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前九年の役と源頼義

2008年03月16日 | 平安時代

前九年の役と源頼義

 征夷大将軍・坂上田村麻呂により蝦夷の反抗は鎮圧され、802年鎮守府が多賀城から胆沢城(いさわ)に移された。 統治は俘囚(朝廷に服従した捕われた者の意味)により行われた。 873年陸奥守阿倍貞行などはその代表といえ、俘囚首長から賄賂をとって脱税を見逃す動きが任用(諸郡に派遣された役人)に見られたときに、任用の給料から補填させることを政府に提言して認められている。鎮守府が置かれた胆沢城はこの頃堂々としたものに整備拡張され、統治のための施設になっていった。 914年には延喜東国の乱平定に功績のあった藤原利仁が将軍となり、以降高望の子孫、藤原秀郷の子孫が将軍に補任された。 武威を背景に奥六郡支配を行う陸奥守・源頼義に対して、奥六郡司・阿倍頼時(奥州藤原氏初代清衡の祖父にあたり、頼良ともいう)は業務の補佐をしている。 胆沢城と兵士制の存在は奥六郡内部の俘囚間武力紛争などを抑制する役割を果たしていたが、やがて兵士制が解体し胆沢城の紛争抑止機能がなくなると、胆沢城自身の体制も崩れて廃棄されていく。

 1036年、阿倍忠良は陸奥権守に補任された。前九年の役の主役阿倍氏の登場である。 その子息で父同様五位の肩書きを持つ阿倍頼時は、受領として土着していた平永衡、藤原経清と結びつき勢力拡大に努め奥六郡に君臨することになる。1051年陸奥守・藤原登任は安倍頼良を攻めたが、頼良は俘囚を率いて登任の軍勢を破った。登任の攻撃は国家的な追討ではなく、受領と荘園側の武力紛争である。頼良は登任の武装検注部隊を手荒な威嚇で追い払い死者を出したために起こった。 政府は登任にかえて前相模守・源頼義を陸奥守に任じて鎮守将軍を兼任させた。 頼義は忠常の乱を平定した源頼信の嫡男であり、不遇の小一条院に判官代として仕えていたため相模守に任じられていた。因みに頼義の同母弟・頼清は若くして昇殿を許され、小右記や御堂関白記にもよく登場している。 1052年の頼義の陸奥守着任のころ上東門院・彰子の病悩による大赦があり、検注を妨害した安倍頼良の罪も赦免され、安倍頼良は源頼義に忠義を誓い名を頼時に変えている。

 4年の任期が終わった1055年、頼時に見守られながら京への帰途、権守藤原説貞の子・貞光が何者かに殺傷されたが、これが安倍頼時の子・貞任の謀反とされ、政府は頼義に安倍頼時追討の宣旨を下した。 安倍頼時が篭る衣川関を目指す軍勢には頼時の娘婿・平永衡、藤原経清の姿もあった。 1057年、頼時は死去し、貞任をはじめ頼時の子たちは衣川関を閉ざして頼義に抗議する構えを示すと、源頼義は貞任追討の宣旨を受けるが、征伐軍は貞任の猛攻に逃げ帰った。1062年再度貞任追討を決断した頼義は清原光頼・武則兄弟の協力をとりつけ、追討軍のほとんどは清原氏で占められていたから、もはや謀反追討を名目とした清原氏による安倍氏打倒に代わっていた。 9年に及ぶ戦争も1064年に終わり、坂東武士に棟梁として仰がれる河内源氏の地位は確立された。 

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