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武家の棟梁と平氏

2008年03月22日 | 平安時代

武家の棟梁と平氏

 伊勢に本拠地を置いた平維衡を祖として伊勢平氏は登場する。平維衡は一条天皇時代に代表する在京武士であったが、平致頼との合戦などで在京武士としては生き残れなかった。 伊勢平氏の本流は正度マサノリに移るがあまり功績は残っていない。また、その子・正衡も含めて源氏の英雄である頼義、義家の景に隠れて表にはあまりでてきていない。 やがて平正衡の嫡男・正盛は白河院の恩寵を受けて北面武士になると伊勢平氏は表舞台に登場することとなる。 1092年正盛が郎党として仕えていた加賀守・藤原為房が阿波国に配流となった。翌年赦免されて帰京すると、信任を得た正盛は隠岐守に任ぜられている。1098年には受領功過定に合格して若狭守となり、これを契機に白河院の恩寵を受けるとともに、受領を重ねて巨万の富を得ることとなる。 そして院の御幸や寵姫・祗園女御への堂提供などでさらに院の歓心を引いている。正盛の嫡子・忠盛も白河院に北面の武士として仕え、18歳で従五位下に叙されている。 1129年の白河院葬儀では種々の役目を担当して、鳥羽院からも寵愛され鳥羽院北面となり、1148年には執事別当となっている。 こうして白河北院造営などの成功により切れることなく受領を歴任しさらに富を増やした。 忠盛の出世を妬んだ殿上人が豊明節会で闇討ちを計画した話は平家物語の序盤でもでてくる有名な場面である。

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武士系図

2008年03月22日 | 平安時代

清和源氏と桓武平氏系図

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)           
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
              ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃     安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃(1062前九年の役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃             ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃             ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
 ┃ ┃┃             ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃             ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘      ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-    ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┣義賢-1155(頼長侍従)   ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲 ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┣為朝1139-1170      ┣範頼
 ┃ ┃┣義元1045-1127┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃平直方娘    ┃        義平
 ┃ ┃        ┃         ┣
 ┃ ┃            ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┗義忠  ┣新田義重1114-1202    ┣
源俊娘(嵯峨源氏)    1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面) 
 
桓武天皇737-806
 ┣葛原親王786-853
 ┃ ┣高棟王804-867
 ┃ ┣高見王817-855
 ┃ ┗高望王839-911
多治比真宗  ┣平国香-935(桓武平氏祖)⇔平将門
       ┃┣平貞盛-989(平将門乱で功)
       ┃┃ ┣維将(北条氏祖)
       ┃┃ ┣維衡(伊勢平氏祖:伊勢守 一条朝の在京武士)
       ┃┃ ┃ ┗正度-1067?(越前守)
        ┃┃ ┣正輔 ┣正衡(藤原師実に近侍)
        ┃┃ ┗正済 ┃ ┗正盛-1121(源義家近侍 源義親討伐 白河北面武士)
        ┃┃     ┃   ┣忠正-1156(頼長に仕え崇徳天皇側)
        ┃┃     ┣維盛┗忠盛1096-1153(白河・鳥羽上皇近侍)
        ┃┃     ┗季衡  ┣頼盛(母:池禅尼)  
        ┃┃         ┣教盛(母:藤原家隆娘)
        ┃┃         ┣忠度(母:藤原為忠娘)
        ┃┃         ┣経盛(母:源信雅娘)
        ┃┃         ┗清盛(母:祗園女御妹)
        ┃┃        
        ┃┃
       ┃┣繁盛(常陸平氏祖 藤原師輔家人)
       ┃┗兼任
       ┣平良兼-939(母:藤原良方娘)
        ┃┣公雅━致成━致方
       ┃┗公連
          ┣平良将-917
        ┃┣将門903-940(藤原秀郷,平貞盛に討たれる)
       ┃┣将頼-940
         ┃┗将平
       ┗平良文886-953(母:藤原範世娘)
         ┗忠頼
          ┣忠常975-1031(房総平氏祖 教通に侍従 忠常の乱)
            平将門娘 ┣常将━□□━上総氏,千葉氏
                  ┗常近

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院政下の源氏

2008年03月22日 | 平安時代

院政下の源氏

 後三年の役の後、白河は天皇は源義家を天皇親政隊長とすべく期待していたが、義家にはその意思はなかった。 それを見抜いた白河天皇は後三年の役を私合戦として勲功を与えず、1106年死去するまで無官のまま放置した。 これは義家の源氏の棟梁としての力を恐れ警戒していたからである。 そして兄の活躍に隠れていた源義綱を表舞台にたたせることとなる。  義家は死去するにあたって源氏一門の将来の不安を抱いていたが、 まず1101年義家嫡男の義親が大宰府での濫行により隠岐に配流となる。 1106年義家の三男・義国と弟・義光が合戦し義家は義国の召喚を命じられた。 1107年隠岐に配流となっていた義親が出雲国目代を殺害したことで、白河天皇は近臣・平正盛を追討使として派遣し、翌年追討は成功し正盛という新たな武家の棟梁が誕生する。

 1109年義親の配流後、義家の後継者となっていた検非違使・義忠(義親の弟)が斬殺された。 源重実に嫌疑がかけられ連行されると、その弟・重時が義綱邸を襲撃して義綱三男・義明を殺害した。 このとき義綱は逃亡を図るが、白河院の命を受けた源為義が追捕に向い、義綱は投降するが後に配流先の佐渡にて暗殺される。 また、6人の子は全てこの事件で自害等々にて死亡している。翌1110年、鳥羽天皇呪詛事件などもあり左大臣源俊房一家は義綱一家とともに滅亡することとなった。

 源義忠が殺されたことにより義家の家督を継いだのは義親嫡子・為義であった。 白河・ 鳥羽院は東国武士を束ねる為義を恐れて抑圧を加え、検非違使としたのは1124年頃、従五位下としたのは55歳のときである。 これに対して嫡男の義朝は鳥羽院の近臣として熱田大宮司藤原季範娘を妻とし、待賢門院からの支持ももあつかった。 こうして義朝は義家一族を引き継ぐこととなる。

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