平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

衣通姫

2008年04月30日 | 大和王朝期

衣通姫

 日本書紀によると衣通姫は、応神天皇の子稚渟毛二岐皇子(わかぬけのふたまたのみこ)の姫で、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫の妹です。 ただ、古事記によると、允恭天皇の皇女で、母は忍坂大中津比売命となっており、木梨軽王は兄、雄略天皇は弟ということになり、軽大郎女と同一人物としています。 衣通姫は容姿絶妙で、その美しさは衣を透して輝いたといいます。 允恭天皇に寵愛されますが、皇后・忍坂大中姫の嫉妬を怖れた天皇により、河内の茅渟宮に移されます。 その後、しばしば狩をすると言っては茅渟宮に行幸したが、皇后から釘をさされ、足を遠のけざるを得なくなり、一年後久しぶりに茅渟宮を訪れた天皇に対し、衣通郎姫が詠んだのが下の歌であるといいます。 天皇はこの歌を聞き「皇后が聞けば恨むであろうから、誰にも聞かせてはならない」と姫に言い聞かせた。

時に天皇、衣通郎姫にりてはく、「是の歌、になかせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。、時の人、浜藻をなづけて「なのりそも」とへり。

八年の春二月、藤原にす。に衣通郎姫の消たまふ。是夕、衣通郎姫、天皇をびたてまつり独りり。其れ天皇のせることを知らずして、歌よみしてはく、「我が夫子が 来べきなり 小竹が根の 蜘蛛の行ひ 今宵しも」

 前々から衣通姫のゆかりの地へは行って見たいものだと思っておりました。 ここ河内の茅渟宮跡は関西国際空港への大橋の近くにあります。 田舎の片隅にひっそりと佇む様子は、今も昔もかわらぬ衣通姫の心情を忍ばせるものでした。(撮影:クロウ)

 

 

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造山古墳

2008年04月29日 | 陵 古墳 墓 遺跡

造山古墳

 岡山市内備中国分寺の東にある歴史的史跡である造山古墳には立派な駐車場が完備され、大坂の古墳とは比べ物にならないくらい環境整備がされていました。  造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている巨大な前方後円墳で、古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模を占めています。 

駐車場から見た造山古墳(撮影:クロウ)

 

 

 造山古墳は、全長350m、高さ31m、平面積約7.8haの巨大な墳丘規模を形作り、 周濠は無く吉備地方での通常規模形態と異なっています。 全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。 第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)に比べると、造山古墳は時期が新しく、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期、同規模にあたり、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した規模となっています。

 

 造山古墳に葬られている人物は、通説では大和(中央)政権にきっ抗した吉備政権の大首長とされていますが、その規模が築造時には全国最大であることや、倭国の大王陵に想定されている同時期の巨大な前方後円墳との形態の類似性から、倭国の政治体制の頂点である大王とみられています。 しかし宮内庁管轄下にはおかれていないため古墳内には自由に立ち入ることができます。

古墳の丘陵部は散策ができるように手入れされ、石棺も間近に見れます

 

 

 
 造山古墳周辺には5世紀のものと考えられる千足古墳、榊山古墳などがあり、大小6基の陪塚もあります。 陪塚には造山古墳の被葬者の一族か有力な従者が眠っていると考えられ、陪塚第5号古墳の千足古墳は全長75m、三段築成の前方後円墳です。 

5号墳(千足古墳)                 4号墳

 

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両宮山古墳

2008年04月28日 | 陵 古墳 墓 遺跡

両宮山古墳

 両宮山古墳は山陽自動車道の山陽IC近く・山陽町穂崎に位置します。ICを降りて西、ほぼ27号線沿いにすぐに見つけることが出来ます。古墳の説明板のところには駐車場があり、西隣には「稚媛の里」という看板もあり、古墳見学に訪れるには充分な環境が整っています。(撮影:クロウ)

 

 両宮山古墳は、五世紀後半の築造とされる前方後円墳で、備前地域では最大の全長194m、県内では備中地域の岡山市・造山古墳(五世紀前半、360m)、総社市・作山古墳(五世紀中ごろ、286m)に次ぐ大きさである。 最も高い方墳部分は高さが41mあり、水をたたえた幅約28mの周濠がすぐ横を巡っている。 二重の周濠は四世紀末、畿内の大王陵などに出現し、その後地方に分布したとされる。  両宮山古墳は地方では古い例で、規模は同時期では中四国以西で最大という。 すぐ北側にあり、関係があるとみられる和田茶臼山古墳(五世紀後半、全長53m)でも二重周濠が確認されている。

南側周濠より                   西側周濠より

 

 この古墳の南側には道路をへだてて、二つの独立した前方後円墳がある。西が森山古墳(全長85m)で、前方後円形をよくとどめ、とくに周庭帯をのこしている。 東は廻り山古墳(全長65m)で、両者とも巨大な両宮山古墳の倍塚である。

  

 ところで、この両宮山古墳は先の看板にもあるように稚媛が眠る古墳とも言われている。 稚媛というのは吉備上道田狭の娘で、雄略天皇の妃となった。

 幼武皇子は葛城氏との関係を深めるために韓媛を妃に迎えようとしていた。また、履中天皇の子・市辺押磐皇子だけでなく、その弟・御馬皇子も石上穴穂宮に顔をだすようになり、現大王の後を継ぐ候補が現れたことを考えると、将来の孤立を防ぐためにも吉備国をも味方に引き入れる必要があった。また吉備国としても大和の権力に勝つのは困難であると思っている以上、吉備の娘を王家に差し出し、生まれてくる子が次の大王にでもなれば、吉備の安泰は狙える。幼武皇子は、西国を固めれば大和にも劣らない力を持つ吉備国の勢力であるだけに、手を結ぶために吉備上道田狭に縁談を持ちかけ、吉備稚媛を妃とすることになる。 後のことであるが、吉備稚媛は磐城皇子、星川稚宮皇子の二皇子を産んだ。そして幼武皇子が雄略天皇としての最後を迎えたときに吉備稚媛は星川稚宮皇子を煽って大和政権を握ろうと王位を狙ったのである。吉備水軍も擁立させようと河内に向かうが戦いに敗れ、それ以来吉備は大和の従属と化してしまったのである。

                                                                                    春日大娘皇女
           宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
葛城高額媛       ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
 ┣神功皇后170-269   ┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┃
 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
  
         応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
 
 
          ┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
 
         ┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
   
         ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
 
          ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
         ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┃      ┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃      ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 
┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子  ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃ ┗毛媛  ┃        ┣葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰
  ┣黒媛    ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┣葛城蟻臣  ┏忍坂大中姫      
                   ┣荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

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牟佐大塚古墳

2008年04月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

牟佐大塚古墳

 牟佐大塚古墳は両宮山古墳の西へ4kmいった27号線の北側にあります。 旭川下流東岸の高島・竜操学区の地域・牟佐地区は、古代吉備国の有力豪族であった吉備上道氏(吉備武彦の孫・仲彦が祖)の本拠地であるとされています。  牟佐大塚古墳は、墳丘の直径40m、高さ10mの円墳で、墳丘の中心部分に全長18m、最大幅2.8m、最大高3.2mを計る横穴式石室が南向きに設けられていて、石室の規模の巨大さから、巨石墳と呼ばれています。(総社市のこうもり塚古墳、真備町の箭田大塚古墳とともに吉備三大巨石墳という) 六世紀末の築造と推定され、石室の奥には遺骸を納める家形石棺が安置してあり、この石棺は、備中南西部(井原市)産出の浪形石で作られています。  

 

 

 牟佐大塚古墳の背後の高倉山には、この山を祭る高蔵神社があり 上道氏は伝統的な地元の首長として山の祭事に深くかかわっていたようです。

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黒媛塚古墳

2008年04月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

黒媛塚古墳(こうもり塚古墳)

 こうもり塚古墳は、吉備を代表する備中国分寺と造山古墳の中間あたりにあり、丘陵を利用した前方後円墳(長さ103m)の中に入ることもでき、横穴式石室があります。 この古墳は6世紀-7世紀にかけて築かれたもので、別名を黒媛塚とも呼ばれています。 黒媛は「古事記」に見られ、吉備海部直の娘で、代表的な美女であったといいます。 黒媛は仁徳天皇の寵愛を受けるが、皇后・磐之媛の嫉妬に恐れて吉備国に逃げ帰ります。 ところが仁徳天皇は黒媛が忘れられず、彼女を追って吉備国にやってきて黒媛と楽しい一時を過ごし、次の歌を残しています。

「山方に蒔ける あお菜も吉備人と共にし採めば楽しくもあるか」

また、黒媛は天皇が大和へ帰る時に次の二首を詠んだという。

「大和べに西風吹きあげて雲離れ退おりとも われ忘れめや」

大和の方へ、西風が吹き上げて、雲が離れ離れになるように、遠く隔てられておりましょうとも、私は忘れなどしません。

「倭方に 往くは誰が 隠水の 下よへつつ 往くは誰が夫」

大和の方へ帰って行くのは、どなたのお相手かしら。隠れ水のように、忍んで通っては、帰って行くのは、どなたのお相手かしら。

 仁徳天皇の父・応神天皇は吉備武彦の娘・兄媛を妃としていた。 応神天皇は仁徳天皇と同一人物ではないかとの説があることから、黒媛が兄媛と同一人物であるとの説もある。

黒媛塚古墳全景と石棺(撮影:クロウ)

 

 

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下道朝臣真吉備

2008年04月26日 | 奈良・飛鳥時代

吉備朝臣真備(下道朝臣真吉備)

 今回は大和政権に匹敵する勢力を持っていた吉備地方を中心に廻ってみました。吉備といえば奈良時代の末期に右大臣にまで登りつめた吉備真備は見逃せません。

 生没年:693-775 奈良時代の官人・学者。吉備地方の豪族で中央の下級武官(右衛士少尉)であった下道朝臣圀勝の子で母は奈良の豪族楊貴(八木)氏の娘である。 日本書紀には「5世紀初め、応神天皇が吉備の国を5つに分け、ここに住む5人の兄弟や子供に分け与えた」とあり、吉備真備は、その中の一人が「下道氏」の名のもとで治めた下道郡出身の官人の子として誕生した。 吉備下道氏の本拠地は現在の真備町箭田地区あたりと推定されており、日本でも屈指の巨大な石室を持つと言われる「箭田大塚古墳」は、下道氏一族を葬った王墓かもしれない。

吉備真備公園のすぐ北側にある箭田大塚古墳(撮影:クロウ 2008/4/26)

 

 


 下道氏は、吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族で、姓は臣から684年に朝臣姓を賜った。 吉備真備を生んだ下道氏の本拠地は、真備町で高梁川に注ぐ小田川流域一帯だったようである。 その小田川にそそぐ谷川に「子洗川」があり、江戸時代の学者はこの地に生まれた吉備真備ゆかりの川の名と推定した。その小川の上流にあった湧き清水が、いつの頃から真備の産湯の井戸と伝承され、現在では、二度も遣唐使として中国に渡った真備にちなんで整備され、その地は下道氏墓所として国の史跡に指定されています。 

小田川北沿いの313号線矢掛付近(小路を北へ200mほど)に下道氏の墓があります

 

 


                        尾張大海媛
             大物主神(蛇)            ┣ 八坂入彦命
第7代孝霊天皇
  ┣ -                    ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
  ┃┃┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与か) 姥津媛命┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
  ┃┃┃ 欝色謎命(伊香色謎命の母)┣彦坐王┃  ┣ 豊鍬入彦命
  ┃┃┣ 吉備津彦      ┣ 9 開化天皇   ┃  ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
  ┃┃┣ 稚武彦命    ┃   ┣10崇神天皇(御間城入彦)   (みまきいり彦)
  ┃┃倭国香媛      ┃   伊香色謎命  ┃    ┣ 倭彦命  
 
┃┃              ┣倭迹迹姫命     ┃    ┃
 
  ┃┃          ┣大彦命      ┃    ┣ 彦五十狭茅命
 
  ┃┣━━━━━━  8孝元天皇御間城媛  ┃    ┣ 千千衝倭姫命

  ┃細媛命        ┃┃ ┗武渟川別  ┃    ┣ 五十日鶴彦命  
  ┣彦狭島命
      ┃┣彦太忍信命  ┃    ┣ 11垂仁天皇┓(いくめいり彦
)  
  ┃           ┃┃(武内宿禰の父)┃ 御間城媛 ┃  ┃ 
  ┃           ┃伊香色謎命     x (大彦命の娘)┣  ┃ 
   ┃              ┣ 武埴安彦命 ━━┛     ┏迦具夜比売┃ 
  ┃         埴安媛  ┣            大筒木垂根王    ┃
  ┃    河内青玉繋┛   吾田媛(隼人族)                   ┃
   ┣稚武彦命(吉備の祖)                                       ┃
 絙某弟(はえいろど)  ┃                                         ┃
          ┃                         ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛舒明天皇
┃                 ┣吉備武彦━御友別                            ┣賀陽皇子
┃                 ┃ ┣吉備弟媛┣仲彦(上道・香屋祖)━□□━香屋采女
┃                 ┃ ┣吉備兄媛┣稲速別(下道国造祖)━□━下道速津彦
                 ┃ ┗鴨別 ┃ ┗弟彦                   ┗・・・・・吉備真備
彦坐王      ┃   応神天皇
┃┣狭穂彦
肥長姫(蛇)┣宍戸武媛                        葛城高額姫
┃┗狭穂姫命┃     ┣伊那昆能若郎女                          ┣神功皇后
┃ ┣  誉津別   ┗播磨稲日太郎姫 -122        垂仁天皇 息長宿禰王┃ 
11代垂仁天皇-69-70  ┣ 櫛角別王(
くしつのわけのみこ
)  ┣両道入姫命    ┣15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦  ┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代仲哀天皇 
  ┃ イニシキイリヒコ      ┣ 小碓尊  (おうすのみこと) 日本武尊    ┣坂王
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇)  -13-130                    ┣忍熊皇子
  ┣ 倭姫命   ┣稚足彦尊(
13代成務天皇)                大中姫 
 ┏日葉酢媛命  ┣五百城入彦  ┃┣和珂奴気王┣神櫛皇子(母:五十河媛 讃岐国造祖)   
 ┣渟葉田瓊入媛┣忍之別皇子  ┃弟財郎女  ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
 ┣真砥野媛   ┣稚倭根子皇子┃       ┣五百野皇女(母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛  ┣大酢別皇子┗吉備郎女    ┣豊国別皇
子(母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王   ┣五百城入姫         ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇  ┣五十狭城入彦        ┣日向襲津彦(母:日向髪長大田根)
 ┣ 八坂入彦命 ┣吉備兄彦          ┗豊戸別皇子(母:襲武媛)
尾尾張大海姫┣八坂入媛命やさかいりびめのみこと)
      ┗弟媛

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織田信長

2008年04月18日 | 戦国時代

織田信長の戦乱に明け暮れた人生

1565年

 13代将軍足利義輝は、三好三人衆らの軍勢に室町御所を襲撃され討たれ、弟で奈良興福寺の門跡の覚慶は幽閉された。 この結果幕府は3年に渡って将軍不在の状態が続く。 この頃織田信長は麒麟の「麟」の字の草体をもとにした花押を使い始めている。 麒麟は中国で生まれた想像上の動物で、世の中が治まっているときにしか現れないという。 花押の背景には三好三人衆による義輝の事件があったと思われる。 弟の覚慶は義輝の近臣であった細川藤孝(後の幽斉)・一色藤長の手引きで脱出し、翌年義秋となのって朝廷から従五位下に叙されている。 のちの足利義昭である。 上杉、武田など全国の大名に御内書を出して上洛のための出兵を求めたが誰も応じるものはなく、義秋は越前一乗谷の朝倉義景のもとに身を寄せた。 一方三好三人衆は義秋の対抗馬として12代将軍義晴(足利義昭の父)の弟・義維の子・義栄を擁立して14代将軍につけようとした。 義栄は阿波から摂津にすすみ従五位下に叙され、翌年将軍宣下を朝廷に働きかけたが認められず、暮れになってようやく14代征夷大将軍に任じられた。

十三代足利将軍義晴               十五代足利将軍義昭

 

1567年

 織田信長は美濃の稲葉山城を攻略し斉藤竜興を退けて美濃を掌握した。 この地を岐阜にあらため居城を尾張小牧山から移して織田信長は二国の大名となった。 織田信長はこの年の11月に「天下布武」と刻んだ印判を使用している。 信長は既に三河の徳川家康と同盟を結び、信玄との和議をすすめ、謙信とも好を通じていた。 江北の浅井長政と同盟を結び、用意周到に上洛の準備を進めていたのである。

1568年

 7月、織田信長は越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃に迎えて上洛の途についた。足利義昭を将軍に就けて室町幕府を再興するという名分を掲げてのことである。 尾張、美濃、伊勢の軍を率いて近江の琵琶湖東岸を南下したところで敵対していた六角義賢、義治親子は敗走し観音寺城は明け渡された。 京都に入ると三好三人衆(三好長慶の家臣:三好長逸、三好政康、岩成友通)の山城勝竜寺を落とし、摂津の芥川城、越水城を攻略し三好三人衆を敗走させた。 10月、足利義昭とともに京都に戻ると足利義昭は念願かなって15代将軍となり、従四位下にも叙任された。 織田信長は上洛により幕府と朝廷の復興をめざしたのである。 織田信長はこの9年前に一度上洛している。 桶狭間の戦いの前年で尾張の平定も終わっていない頃のことであるが、奈良等の見物をして13代将軍義輝に面会している。 この頃、細川氏などの管領家は力を失い、三好長慶は独自の政権を目指しており、権力基盤は弱かった。 従って義輝は戦国大名を上洛させて政権を支えてもらおうとしていた。 しかし国元が大事である大名は長くは在京できないことから、将軍は敵対する大名達に和睦を命じ上洛を命じるのであった。 将軍・義輝に会って忠節を誓った長尾景虎(上杉謙信)は関東・信濃への出兵を正当化する名分を必要としており、そこに上洛の真の狙いがあったのである。 守護代の家臣という家柄にすぎない父・信秀の代から急速に力を伸ばしたなり上がりであった織田信長の上洛も、尾張支配を正当化するためのものであった。 こうして戦国大名は常に中央政権との結びつきを怠らなかった。  織田信長は単なる将軍の補佐、室町幕府体制の復興だけではなく独自の天下統一の政権を志し、上洛を実現した最初の大名である。

1569年

 織田信長は幕府に入らず独立した立場をとって京都や畿内を勢力下におき、将軍も織田信長の後ろ盾により地位を保てた。 上洛の年の年末から三好三人衆の反撃が始まる。 織田信長に美濃を追われた斉藤竜興も加わっていた。勝軍山城を焼き足利義昭がいる六条本國寺を攻めた。 反 織田信長勢力の大きさを知らしめるものであった。 織田信長は義昭の安全のために、義輝の御所跡に義昭の御所を造ることとし、二月には工事が始められた。洛中、洛外の名石・名木が集められ義昭は四月に室町御所に移った。 御所築造は足利義昭の安全のためでもあったが織田信長の為でもあった。 室町御所の新造に先立って織田信長は九か条の殿中掟を定め翌々日追加七か条を足利義昭に認めさせた。

 織田信長は上洛直前に伊勢北部を攻めて神戸氏を服属させ三男信孝を養子に入れていたので、この年8月南伊勢に出兵し北畠具教のいる大河内城を攻め落とし次男信雄を養子にいれて乗っ取った。 この間北畠氏の本拠地に滝川一益を送り込み田丸城などを落としている。 伊勢平定を終えて上洛した信長と義昭の仲が悪化するのは時間の問題であった。 天皇側は信長の行動に機嫌をそこねないように気を使うことでわかるように、政治的権限は持っていなかった。

 1570年

 織田信長は日乗上人と明智光秀宛にさらに五箇条の条書をだして足利義昭に承諾させた。 天下の支配権は織田信長にあり将軍の意向を伺うことなく自分が成敗権を行使するといっている。 足利義昭の行動はすべて 信長の監督下においた。 こうして織田信長が自己の覇権確立をめざす動きをあらわにすると、反勢力もでてくる。 その一人が越前の朝倉義景である。 信長が4月越前に出兵し敦賀郡の城をおとして木芽峠を越えるところで江北の浅井長政が挟み撃ちにすべく挙兵に踏み切った。 織田信長は湖西から京都に逃げ帰ったが、これを機に江南各地で一揆が起こり六角氏やその旧臣、伊賀・甲賀の侍衆と連携して織田信長軍に立ち向かった。 このため織田信長は浅井長政の小谷城攻めに出陣し家康も同盟軍として合流した。 織田信長軍が横山城を取り囲むと、浅井・朝倉軍は南下してきて姉川の合戦が展開された。 織田信長の勝利とはいえ反織田勢力にとっては勇気を与え、阿波に逃れていた三好三人衆はまもなく行動を開始し、摂津にはいると大阪本願寺の西方・野田・福島の城に立て篭もった。 織田信長は8月、三好三人衆を攻めるために岐阜を出発し、足利義昭も出陣した。 織田信長包囲網にあった大阪本願寺の顕如は9月、浅井長政からの同盟を申し入れに同意し宗門を守るための決意をした。 こうして大坂を中心とした本願寺・一向一揆は11年の長きに渡って織田信長と戦うことになるのである。  本願寺の決意に呼応して浅井・朝倉軍が動き、京都に攻め入ると、織田信長は野田・福島城を諦めて兵を引いた。 京都を経て近江にすすむと比叡山の僧を見方につけるべく、山門領をえさに忠節を促したが、叡山はこれを無視する。

 

1571年

 8月織田信長は江北に出陣して一揆勢と戦い江南の金が森城内を攻め落とし、9月12日に比叡山の焼き討ちを敢行した。 比叡山焼き討ちは朝廷・政治と結びついて栄華を誇った旧勢力の弾圧として仏法破滅を印象づけた。 焼き討ちの理由は、昨年信長の意に反して浅井・朝倉側についたからであり決して寺社・権門の否定政策はとっていない。 興福寺、東大寺、春日社、法隆寺などは攻撃されておらず、敵対者本願寺、一向一揆への見せしめの狙いがあった。  本願寺・顕如は反織田信長勢力の結集に精力的であり、1570年末には武田信玄を味方に引き込むことに成功している。松永久秀も加わり信玄に好を通じている。 そして7か条の掟に遺恨たっぷりの足利義昭挙兵を考えていた。 これを察知した織田信長は足利義昭に17か条の意見書をつきつけている。 朝廷への勤めを怠り、先の掟破りの批判などを盛り込み足利義昭が挙兵せざるを得ない立場においやるが、これは織田信長の狙いでもあった。

比叡山延暦寺 大講堂               根本本堂

 

1572年

 本願寺・武田信玄・朝倉義景・浅井長政が中核となって反織田信長同盟が結成された。本願寺は畿内の三好義継、細川昭元らの勢力を集め、松永久秀も加わり、包囲網を完成させている。 ここで織田信長は危機に陥ることとなる。 7月織田信長は大軍を擁して江北に出兵し浅井を攻めた。 虎御前山に砦を築いて拠点とした。 これに対して朝倉義景は救援の大軍を出したために信長は撤退する。 しかし義景重臣の前波吉継親子が裏切って 信長陣にはいり他の者も追随した。 信長は謙信に救援を求め正式に同盟を成立させている。 9月信玄は山県昌景率いる別働隊を徳川領の三河に先発させ、みずからは遠江に入ると二俣城を取り囲み落城させ、三方が原に達した。 目的は信長を挟撃することにある。 一方徳川家康は同盟者 信長のために信玄の西進を阻むことであり、武田軍の背後から攻撃を加えた。 これが三方が原の戦いである。 圧倒的な勢力に勝る武田軍はただちに応戦して徳川軍を打ち破ると、家康は浜松城に逃げ帰った。 信玄は勝利をただちに朝倉義景に報じ、浅井や顕如を大いに歓喜させた。 しかし暮れには朝倉義景軍は帰国の途についており信玄の怒りもむなしく義景は動かず、 信長包囲網に隙をつくることとなった。

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織田信長

2008年04月18日 | 戦国時代

1573年

 信玄は早々に三河にはいり野田城を攻めたが、この頃から病状が悪化していたらしく長篠で西進を諦め帰国の途中、4月12日になくなった。 死に臨んで信玄は三年間は喪を秘すように遺言したといわれている。 しかし飛騨の河上富信は上杉謙信に噂を伝えており、 信長にとってはこれほどの幸運はなかった。 足利義昭は反 信長同盟結成の立役者として挙兵の機を狙い、信玄の西上を頼みとしていたから三方が原での信玄勝利に歓喜し、挙兵にふみきった。 信長は岐阜をたって上洛すると、足利義昭重臣の細川藤孝、荒木村重が逢坂まで迎えに来たというから義昭と決別して 信長に忠節の意を表したのである。 信長は義昭に和議を申し立てたが、義昭はこれに同意せず、 4月 信長は義昭の御所を包囲して放火した。 勅使が両者に和議を仲介したのでこれに応じたが、 信長は義昭がいずれ敵対するとみて、このときに大軍を一度に運ぶための大船の建造を行い、二ヵ月後には完成させている。 7月義昭は宇治川の槙島城に移り立て篭もると、 信長は大船で琵琶湖を渡り 槙島城の外構を破り攻めたため、義昭は降伏する。 しかし紀伊由良を経て備後に逃れた。 そして各地の大名と通じて 信長打倒を画策し、毛利のもとで上洛の機を窺っていた。 

 信長は浅井・朝倉攻めを準備していた。 義昭の没落は江北の諸勢に同様を与えたため 信長に寝返るものも現れ、 朝倉義景は大軍をひきいて援護にかけつけたが織田軍の攻撃に撤退し、一族の朝倉景鏡の裏切りもあって 8月には母、妻、嫡男の愛王丸も含めて自刃に追い込まれ、長きに渡る朝倉氏は滅亡したのである。 景鏡は義景の首をもって 信長に出仕したため生き延びている。 信長はすぐに近江に軍を返し浅井長政を攻め、討ち取っている。 長政の嫡男・万福丸は関ヶ原で磔にされ、 信長の妹・お市と3人の娘は 信長のもとにひきとられた。 これにより反 信長同盟は解体し、 義景、長政、久政の首は京都で獄門にかけられた。 浅井の領地はこの戦いで功績のあった羽柴秀吉に与えられ、琵琶湖岸の長浜城主となった。

小谷のふもとにある小谷城跡碑

 

1575年

 織田信長は岐阜を出発して三河長篠へ出陣した。徳川・織田軍に攻勢をかける武田勝頼が長篠城を奪回すべく大軍で包囲したために家康が救援を求めてきたのである。 長篠城は信濃と三河を結ぶ交通の要であり難攻の要塞でもあったために武田勝頼としては是非とも確保したかった城である。 信玄が没後に家康の手に属したため奪回を狙ったが、家康もそれを予想して奥平信昌を城主にして兵を増強していた。 信長は長篠の近くに進み落城寸前の西方に三万の軍で陣取り、先陣を努める家康軍を東方の高松山に、その左手には滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀を置いて武田軍を待ち構えた。 信長は好機とみるや家康の重臣・酒井忠次を大将に鉄砲衆を中心とした別動隊を編成して武田軍を襲撃した。 退却を余儀なくされた武田軍は大きな打撃を受けて、後に再興をはかることになる。 鉄砲による三段撃ち戦法で圧勝した長篠の戦いである。 信長は家康の陣にやってきて佐々成政らを奉行に鉄砲隊を編成し戦闘を開始した。 武田側は山県昌景の軍隊が突撃したが、鉄砲隊に打たれて退き、次に武田信廉隊、小幡隊と繰り出したが 有力武将は討ち死にした。 

1576年

 1575年の越前一向一揆の壊滅により本願寺は加賀二郡を失い、同年 信長との和睦を成立させたが、 信長にとって瀬戸内海、中国地方進出を阻む敵は本願寺であり、その攻略が重要課題であった。 1576年 信長は荒木村重、細川藤孝、明智光秀、原田直政に大坂攻めを命じる。 本願寺側も毛利輝元と結び、海上から抗戦するのである。 児玉就英を大将として能島・来島の村上水軍とともに、毛利水軍は大阪湾に進み、 信長側の船と木津川で敵対したが 毛利側の大勝利となった。 毛利はこれまで 信長と友好関係にあったがこの年から転換したのである。 播磨の別所長治らが信長に出仕し 山陰では尼子勝久、山中鹿介らの挙兵を 信長が支援し 山陰侵功の機を窺っていたが、 明智光秀の丹波侵功が本格化したことで 毛利は信長との対決の道を選んだ。 この決断は四国の伊予河野氏や上杉謙信、武田勝頼にも報じられ 足利義昭の働きかけを受けていた謙信も、長年敵対していた加賀の一向一揆を和睦し、 信長包囲網の一角に加わることとなった。 こうして本願寺、毛利、上杉の反織田信長軍が成立した。 毛利は播磨の上月城を攻略し、姫路城も攻めているが、このときは御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛の活躍により退けられている。  反織田信長陣営であった本願寺・一揆方であった紀州雑賀の一部が 信長方に寝返って内通した。 これにより毛利水軍の一角が崩れ 信長は和泉で一揆の立て篭もる貝塚をを攻め、紀州雑賀に進撃した。 これにより雑賀衆の代表が降伏した。 8月には松永久秀親子が天王寺砦を引き払い信貴山城に立て篭もるが 信忠率いる大軍に攻められ焼死する。 9月能登平定を進めていた謙信は七尾城を攻め、ただちに加賀に進み、金沢南方で柴田勝家に快勝した。 しかし翌年、謙信が49歳で病死すると、二人の養子である景勝と景虎(北条氏政の弟)との間で家督争いが続き、 反 信長陣営から脱落する。

重臣・羽柴長秀を総普請奉行に据え築城させた安土城 天主閣址

 

1577年

 播磨の三木城・別所長治につづいて摂津の荒木村重が寝返り本願寺・ 毛利と手を組んだ。 これにより瀬戸内海沿岸には強大な反織田信長同盟が成立する。 荒木村重はもともと 信長に忠節を尽くして大名に取り立てられたが、ここでは光秀・秀吉の遣いにも応じようとはしなかった。 これに呼応して 毛利水軍が本願寺へ向けて木津川河口へと向かった。 ところが織田信長は先の大敗に懲りて、志摩の九鬼嘉隆、滝川一益に大船の建造を命じていた。 鉄板で装甲し大砲三門を積んだ大船により毛利方は近づくことができず大坂への物資補給ができないまま引き返したため、織田信長は大坂海上を制圧し、本願寺は最も重要な補給路を断たれた。

1579年

 荒木村重が有岡城をでて尼崎城に移ると、織田信長の命により一門・家臣らは六条河原などで磔にされ、残るものは焼き殺されたという。 別所長治・荒木村重は毛利軍の東上を期待して挙兵した。 織田信長の豊後の大友宗麟に通じ、また備後の宇喜多直家が秀吉の調略を受けて寝返り、山陰でも丹波、丹後を明智光秀におさえられ、毛利軍は身動きができなかった。 こうして、別所長治は孤立し自害することとなる。 続いて本願寺が信長に屈服すると大坂を退城し、荒木村重は海路、毛利領へ逃れることになるが、後に茶人として秀吉に仕える。

三木城城主・別所長治の石像

 

1580年

 織田信長は天皇を利用して講和の場に本願寺を引き出そうと画策していた。 加賀・越中で信長侵攻は進み丹波の諸城が開城し本願寺は孤立する。 顕如は三木城がおちたことで戦況が悪化すると講和せざるをえなかった。 織田信長は血判起請文を勅使に提出し、天皇が本願寺を赦免する形をとることにより信長を正義とした。 顕如は有岡、三木の残虐な行為にさらされることを避けたのである。 しかし顕如の子・教如はこれに強く反対し、再決起を各地の門徒に呼びかけると雑賀、淡路島の一揆衆をはじめ、信長への抵抗勢力は決して少なくなく、同調した。 顕如はその動きの拡大をおそれ紀州雑賀へ移る。 抵抗を続けていた教如も 信長の退去命令に屈し本願寺、寺内町は灰と化した。 本願寺の屈服を機に柴田勝家の加賀一向一揆制圧はほぼ達成され、一揆の指導者は安土城にて晒し首となった。

 織田信長は本願寺を屈服させると佐久間信盛・信栄親子を追放した。 大坂攻めで攻撃・調略がなく戦功がなかった為、改易追放の処分とされた親子は高野山に隠匿したがそこも追われて流浪し、家老の林通勝、安藤守就、丹羽右近も追放された。 

1581年

 この年、越中では佐々成政、神保越中守は上杉勢・一向一揆に攻勢をかけ、徳川家康は武田勝頼に奪われていた遠江高天神城を奪回し、中国方面の大将を努める秀吉は、因幡鳥取城攻めのため出陣し、毛利方の吉川経家を兵糧攻めにすると経家を降伏させた。 中国・四国地方の平定には武田家の攻略が不可欠であった。 織田信長の侵攻に備えた武田勝頼は新府城に移り、勝頼親子・武田信豊は信州諏訪に出陣するが、松尾城、大島城などほとんどは織田信忠側に寝返り、勝頼弟の仁科盛信守る高遠城も織田信長軍に攻め込まれ、城主・盛信らは討死し落城した。 これにより武田勝頼は夫人とともに小山田信茂を頼るが裏切られ、最後には自害し名門武田家は滅亡するのである。 織田信長は勝頼親子の首を検分し、盛信・信豊をくわえた4人の首は京都に送られ獄門にかけられた。

正親町天皇が眠る深草北陵

 

誠仁親王(陽光太上天皇)が眠る月輪陵

 

1582年

 織田信長は4月安土に凱旋し、天皇・誠仁親王の勅使・勧修寺晴豊より祝勝の品を受け取った。 このとき勧修寺晴豊は太政大臣、関白という天皇方の意向を伝えているが、織田信長は送り返し、すぐさま神戸信孝に四国攻めを命じている。 一方備中に侵攻した秀吉は城々を落とした後の五月、毛利の清水宗治が籠もる高松城を囲み、足守川の水を引き入れて水攻めの策をとった。 救援を求める 毛利軍に対して織田信長は明智光秀、細川忠興らに先陣を命じた。 信長は5月29日に上洛すると、6月1日には本能寺に博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を催し 信忠、公家衆、僧なども集まった。 一方、光秀は出陣に備えて坂本城から丹波・亀山城に移った。 ここで光秀は反乱を計画して戦勝を祈願し愛宕山に参詣している。 決意した光秀は斉藤利三らに計画を明かし全軍を東の本能寺に向かわせた。 2日未明、本能寺を取り囲んだ光秀軍は攻め込むと、信長は本能寺の炎の中で自刃し、森蘭丸や小姓衆も討死したのである。 信忠は信長のもとに行こうと妙覚寺をでるが、村井貞勝の勧めで二条御所に逃げ込み、誠仁親王らを内裏に逃がした。 しかし応戦むなしく信忠も自害した。 安土城の留守居・蒲生賢秀は信長の妻妾を連れて自分の日野城に非難させたという。

織田信忠邸跡                森蘭丸邸跡

 

織田信長公一族の墓碑(左から順に秀雄、信雄、信長公、信忠、秀勝、信高、信好)

 

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有智子内親王墓

2008年04月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

有智子内親王墓

 京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町、京都嵯峨野、落柿舎のとなりに有智子内親王墓はあります。 今まで何度か嵯峨野の落柿舎に行っておきながら見過ごしてきましたので、今回再び嵯峨野を訪れ有智子内親王の墓にいってきました。 があるとは最近まで知りませんでした。 再度嵯峨野を訪れたときには是非とも行ってみたいと思います。 絶景の桜を眺めながらの嵯峨野散策でしたが、とにかく人気のある場所ですから人でいっぱいでした。

落柿舎の西隣にある有智子内親王墓(撮影:クロウ 2008/4/5)

 

  平安時代807-847年に生きた有智子内親王は嵯峨天皇の第八皇女として、母を交野女王に持ち、生まれます。 弘仁元年(810年)4歳で賀茂の齋院となり、823年三品に叙せられ、さらに二品に上り、承知14年に41歳で崩じます。 平安朝随一の女流詩人としてだけではなく、歴史的には「賀茂斎王の初まり」としての有名です。 810年、薬子の変を平定した嵯峨天皇は、戦勝の礼と、平安京の安泰を願って、賀茂社に、4才の皇女、有智子内親王を捧げます。 そして伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立し、伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院に入る前には「野宮」と呼ばれる潔斎所で禊ぎを行い、3年間の潔斎を経て斎院へ移ったのです。  「延喜式」巻五・斎宮によれば、卜定によって選ばれた斎王は、まず宮城内の初斎院にて1年間を過ごし、翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、野宮でさらに1年間、翌年9月の伊勢群行/賀茂斎院入院までの期間を精進潔斎します。 天皇が在位している間、斎院は賀茂神社で居住し、退下は天皇の譲位か肉親の喪による時なのは、伊勢斎王と同じである。 野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川に作られたが、必ずしも一定した場所が定まっていたわけではないようである。 賀茂斎院の場所は、一条大路の北方、紫野に所在したため紫野斎院とか、略して紫野院とも呼ばれ単に野宮とも称していた。 今日の京都市上京区の七野(ななの)神社がその跡といわれている。斎院にも伊勢斎宮同様に斎院司という役所があり、長官以下の官人や多くの女官たちが働いていた。

 有智子は斎院を退いた後は、嵯峨西荘に住み、生涯を通して独身のまま、847年に41才で没しました。有智子 の墓は京都嵯峨野の落柿舎のすぐ西隣にあり、そこは彼女の春日山荘の跡であります。 因みに「落柿舎」は、松尾芭蕉の門人向井去来の宅で、芭蕉もここに滞在したことがあるといいます。 斎院は嵯峨天皇から順徳天皇まで4百年ばかり続いたが、それは神祇史の上ばかりでなく、平安文学にとっても欠くこ とのできない役割を果たしました。 初代斎王の有智子内親王にはじまり、選子(のぶこ)内 親王、祐子(みわこ)内親王、式子(のりこ)内親王等は錚々たる閨秀歌人であった。式子内親王彼女は、「新古今和 歌集」随一の女流歌人である。

有智子内親王が初代斎王として卜定された賀茂斉院御所跡

 

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世泰親王墓

2008年04月16日 | 陵 古墳 墓 遺跡

後醍醐天皇塔尾陵に眠る長慶天皇皇子・世泰親王墓

 

  藤原教子と長慶天皇の第一皇子・世泰親王(1360-1377)は、近世の南朝系図においては後亀山天皇皇子とされています。  長慶天皇は、1368年、後村上天皇崩御の後を継ぎ即位した南朝3代目の天皇である。 弟の4代目後亀山天皇に譲位するまで16年間在位し、南朝は4代を以て終焉を迎え、後亀山天皇は北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し、およそ60年に及ぶ南北朝時代は終わった。 長慶天皇も父・後村上天皇と同じく対北朝強硬派で、南北朝の戦乱の中にその生涯を過ごした。 足利幕府の軍勢は、各地の行宮に頻繁に攻撃をしかけ、帝はこれに応戦し続けた。大和吉野から、河内金剛寺、大和五條の栄山寺と転戦し、弟に譲位した後は、各地の南朝方の武将を訪ね、南朝への協力を求めたと言われている。 

 大塔宮護良親王の死後、後醍醐天皇は建武の中興を果たすが、束の間の夢と破れた後醍醐天皇は、1336年京都花山院をのがれて吉野山に身を寄せ、その後も吉野山にいて吉野行宮を起こすが、1339年皇位を後村上天皇に譲った後、52歳でこの世を去ります。 「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」 と詠み都を憧れつつ、吉野金輪王寺でついに崩御。 後醍醐天皇の遺骸は後醍醐天皇が勅願所とされていた如意輪寺の裏山、塔の尾へ埋葬され、 京都に対する願いを表すために、天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっており、「北面の御陵」として有名です。

                                 藤原教子 
       姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝王1374-1443
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王1360-1377
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇

 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子 ┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子  ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
            ┃                ┃      ┣坊雲
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339     源顕子?-1359
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

 同じく長慶天皇・皇子 海門承朝王は長慶天皇嵯峨東陵に眠っています。

 

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平康頼

2008年04月16日 | 平安時代

平康頼

大徳寺にある平康頼の碑 

 平康頼は阿波出身・平頼季の子で、「鹿ケ谷の陰謀」に加担したことで平清盛によって鬼界ヶ島に流されたが言仁親王誕生の恩赦によって帰京し、1186年に源頼朝の進言によって阿波国麻殖保司に任ぜられている。 墓所は野間大坊の他に、京都東山区下河原鷲尾町の雙林寺に供養塔があり、仏教説話集・『宝物集(康頼宝物集)』の作者として知られている。  平康頼は、「今様狂い」の後白河上皇の今様(当時の流行歌)の弟子のひとりで、熊野御幸にも従い、後白河院から高い評価をされていました。 

 1177年、大納言藤原成親を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)の平家打倒の企みは平清盛に知られ、計画の首謀者たちは捕らえられ処罰された事件が鹿の谷事件です。 西光法師とその子らは拷問の上、斬殺されます。 首謀者の藤原成親と嫡男・成経は、死罪になるところを成親の妹を妻にしている平重盛の説得によって備前の児島流罪となったが、後に飢えにより死亡しています。  成経は、平康頼・俊寛僧都の2人とともに、薩摩南方の鬼界ケ島に流罪になります。  やがて、中宮徳子の出産により島の流人も赦免になるが、俊寛ひとりは許されず置き去りとされ、のちに断食してこの地に果てることとなった。

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三井寺の夜桜

2008年04月12日 | 平安時代

園城寺(三井寺)の夜景

 今回は比叡山延暦寺へ行ったあとの三井寺の夜景です。 前回とは趣の違った夜桜ということで周辺は車でいっぱいです。(撮影:クロウ 2008/4/5)

 

 

 

------------ 2007/4/29 ------------ 

 大津市の弘文天皇陵へ行ったときに、ここ三井寺に立ち寄りました。天皇陵からはほんのすぐ近くです。 その昔、後白河天皇の皇子である円恵法親王が三井寺の長官を務めたところです。 また保元の乱では惨敗した上皇側の源為義が隠れたところであり、以仁王も行家の裏切りにあって隠れているところでもあります。

 園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、いにしえより日本四箇大寺の一山に数えられています。その昔、天智・弘文・天武三帝の勅願により、弘文帝の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武帝より『園城』の勅額を賜り、長等山園城寺と称したのにはじまります。 俗に三井寺と呼ばれているのは、当時天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられた霊泉があり、『御井の寺』と呼ばれていたものを、後に開祖智証大師が当時の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来しています。
 長い歴史の上で当寺は再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の手によって復興し、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

 

 

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清涼寺

2008年04月11日 | 平安時代

清涼寺

 清涼寺は、「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれ、光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子、源融の山荘「棲霞観」があったところが、のちにお寺となりました。 本尊は釈迦如来、開基は然(ちょうねん938-1016は、平安時代の東大寺の僧で法済大師とも号される。)、開山(初代住職)はその弟子・盛算である。 阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係し、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822-895)の別荘・栖霞観があった。 源融の一周忌に当たる896年、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。 その後945年に、重明親王(906-954 醍醐天皇第四王子 母は源昇娘)の妃( 藤原登子 藤原寛子:太政大臣・藤原忠平の次女の姪)が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。 (撮影:クロウ 2008/4/5)

仁王門                      本堂

 

嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822-895)の別荘・栖霞観跡

 源氏物語 「松風」には光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、栖霞観の場所と一致することから、河原院が六条院のモデルとも、源融が光源氏のモデルとも云われる所以である。

 

 源昇墓碑(父・源融の遺産・河原院を宇多天皇に献上した)

  

多宝塔(1700年多宝如来安置)                 一切経堂 

 

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義仲寺

2008年04月10日 | 平家物語

義仲寺

 大津の旧東海道沿いの粟津ヶ原にある義仲寺は木曾義仲公御墓所でもあります。1181年1月21日、義仲は源頼朝の命を受けた範頼、義経の軍勢と戦いこの地で果てたました。 前々から是非訪れてみたかった義仲寺はこじんまりとした趣深い墓所でありました。2008/4/6(撮影:クロウ)

 

義仲公墓                     巴塚

 

山吹塚(もともと大津駅前にあった山吹塚が移転された)

JR大津駅前にある山吹御前の地蔵

 

 巴御前はいわずと知れた木曾義仲の正妻である。 今となっては今生の別れを覚悟し、化粧を整え出陣の用意をしていた。 義仲は万一の為に平家に対して西方を固めるべく巴の兄・樋口兼光を淀の南に差し向けていたが、 ここで弁慶・三郎軍に打ち破られたという一報に驚いた。 宇治の本陣とは別の隠し勢が疾風のようにあらわれ、野営の眠りを襲っていたのである。 そして兄・兼光を援護すべく巴御前を加勢に急がせた。 このとき義仲も巴も木曾軍の行く末を覚悟していた。

 また、病に臥せっていた義仲の妾・葵御前も援軍のため戦場に駆けつけようと、支持を仰いでいた。 宇治川が危ないという知らせが入ってきたときである。しかし義仲は葵に故郷へ落ち延びろ、と言い渡した。 しかしもはや葵御前には義仲とともに討たれはてることこそ本望であると考えていた。 数知れぬ東国勢は七条河原・大和大路にまで迫っていた。 義仲は先頭をきって、わずかに60騎で七条河原へ挑んだのである。 さすがに東国武者も馬も疲れぬいていたせいか、義仲は木曾の手並の程を思い知らせた後、40騎ほどで五条の院の門へ急いだ。

 すると、そこには小柄な女雑兵が身を潜めていた。「殿!」 と叫んだ後駆け寄って、「今日こそお供を果たす日!殿、共に死にましょう」 といったのは山吹である。 義仲はまだ自害する気など毛頭なかったのはゆうまでもない。 しかし山吹の義仲に対する歪んだ愛情・執念は並大抵ではなかった。 死とは全く別の恐怖と山吹への憐れみを感じながら、義仲は片足の鐙をはずして山吹を蹴りはなした。 するとどこからともなく、一本の矢が山吹を突き刺し「っぎゃ」という悲鳴とともにもがいていた。 道のいばらが取り除かれると義仲は馬をはしらせた。

 五条のから梅小路へ急いだ義仲は、もはやいるはずもない冬姫の方向へむいている。 ふとみると老婆がたちすくみ、義仲を待っていたかのように「姫君の殿!」と叫んだ。 姫は中にいて義仲を待ち焦がれていたのである。 義仲は耳を疑った。  後白河の院はもとより、木曾を恐れて冬姫を助けにこない父・基房に憤りを感じながら、 冬姫に駆け寄った。 考えてみれば、関白の家に生まれ、父と仲良く過ごすことも少なく、華やかな邸では孤児同然であった。 義仲も木曾の孤児である。 「義仲は武者の末路を辿るが、おん身は元の園生にもどられよ。 そして鬼のごとき者とであった日は忘れてくれい」 というと、「どうして、わすられましょうか。ましてあなたを鬼などと思えましょう」 二人は今生の別れの抱擁をすると、「・・・・姫!さらば」 といい残すとわずか30騎の義仲軍は駆け抜けた。

 鎌倉勢は徐々にその数を増し、義仲勢は減っていくなかで、思いがけない味方が現れた。 風にも耐えない細い体に物の具を華やかに着、かんばせは化粧を施し、薙刀を振るって精悍な東国武者の間を駆け抜け、必死な戦いをしている者がいたのである。 葵御前であった。 殿軍を勤めて殿を落ち延びさせようと・・・・。

 一方巴御前は義仲を慕って急いでいたとき、内田三郎に呼び止められた。 「そこなるは、巴御前とかいう世に聞こえたる女武将にてはあらざるか。返し給え。」 駒を向け直した巴は、「身は木曾殿が室の巴御前ぞ。作法ある武者とは見ゆ。相手になって進ぜよう。」 と薙刀を持ちかえた。  長やかな黒髪を束ね、額には星と輝く白銀の鉢巻をし、葦毛の駿馬・春風を走らせると、首のない三郎の体が振り捨てられた。 巴はさきの優しい三郎の名乗りを想い、岩の上に首をすえ手向けると、 近くに一人の武者の死骸を見つけた。 その鎧、袴、そして自分と同じく額には天冠を締めた姿はまぎれもなく葵の前のいでたちであった。 病床にありながら何故・・・体はまだ生暖かく、こと切れてはいなかった。 良人の愛を横取りして我が物顔をした女などとうらんだこともあったが、今はそう思おうとしても浮かんで来なかった。 「憐れや、女心・・・」 と身につまされると、近くのみ社に葵を預けた。 葵はうっすらと眼を開いて何かをいいたげに涙ぐんだ。 涙はどんな言葉よりも多くの、そして過去の一切を語っていたのである。

 そのころ、義仲はわずかな手勢で頼朝軍のまっただなかにいた。 薄金の鎧すら身に重さを感じながら竹馬の友・兼平と涙し、木曾6万の大軍もいずこへ・・・ と無量な感に打たれずにはいられなかった。 甲斐の一条忠頼、土肥実平、などが木曾の大将軍・義仲を見つけると、続々と呼ばわりかかってくる。 その怒号のなかで一人の味方の姿をはっきりとみた。東国の武者に取り囲まれながら、ほのかな命を燃やす巴御前の姿である。 「巴・・・」という心からの真実の声は巴には届いていない。 この刹那、三浦の住人・石田次郎為久は 「木曾殿の御首級を、われ揚げたるぞ!」 と体中から怒鳴っていた。

 まだ事実をしらない巴は、一人30騎に囲まれていた。 たかが木曾の知れた女武者、と無造作に組み付いた者はことごとく死骸にされていた。 そのとき巴は敵の中に、和田義盛の手の者との名乗りを耳にした。 そのとき、鎌倉方の犬として捕らえられ、首斬られるところを自分が救って放してやった西浦七郎という男が脳裏をよぎった。 巴は鎌倉殿へ、木曾の人質子として嫡男・義高を預けていたが、その番士と聞いて、わが子恋しさ、後の便り得たさで放してやったことがあった。 そして幾たびか七郎の才覚により義高のいじらしい文が届いていたのである。  「西浦と呼ぶ武者やある!巴が求める敵よ。見参あれ!」 というと 「おうっ」 という声がした。確かに見覚えのある眉目である。 巴は和田・・と聞いたときに、何故か人目、義高に会いたい・・・と変わっていた。 巴は七郎と組み合うと、下にねじ伏せられ、望みとおりに生け捕られたのである。

 後に、良人の首と兄の首をひとところに見たときには、何故死ななかったのか・・・と悔いた。

 範頼、義経その他の鎌倉武者の華々しい行列が、亡き将義仲、兼平、根井、盾などの首級を掲げて六条東獄の門へ向かっていた。 首は宿命の木にかけられる。ところが数日後、義仲の首だけが盗まれていた。 ある夜、鳥辺野に身を横たえた女雑兵は一個の首を火葬していた。 泣いて泣いてそれを灰にしていた。義仲が最後の戦に出る朝に葵の矢に射抜かれた山吹であった。 射抜かれたところは倶梨伽羅峠で山吹が葵を射抜いたと同じ深腿である。  山吹は後に義仲の遺骨を抱いて北陸のにて生涯供養を余生の生活として長寿したそうである。

 また、明神で正気をとしもどした葵の前も越前に帰り、義仲の縁につながる人々に義仲の最後告げ歩き、晩年おそらく清雅なものであったと思われる。

 義仲の死後もっともいじらしい犠牲が残されていた。 冬姫である。 父・基房が娘もある梅小路にかけつけたときには、眠るがごとく死んでいた。毒を飲んでいたのである。 いつの日か、父から授かった手紙が机に置かれ、それは語らずとも父、院への激しい抗議であった。

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大徳寺

2008年04月08日 | 戦国時代

大徳寺・塔頭

 京都紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(1282年播磨守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれる)で、正式な創立は1325年である。 境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20ヶ寺を超える塔頭が並ぶ。 春の良き日2008/4/5に訪れましたが南禅寺とは違って人はまばらで混雑も無く、ゆったりできました。

山門(金毛閣には利休の木像がある)          勅使門

 

興臨院:前田家菩提寺            瑞峯院:大友宗麟が建立 

 

大慈院

 

三玄院:石田三成・浅野幸長・森忠政が建立

 

聚光院:三好長慶菩提寺            真珠庵:一休禅師が開祖

 

大仙院:大徳寺76世住職古岳宗亘により創建    芳春院:加賀前田家の墓所

 

総見院:織田信長菩提寺      龍源院:畠山義元・大友義長らが創建

 

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