武家の棟梁と平氏
伊勢に本拠地を置いた平維衡を祖として伊勢平氏は登場する。平維衡は一条天皇時代に代表する在京武士であったが、平致頼との合戦などで在京武士としては生き残れなかった。 伊勢平氏の本流は正度マサノリに移るがあまり功績は残っていない。また、その子・正衡も含めて源氏の英雄である頼義、義家の景に隠れて表にはあまりでてきていない。 やがて平正衡の嫡男・正盛は白河院の恩寵を受けて北面武士になると伊勢平氏は表舞台に登場することとなる。 1092年正盛が郎党として仕えていた加賀守・藤原為房が阿波国に配流となった。翌年赦免されて帰京すると、信任を得た正盛は隠岐守に任ぜられている。1098年には受領功過定に合格して若狭守となり、これを契機に白河院の恩寵を受けるとともに、受領を重ねて巨万の富を得ることとなる。 そして院の御幸や寵姫・祗園女御への堂提供などでさらに院の歓心を引いている。正盛の嫡子・忠盛も白河院に北面の武士として仕え、18歳で従五位下に叙されている。 1129年の白河院葬儀では種々の役目を担当して、鳥羽院からも寵愛され鳥羽院北面となり、1148年には執事別当となっている。 こうして白河北院造営などの成功により切れることなく受領を歴任しさらに富を増やした。 忠盛の出世を妬んだ殿上人が豊明節会で闇討ちを計画した話は平家物語の序盤でもでてくる有名な場面である。