平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

聖武天皇芳野行幸

2008年03月08日 | 奈良・飛鳥時代

聖武天皇芳野行幸

 736年6月、聖武天皇は芳野行幸を行っている。 平城宮に戻ったのは翌月で、延べ16日間に渡り、過去2回に比べると異例の長期であった。  また、この行幸は11年ぶりのもので、この行幸の目的は前年流行した天然痘が依然とおさまらないために、鎮める目的があったことが木簡から窺える。 右の木簡には「南山之下有不流水其中有\一大蛇九頭一尾不食余物但\食唐鬼朝食三千暮食・八百」 との記載がある。 南山に住む九頭一尾の大蛇に唐鬼、つまり天然痘を食させて流行を食い止めようと願った呪符であると察せられる。 この時期に祈願のための行幸を行う必要があったということは、天然痘の猛威は衰えていなかったことを意味し、今までいったん下火になったと考えられていたが、実は736年も流行は収まるところを知らなかったのかもしれない。

(左)・芳野幸行貫簀・天平八年七月十五日

(右)南山之下有不流水其中有\一大蛇九頭一尾不食余物但\食唐鬼朝食三千暮食・八百○急々如律令

        

 この頃、光明皇后は多数の財物を法隆寺に施入しており、733年の母・県犬養橘宿禰美千代の死が関係していると思われる。 県犬養橘宿禰美千代は天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦として仕えた。 700年ごろに藤原不比等と結婚し、前夫の美努王との間に生まれた牟漏女王が不比等の次男・房前の夫人になっていることも縁の深さを感じさせる。 三千代は721年に元明天皇の病気平癒を願って出家しており、光明皇后の仏教信仰は三千代の影響がおおきい。

 一方、聖武天皇は藤原四兄弟の死で、恭仁京の造営を考え、740年平城京を旅立っている。741年恭仁京で元日朝賀の儀式を行っているが幕で周囲を囲む有様で大極殿もできていない。この恭仁京の造営で労働力として注目されるのが行基率いる在家の仏教信仰集団である。 743年に大極殿の移築が完了し準備は整ったが、恭仁京の大きさは平城京の三分の一程度というから、平城京と両者一体で機能していた。 741年には聖武天皇の命により国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺)建立の詔が発せられた。 

コメント

徳川家康

2008年03月08日 | 戦国時代

徳川家康

 徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した。しかしそれは石田三成派が崩壊したに過ぎず、多くの豊臣派はまだ生き残っている。 家康が徳川家の基盤を確固たるものにするために行ったのは大名の領地の加封減封である。 またこのときに豊臣家の直轄領220万石を横領して65万石とすることで、全国の石高1850万石のうち780万石を手中にし、関ヶ原での功労者に分け与えた。 黒田長政は52万石、山内一豊は24万石、結城秀康は75万石、池田輝政も52万石、加藤清正、福島正則もそれぞれ54万石、50万石とした。 このとき前田利長も36万石を加封し120万石となり、加賀百万石といわれるようになる。 また譜代大名の設立を行った。 本来譜代大名とは先祖代々仕えた家来大名の意味であるが、関ヶ原の戦い前に徳川に従っていたものを譜代大名と認めた。 これにより180の大名のうち役60の大名が譜代となった。 こうして徳川派の支持を固め、朝廷から征夷大将軍の宣下を受ける方向へ進めた。 かくして1603年家康は伏見城にて将軍宣下を受けた。 

 この半年後、三男・秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせると、江戸へ戻り諸大名の負担により大都市への改造を行った。 1605年、将軍就任後二年にして息子秀忠に将軍職を譲ると、秀忠を二条城に入らせ、大阪城の淀殿・秀頼に二条城に上洛するように命じる。ところが淀殿の強硬姿勢により、家康は豊臣家を滅亡に導く決意を固めるのである。 淀殿の姿勢を和らげようと奔走したのは加藤清正、浅野幸長である。 1611年、家康が居城である駿府を出発し上洛したとき、清正らの説得でやっと秀頼は家康との対面を果たす。 ところが対面直後に清正は肥後熊本への帰国の途中で病死するのである。 また対面に奔走した浅野幸長も1613年に38歳で亡くなった。 秀吉派のこれらの勇士が次々と亡くなったことで豊臣家の滅亡が現実のものとなっていったのは云うまでも無い。

 またこの頃、家康は膨大な豊臣家の資産を浪費させている。 つまり秀吉の供養と称して多くの寺院を復活させ、方広寺の再建や、大仏殿の鐘である大梵鐘も鋳造され、1614年にはほぼ完成していた。 梵鐘に刻まれた「国家安泰君臣豊楽」の銘文が問題となり、弁明の使・片桐旦元が結果的には徳川家の陰謀にはまって豊臣家から10月退去したのであるが、 家康にとってのこの契機が大阪攻めを決断させることになる。 大阪冬の陣である。 この戦いで大阪側に味方した大名は一人もおらず、味方は所領を失った関ヶ原の敗者のみである。 ところが徳川の総攻撃にもかかわらず落城する気配は無く、逆に真田幸村の巧みな防戦により豊臣方が勝っていたのであるが、大阪方からの講和申し出により豊臣家は命取りとなる。 1614年12月から翌年にかけて秀忠の指揮の下に大阪城の堀が全て埋められたのである。 淀殿は家康の要求を断固受け入れなかったことから5月になって本格的な戦い・大阪夏の陣が始まった。 このときは流石の真田幸村も奮闘するものの、数に勝る徳川連合軍におされて討死を遂げたのである。 燃え上がる大阪城から奇跡的に助け出された千姫が祖父家康のもとに辿りついたのは有名である。 やがて淀殿と秀頼は最後まで付き添ったわずかな近臣とともに自害した。 秀頼には二人の子がいたが、男子は捕らえられ六条河原で首をはねられたが女子は後に東慶寺の住持となった天秀尼である。

 豊臣秀吉の跡をついで天下経営に乗り出した家康は御三家を設け徳川家を拡大していく。 一方で諸大名の統制をはかるために 「武家諸法度」をつくり大名を改易させやすくする。 改易とは御家とりつぶしを意味し、豊臣家臣であった福島正則は広島城の修復を幕府に届け出ずに行ったということで豊臣家滅亡直後に取り潰しに会っている。 同様に熊本の加藤家も取り潰された。 浅野長政を藩祖とする浅野家は、浅野長政の妻・ややが北の政所・ねねと姉妹であり豊臣系大名の筆頭である。 後に分家である赤穂浅野家が 「忠臣蔵事件」を起こすが、広島の本家浅野家は分家を冷たくあしらい徳川家に忠臣の姿勢をみせたのである。 参勤交代制では江戸の防衛を諸大名が交代で行うのであるが、 これにより諸大名経済力を低下させて徳川家の安泰を狙ったともいえる。 加賀百万石の前田家や独眼流・伊達政宗でさえ御家の取り潰しを恐れ軍事態勢は弱体していった。 

コメント