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山名宗全の竹田城

2008年03月09日 | 鎌倉・室町時代

山名宗全の竹田城

 今回訪れたのは竹田城。 加古川バイパス途中から播但有料道路に乗り換えて終焉の和田山ICで降り、約2kmほど戻ると山の山頂にその城壁は見えます。 登山道もあるのですが、もちろん車で竹田城跡地駐車場まで向かいます。

 

 竹田城は、但馬守護大名・山名宗全 (室町幕府管領の細川勝元を相手に争い、応仁の乱を勃発させた。) が有力家臣の太田垣に築かせた城で、そのころは砦に近い形であったといいます。 現在残っている石積みの城郭になったのは廃城時の1600年頃で、秀吉の但馬攻略後に弟の秀長が 城主であった頃に大修復が行われた。 後に城主となった赤松広秀は1600年の関ヶ原戦で西軍に加担し、のちに家康に帰参するが、結局は家康の命により切腹し、赤松氏は断絶し城も廃城となった。

駐車場から城郭への上り口には山門があります

 

 竹田城は、別名虎臥城、天空の城ともいわれ、縄張りは、南北約400m、東西約100mで、天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。

花屋敷からみた城郭

 

 総石垣造りの近世城郭は織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。 応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢により撃退するも、羽柴秀吉による、1569年および1577年の但馬征伐により落城する。 その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀が城主となり、秀長が出石の有子山城主になると、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。 そして桑山重晴が和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀が城主となる。  赤松広秀は城下の大火の責めを負い家康の命によって、1600年12月3日鳥取真教寺にて切腹し、竹田城は廃城となった。

花屋敷からの眺めが絶景です 

 

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