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長屋王家木簡

2008年03月02日 | 奈良・飛鳥時代

木簡からわかる長屋王

 平城宮の南東隣接部の一等地で1987年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が浮かび上がったのである。 翌1988年には掘削予定ではなかった住宅地の端で土に埋まった木簡が発見されたが、それは約3万5千点に達するものであった。 当時、紙は貴重なものであったから、荷札、メモ等々は木簡といわれる木の札に記載されたのであるが、発掘現場が長屋王の住居であったという決定的な証拠となったのは「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡である。 これは宮廷の音楽を担当する雅楽寮から長屋王の家政機関の長官に宛てたものであるが、家政機関(家令)というのは親王及び職事のうち三位以上の諸王・諸臣に対して国から与えられた家政担当の組織である。 雅楽寮が発掘現場であるはずはないことから、現場が長屋王の邸宅ということになった。 長屋王の家令の名は赤染豊嶋、年齢60歳であった。 壬申の乱の時に高市皇子の従者として活躍した赤染徳足の息子が赤染豊嶋である可能性は高く、高市皇子没後に息子・豊嶋が長屋王に仕えることになったと考えられる。

長屋親王宮鮑大贄十編        雅楽寮移長屋王家令所

           

 祖母が九州の豪族・胸形氏の出身であったために天武の第一皇子であったが皇位に就くことはできなかったが、母は天智天皇の娘・御名部皇女で元明天皇の異母姉にあたる。 正妻は元明と草壁皇子の娘・吉備内親王で膳夫王、葛木王、鉤取王らの息子がいる。 吉備内親王との結婚は703年頃で、704年に初めて歴史に登場する。 そのときの叙位は正四位上であり29歳にしては異例に遅い。 これは皇位継承資格者としての長屋王の台頭を危険視したためと考えられる。 704年の叙位により長屋王は皇位継承候補者から外され、官人として歩むことになる。709年には従三位に叙せられ翌年、宮内卿から式部卿になり718年に大納言に任ぜられ天武の子世代の親王に匹敵する待遇を与えられた。 715年に吉備内親王所生の子を皇孫扱いするということは長屋王を親王扱いすることを意味する。 木簡に「長屋親王」と記されていたことは周知の事実であったのである。

 長屋王の邸宅三条二坊の四坪の敷地の内郭中央の居住空間には正殿と脇殿が建ち、天皇の居住空間に匹敵する格式を窺わせる。内郭の西宮には吉備内親王が住み、邸宅の北半分には家政機関や使用人の居住空間になっている。 また、木簡から邸宅に集まるさまざまな物資を見ることが出来る。 各地からの封戸は90にも及び摂津の塩漬け鯵、伊豆の荒鰹、武蔵野国の菱の実、美濃の塩漬け鮎、越前の栗、阿波の猪、紀伊・讃岐の鯛、など全国から珍味が送られてきている。 また、高市皇子の実家である母・尼子娘かたからのものもあり結びつきが長屋王の代になっても保たれていたことが窺える。

各地からの贈り物荷札の木簡

御取鰒(あわび)五十烈           伊雑郷近代鮨              賀吉鰒廿六貝

                

 これらの木簡から、石川夫人や安倍大刀自らの側室にも支給されていたのであるが、藤原不比等の娘・長蛾子夫人の名は全く見られないことから実家である不比等邸宅に暮らしていたものと思われる。 長屋王の多くの子供達の名も木簡に登場し、後に異例の昇進をする竹野女王(不比等の嫡男・武智麻呂の妻となる)が長屋王の妹とみられ長屋王の庇護の下にあったことがわかる。

長屋王妹・竹野女王へ贈られた米荷の木簡

竹野皇子二取米三升○余女   竹野王子進米一升大津/甥万呂/  竹野王子御所進粥米二升受老

                      

 

安宿王(長屋王と妾長蛾子との息子)への贈答札の木簡

北門○安宿戸○依網津○播磨○賀毛     北門○/安宿/額田∥○/紀伊/檜前

                 

 710年から717年にわたる長屋王一家の豪奢な生活ぶりはこの木簡で明らかになったが、このとき長屋王はまだ大納言にもなっていなかったが、親王としての格別の立場を物語っている。

1.4平方kmにも及ぶ平城宮跡は710-784までの間古代国家の中枢として機能した場所で、長屋王邸宅は二条大通に面した一等地にある。

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