦秀武の進言どおり皆殺しにしたのである。

 政府に対して武功を期待した義家であったが、後三年の役は私合戦であるとして褒賞もなく、結果的には私財を投じた義家の武勇は高まることになるが、武勇を恐れた政府(白河院・関白師実)は長きに渡って義家を陸奥前司のままとしたために、やがて源氏の棟梁としての勢力は弱まり、義家の死後源氏は分裂・衰退していくことになる。 

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前九年の役と源頼義

2008年03月16日 | 平安時代

前九年の役と源頼義

 征夷大将軍・坂上田村麻呂により蝦夷の反抗は鎮圧され、802年鎮守府が多賀城から胆沢城(いさわ)に移された。 統治は俘囚(朝廷に服従した捕われた者の意味)により行われた。 873年陸奥守阿倍貞行などはその代表といえ、俘囚首長から賄賂をとって脱税を見逃す動きが任用(諸郡に派遣された役人)に見られたときに、任用の給料から補填させることを政府に提言して認められている。鎮守府が置かれた胆沢城はこの頃堂々としたものに整備拡張され、統治のための施設になっていった。 914年には延喜東国の乱平定に功績のあった藤原利仁が将軍となり、以降高望の子孫、藤原秀郷の子孫が将軍に補任された。 武威を背景に奥六郡支配を行う陸奥守・源頼義に対して、奥六郡司・阿倍頼時(奥州藤原氏初代清衡の祖父にあたり、頼良ともいう)は業務の補佐をしている。 胆沢城と兵士制の存在は奥六郡内部の俘囚間武力紛争などを抑制する役割を果たしていたが、やがて兵士制が解体し胆沢城の紛争抑止機能がなくなると、胆沢城自身の体制も崩れて廃棄されていく。

 1036年、阿倍忠良は陸奥権守に補任された。前九年の役の主役阿倍氏の登場である。 その子息で父同様五位の肩書きを持つ阿倍頼時は、受領として土着していた平永衡、藤原経清と結びつき勢力拡大に努め奥六郡に君臨することになる。1051年陸奥守・藤原登任は安倍頼良を攻めたが、頼良は俘囚を率いて登任の軍勢を破った。登任の攻撃は国家的な追討ではなく、受領と荘園側の武力紛争である。頼良は登任の武装検注部隊を手荒な威嚇で追い払い死者を出したために起こった。 政府は登任にかえて前相模守・源頼義を陸奥守に任じて鎮守将軍を兼任させた。 頼義は忠常の乱を平定した源頼信の嫡男であり、不遇の小一条院に判官代として仕えていたため相模守に任じられていた。因みに頼義の同母弟・頼清は若くして昇殿を許され、小右記や御堂関白記にもよく登場している。 1052年の頼義の陸奥守着任のころ上東門院・彰子の病悩による大赦があり、検注を妨害した安倍頼良の罪も赦免され、安倍頼良は源頼義に忠義を誓い名を頼時に変えている。

 4年の任期が終わった1055年、頼時に見守られながら京への帰途、権守藤原説貞の子・貞光が何者かに殺傷されたが、これが安倍頼時の子・貞任の謀反とされ、政府は頼義に安倍頼時追討の宣旨を下した。 安倍頼時が篭る衣川関を目指す軍勢には頼時の娘婿・平永衡、藤原経清の姿もあった。 1057年、頼時は死去し、貞任をはじめ頼時の子たちは衣川関を閉ざして頼義に抗議する構えを示すと、源頼義は貞任追討の宣旨を受けるが、征伐軍は貞任の猛攻に逃げ帰った。1062年再度貞任追討を決断した頼義は清原光頼・武則兄弟の協力をとりつけ、追討軍のほとんどは清原氏で占められていたから、もはや謀反追討を名目とした清原氏による安倍氏打倒に代わっていた。 9年に及ぶ戦争も1064年に終わり、坂東武士に棟梁として仰がれる河内源氏の地位は確立された。 

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平忠常の乱

2008年03月14日 | 平安時代

平忠常の乱

 平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常975-1031 房総平氏の祖とも云われ 藤原教通に侍従したこともある )による反乱で、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。 有力武士の源頼信(河内源氏祖とも云われ、源満仲の子で 道兼,道長に近侍していた)が起用されるに及ぶと忠常はあっさりと降伏した。 

 平良文(高望王の子)は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に渡り関東で勢力を伸ばした。 平忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖・葛原親王以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。 1028年、平忠常は安房守平惟忠邸を襲撃して焼き殺す事件を起こし、上総国の国衙を占領してしまう。 また、上総介縣犬養為政邸を占拠して受領を軟禁し、妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。

 当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。  事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがり、右大臣・藤原実資は陣定において、源頼信(源義仲の子で源義家の祖父にあたる)を推薦した。 頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。 他の公卿も同調するが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少志・中原成道が追討使に任じられた。 直方を追討使に抜擢したのは、関白・藤原頼通だった。 直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。 常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。

 直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。郎党は内大臣藤原教通 (忠常の「私君」にあたる人物)や中納言・源師房宛ての書状を持っており、追討令の不当・中止を訴える内容だった。 政府側である 平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。 夜中にもかかわらず、見物人が集まり見送ったという。翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。

 国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。 追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。 長元2年(1029年)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。同年12月には中原成道は解任されてしまう。

  長元3年(1030年)3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭もって抵抗を続けた。乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。 同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。

 長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。長元5年(1032年)功により頼信は美濃守に任じられた。 平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。 この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。 この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。

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出石城

2008年03月10日 | 戦国時代

出石城

 山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社北側の此隅山に、此隅山城を築き本拠としたが、1569年の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。 山名祐豊は城を失ったが、今井宗久の仲介によって領地に復帰し、1574年、有子山山頂に有子山城を築き、本拠を移した。 しかし、毛利氏方についたため、1580年、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、但馬国山名氏は滅亡した。  有子山城は1585年から前野長康、1595年から小出吉政が城主を務め、関ヶ原の戦いにおいて、家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦ったが、秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。 1604年、吉英により有子山城が廃され、有子山山麓に出石城が築城され、平地に堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれた。 このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成された。

登城門                  出石城跡

 

稲荷神社参道

 

 江戸時代にはいると出石藩の藩庁となり、小出英及が1696年3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となり、代わって松平忠周が入城。 1706年忠周が転封となると、仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となった。 

仙石家老屋敷                辰鼓楼

 

山名時義(此隅山城主)
  ┣山名時煕1367-1435(足利義満から討伐を受ける)

 ┃ ┣満時 
 ┃ ┣持煕

 ┃ ┣持豊(宗全)1404-1473
 ┃山名氏清娘  ┣山名教豊1424-1467
 ┃       ┣春林寺殿 ┗政豊1441-1499
 ┗山名氏幸(養子)師義娘 ┣-   ┗致豊-1536
          細川勝元1430-1473 ┗誠豊-1528
                      ┗祐豊1511-1580
                        ┗堯熙-1612

 山名持豊は、1441年将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺されると、同年、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。 この功績によって山名氏は守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。 その後宗全は、幕府の主導権をめぐって管領・細川勝元と対立し、応仁の乱の勃発に至った。 乱では宗全は西軍の総大将として、同じく東軍総大将の細川勝元と戦ったが、乱の最中1473年に宗全は病死した。

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山名宗全の竹田城

2008年03月09日 | 鎌倉・室町時代

山名宗全の竹田城

 今回訪れたのは竹田城。 加古川バイパス途中から播但有料道路に乗り換えて終焉の和田山ICで降り、約2kmほど戻ると山の山頂にその城壁は見えます。 登山道もあるのですが、もちろん車で竹田城跡地駐車場まで向かいます。

 

 竹田城は、但馬守護大名・山名宗全 (室町幕府管領の細川勝元を相手に争い、応仁の乱を勃発させた。) が有力家臣の太田垣に築かせた城で、そのころは砦に近い形であったといいます。 現在残っている石積みの城郭になったのは廃城時の1600年頃で、秀吉の但馬攻略後に弟の秀長が 城主であった頃に大修復が行われた。 後に城主となった赤松広秀は1600年の関ヶ原戦で西軍に加担し、のちに家康に帰参するが、結局は家康の命により切腹し、赤松氏は断絶し城も廃城となった。

駐車場から城郭への上り口には山門があります

 

 竹田城は、別名虎臥城、天空の城ともいわれ、縄張りは、南北約400m、東西約100mで、天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。

花屋敷からみた城郭

 

 総石垣造りの近世城郭は織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。 応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢により撃退するも、羽柴秀吉による、1569年および1577年の但馬征伐により落城する。 その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀が城主となり、秀長が出石の有子山城主になると、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。 そして桑山重晴が和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀が城主となる。  赤松広秀は城下の大火の責めを負い家康の命によって、1600年12月3日鳥取真教寺にて切腹し、竹田城は廃城となった。

花屋敷からの眺めが絶景です 

 

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聖武天皇芳野行幸

2008年03月08日 | 奈良・飛鳥時代

聖武天皇芳野行幸

 736年6月、聖武天皇は芳野行幸を行っている。 平城宮に戻ったのは翌月で、延べ16日間に渡り、過去2回に比べると異例の長期であった。  また、この行幸は11年ぶりのもので、この行幸の目的は前年流行した天然痘が依然とおさまらないために、鎮める目的があったことが木簡から窺える。 右の木簡には「南山之下有不流水其中有\一大蛇九頭一尾不食余物但\食唐鬼朝食三千暮食・八百」 との記載がある。 南山に住む九頭一尾の大蛇に唐鬼、つまり天然痘を食させて流行を食い止めようと願った呪符であると察せられる。 この時期に祈願のための行幸を行う必要があったということは、天然痘の猛威は衰えていなかったことを意味し、今までいったん下火になったと考えられていたが、実は736年も流行は収まるところを知らなかったのかもしれない。

(左)・芳野幸行貫簀・天平八年七月十五日

(右)南山之下有不流水其中有\一大蛇九頭一尾不食余物但\食唐鬼朝食三千暮食・八百○急々如律令

        

 この頃、光明皇后は多数の財物を法隆寺に施入しており、733年の母・県犬養橘宿禰美千代の死が関係していると思われる。 県犬養橘宿禰美千代は天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦として仕えた。 700年ごろに藤原不比等と結婚し、前夫の美努王との間に生まれた牟漏女王が不比等の次男・房前の夫人になっていることも縁の深さを感じさせる。 三千代は721年に元明天皇の病気平癒を願って出家しており、光明皇后の仏教信仰は三千代の影響がおおきい。

 一方、聖武天皇は藤原四兄弟の死で、恭仁京の造営を考え、740年平城京を旅立っている。741年恭仁京で元日朝賀の儀式を行っているが幕で周囲を囲む有様で大極殿もできていない。この恭仁京の造営で労働力として注目されるのが行基率いる在家の仏教信仰集団である。 743年に大極殿の移築が完了し準備は整ったが、恭仁京の大きさは平城京の三分の一程度というから、平城京と両者一体で機能していた。 741年には聖武天皇の命により国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺)建立の詔が発せられた。 

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徳川家康

2008年03月08日 | 戦国時代

徳川家康

 徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した。しかしそれは石田三成派が崩壊したに過ぎず、多くの豊臣派はまだ生き残っている。 家康が徳川家の基盤を確固たるものにするために行ったのは大名の領地の加封減封である。 またこのときに豊臣家の直轄領220万石を横領して65万石とすることで、全国の石高1850万石のうち780万石を手中にし、関ヶ原での功労者に分け与えた。 黒田長政は52万石、山内一豊は24万石、結城秀康は75万石、池田輝政も52万石、加藤清正、福島正則もそれぞれ54万石、50万石とした。 このとき前田利長も36万石を加封し120万石となり、加賀百万石といわれるようになる。 また譜代大名の設立を行った。 本来譜代大名とは先祖代々仕えた家来大名の意味であるが、関ヶ原の戦い前に徳川に従っていたものを譜代大名と認めた。 これにより180の大名のうち役60の大名が譜代となった。 こうして徳川派の支持を固め、朝廷から征夷大将軍の宣下を受ける方向へ進めた。 かくして1603年家康は伏見城にて将軍宣下を受けた。 

 この半年後、三男・秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせると、江戸へ戻り諸大名の負担により大都市への改造を行った。 1605年、将軍就任後二年にして息子秀忠に将軍職を譲ると、秀忠を二条城に入らせ、大阪城の淀殿・秀頼に二条城に上洛するように命じる。ところが淀殿の強硬姿勢により、家康は豊臣家を滅亡に導く決意を固めるのである。 淀殿の姿勢を和らげようと奔走したのは加藤清正、浅野幸長である。 1611年、家康が居城である駿府を出発し上洛したとき、清正らの説得でやっと秀頼は家康との対面を果たす。 ところが対面直後に清正は肥後熊本への帰国の途中で病死するのである。 また対面に奔走した浅野幸長も1613年に38歳で亡くなった。 秀吉派のこれらの勇士が次々と亡くなったことで豊臣家の滅亡が現実のものとなっていったのは云うまでも無い。

 またこの頃、家康は膨大な豊臣家の資産を浪費させている。 つまり秀吉の供養と称して多くの寺院を復活させ、方広寺の再建や、大仏殿の鐘である大梵鐘も鋳造され、1614年にはほぼ完成していた。 梵鐘に刻まれた「国家安泰君臣豊楽」の銘文が問題となり、弁明の使・片桐旦元が結果的には徳川家の陰謀にはまって豊臣家から10月退去したのであるが、 家康にとってのこの契機が大阪攻めを決断させることになる。 大阪冬の陣である。 この戦いで大阪側に味方した大名は一人もおらず、味方は所領を失った関ヶ原の敗者のみである。 ところが徳川の総攻撃にもかかわらず落城する気配は無く、逆に真田幸村の巧みな防戦により豊臣方が勝っていたのであるが、大阪方からの講和申し出により豊臣家は命取りとなる。 1614年12月から翌年にかけて秀忠の指揮の下に大阪城の堀が全て埋められたのである。 淀殿は家康の要求を断固受け入れなかったことから5月になって本格的な戦い・大阪夏の陣が始まった。 このときは流石の真田幸村も奮闘するものの、数に勝る徳川連合軍におされて討死を遂げたのである。 燃え上がる大阪城から奇跡的に助け出された千姫が祖父家康のもとに辿りついたのは有名である。 やがて淀殿と秀頼は最後まで付き添ったわずかな近臣とともに自害した。 秀頼には二人の子がいたが、男子は捕らえられ六条河原で首をはねられたが女子は後に東慶寺の住持となった天秀尼である。

 豊臣秀吉の跡をついで天下経営に乗り出した家康は御三家を設け徳川家を拡大していく。 一方で諸大名の統制をはかるために 「武家諸法度」をつくり大名を改易させやすくする。 改易とは御家とりつぶしを意味し、豊臣家臣であった福島正則は広島城の修復を幕府に届け出ずに行ったということで豊臣家滅亡直後に取り潰しに会っている。 同様に熊本の加藤家も取り潰された。 浅野長政を藩祖とする浅野家は、浅野長政の妻・ややが北の政所・ねねと姉妹であり豊臣系大名の筆頭である。 後に分家である赤穂浅野家が 「忠臣蔵事件」を起こすが、広島の本家浅野家は分家を冷たくあしらい徳川家に忠臣の姿勢をみせたのである。 参勤交代制では江戸の防衛を諸大名が交代で行うのであるが、 これにより諸大名経済力を低下させて徳川家の安泰を狙ったともいえる。 加賀百万石の前田家や独眼流・伊達政宗でさえ御家の取り潰しを恐れ軍事態勢は弱体していった。 

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藤原麻呂家令木簡

2008年03月04日 | 奈良・飛鳥時代

藤原麻呂家令木簡

 717年巨勢麻呂、石上麻呂、719年粟田真人、720年藤原不比等と相次いで他界すると長屋王、安倍宿奈麻呂が大納言に命じられた。 721年には長屋王が右大臣となり長屋王政権が誕生し、 722年政権による政策として(1)陸奥出羽 按察使管内の調・庸を免除(2)百万町歩開墾計画(3)公出挙、私出挙の利息を三割に軽減(4)鎮所への兵糧運搬奨励 等々を出した。 724年首皇子が聖武天皇として即位すると長屋王は左大臣に昇進し、聖武天皇、藤原氏との関係は極めて良好である。 このようななか、727年に聖武天皇と光明子との間に皇子が誕生したのは安倍内親王以来9年目のことであった。 ところが皇子は翌年728年この世を去ってしまった。 729年、2月元興寺で行われた法会において長屋王と仏教信仰者との間で問題が発生した。 その2日後に六衛府の兵が長屋王邸を囲んだ。 兵を指揮したのは藤原四兄弟の三男宇合で、翌日舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂、少納言巨勢宿奈麻呂らが長屋王邸を訪ねたのである。 長屋王にかけられた罪状は国家転覆罪、つまり聖武天皇を呪詛したというものであった。 事の起こりは前日の密告で、その密告者は従七位下・漆部君足、漆部駒長と無位の中臣宮処東人であった。 長屋王への処断は過酷を極め、翌日長屋王は自宅にて毒をあおり、妻・吉備内親王や三人の息子とともに自殺した。

 長屋王の変は明らかに、当時政権を担う長屋王の台頭を危ぶんだ藤原四兄弟の画策にようるものと考えられており、変後は藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂による藤原四子政権体勢が固まっていくのである。  729年聖武天皇の夫人光明子が皇后になった。臣下の女性が天皇の正妻として皇后になったのはこれが最初である。光明子皇后を布告した聖武天皇の勅は極めて歯切れの悪いもので、この立后に不審をいだく人々は多くいたと思われる。 皇后は内親王から選ばれなければならないという原則を長屋王が主張することを見越し、 聖武天皇と光明子の子孫が絶えた場合に長屋王が有力な皇位継承者であることを疎ましく思った者の狙いが、長屋王の変に現れている。

 光明皇后の住居・皇后宮については藤原不比等の邸宅の後身である法華寺であるといわれてきた。 光明子が太子と居住を構えたのは不比等の邸の一郭であったことから皇后宮もそこにあったとされていたが、1988年長屋王木簡の発見の頃、長屋王邸正面の二条大通りの遺構から光明皇后に関する木簡群が発見されたのである。 藤原麻呂の家政機関に関わる木簡の差出元は「中宮職」で、これは聖武天皇の実母・藤原宮子の庶務機関である。 あて先は「兵部省卿宅政所」 で、当時の兵部卿は藤原麻呂であるから、藤原麻呂の家政機関ということになる。 木簡には19人の名前 (池辺波利・太宿奈万呂・杖部廣国・秦金積・大鳥高国・川内馬飼夷万呂・日下部乙万呂・太東人・八多徳足・村国虫万呂・東代東人・山村大立・史戸廣山・大荒木事判・太屋主) が列挙され、これは宮子付の中宮舎人と見られる。 この木簡群は二条二坊の南面に集中しており、 これはここが藤原麻呂の家政機関であり藤原麻呂邸であったことを物語っているのである。

藤原麻呂の家政機関の中宮職移木簡

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長屋王家木簡

2008年03月02日 | 奈良・飛鳥時代

木簡からわかる長屋王

 平城宮の南東隣接部の一等地で1987年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が浮かび上がったのである。 翌1988年には掘削予定ではなかった住宅地の端で土に埋まった木簡が発見されたが、それは約3万5千点に達するものであった。 当時、紙は貴重なものであったから、荷札、メモ等々は木簡といわれる木の札に記載されたのであるが、発掘現場が長屋王の住居であったという決定的な証拠となったのは「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡である。 これは宮廷の音楽を担当する雅楽寮から長屋王の家政機関の長官に宛てたものであるが、家政機関(家令)というのは親王及び職事のうち三位以上の諸王・諸臣に対して国から与えられた家政担当の組織である。 雅楽寮が発掘現場であるはずはないことから、現場が長屋王の邸宅ということになった。 長屋王の家令の名は赤染豊嶋、年齢60歳であった。 壬申の乱の時に高市皇子の従者として活躍した赤染徳足の息子が赤染豊嶋である可能性は高く、高市皇子没後に息子・豊嶋が長屋王に仕えることになったと考えられる。

長屋親王宮鮑大贄十編        雅楽寮移長屋王家令所

           

 祖母が九州の豪族・胸形氏の出身であったために天武の第一皇子であったが皇位に就くことはできなかったが、母は天智天皇の娘・御名部皇女で元明天皇の異母姉にあたる。 正妻は元明と草壁皇子の娘・吉備内親王で膳夫王、葛木王、鉤取王らの息子がいる。 吉備内親王との結婚は703年頃で、704年に初めて歴史に登場する。 そのときの叙位は正四位上であり29歳にしては異例に遅い。 これは皇位継承資格者としての長屋王の台頭を危険視したためと考えられる。 704年の叙位により長屋王は皇位継承候補者から外され、官人として歩むことになる。709年には従三位に叙せられ翌年、宮内卿から式部卿になり718年に大納言に任ぜられ天武の子世代の親王に匹敵する待遇を与えられた。 715年に吉備内親王所生の子を皇孫扱いするということは長屋王を親王扱いすることを意味する。 木簡に「長屋親王」と記されていたことは周知の事実であったのである。

 長屋王の邸宅三条二坊の四坪の敷地の内郭中央の居住空間には正殿と脇殿が建ち、天皇の居住空間に匹敵する格式を窺わせる。内郭の西宮には吉備内親王が住み、邸宅の北半分には家政機関や使用人の居住空間になっている。 また、木簡から邸宅に集まるさまざまな物資を見ることが出来る。 各地からの封戸は90にも及び摂津の塩漬け鯵、伊豆の荒鰹、武蔵野国の菱の実、美濃の塩漬け鮎、越前の栗、阿波の猪、紀伊・讃岐の鯛、など全国から珍味が送られてきている。 また、高市皇子の実家である母・尼子娘かたからのものもあり結びつきが長屋王の代になっても保たれていたことが窺える。

各地からの贈り物荷札の木簡

御取鰒(あわび)五十烈           伊雑郷近代鮨              賀吉鰒廿六貝

                

 これらの木簡から、石川夫人や安倍大刀自らの側室にも支給されていたのであるが、藤原不比等の娘・長蛾子夫人の名は全く見られないことから実家である不比等邸宅に暮らしていたものと思われる。 長屋王の多くの子供達の名も木簡に登場し、後に異例の昇進をする竹野女王(不比等の嫡男・武智麻呂の妻となる)が長屋王の妹とみられ長屋王の庇護の下にあったことがわかる。

長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡

竹野皇子二取米三升○余女   竹野王子進米一升大津/甥万呂/  竹野王子御所進粥米二升受老

                      

 

安宿王(長屋王と妾長蛾子との息子)への贈答札の木簡

北門○安宿戸○依網津○播磨○賀毛     北門○/安宿/額田∥○/紀伊/檜前

                 

 710年から717年にわたる長屋王一家の豪奢な生活ぶりはこの木簡で明らかになったが、このとき長屋王はまだ大納言にもなっていなかったが、親王としての格別の立場を物語っている。

1.4平方kmにも及ぶ平城宮跡は710-784までの間古代国家の中枢として機能した場所で、長屋王邸宅は二条大通に面した一等地にある。

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