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藤原麻呂家令木簡

2008年03月04日 | 奈良・飛鳥時代

藤原麻呂家令木簡

 717年巨勢麻呂、石上麻呂、719年粟田真人、720年藤原不比等と相次いで他界すると長屋王、安倍宿奈麻呂が大納言に命じられた。 721年には長屋王が右大臣となり長屋王政権が誕生し、 722年政権による政策として(1)陸奥出羽 按察使管内の調・庸を免除(2)百万町歩開墾計画(3)公出挙、私出挙の利息を三割に軽減(4)鎮所への兵糧運搬奨励 等々を出した。 724年首皇子が聖武天皇として即位すると長屋王は左大臣に昇進し、聖武天皇、藤原氏との関係は極めて良好である。 このようななか、727年に聖武天皇と光明子との間に皇子が誕生したのは安倍内親王以来9年目のことであった。 ところが皇子は翌年728年この世を去ってしまった。 729年、2月元興寺で行われた法会において長屋王と仏教信仰者との間で問題が発生した。 その2日後に六衛府の兵が長屋王邸を囲んだ。 兵を指揮したのは藤原四兄弟の三男宇合で、翌日舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂、少納言巨勢宿奈麻呂らが長屋王邸を訪ねたのである。 長屋王にかけられた罪状は国家転覆罪、つまり聖武天皇を呪詛したというものであった。 事の起こりは前日の密告で、その密告者は従七位下・漆部君足、漆部駒長と無位の中臣宮処東人であった。 長屋王への処断は過酷を極め、翌日長屋王は自宅にて毒をあおり、妻・吉備内親王や三人の息子とともに自殺した。

 長屋王の変は明らかに、当時政権を担う長屋王の台頭を危ぶんだ藤原四兄弟の画策にようるものと考えられており、変後は藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂による藤原四子政権体勢が固まっていくのである。  729年聖武天皇の夫人光明子が皇后になった。臣下の女性が天皇の正妻として皇后になったのはこれが最初である。光明子皇后を布告した聖武天皇の勅は極めて歯切れの悪いもので、この立后に不審をいだく人々は多くいたと思われる。 皇后は内親王から選ばれなければならないという原則を長屋王が主張することを見越し、 聖武天皇と光明子の子孫が絶えた場合に長屋王が有力な皇位継承者であることを疎ましく思った者の狙いが、長屋王の変に現れている。

 光明皇后の住居・皇后宮については藤原不比等の邸宅の後身である法華寺であるといわれてきた。 光明子が太子と居住を構えたのは不比等の邸の一郭であったことから皇后宮もそこにあったとされていたが、1988年長屋王木簡の発見の頃、長屋王邸正面の二条大通りの遺構から光明皇后に関する木簡群が発見されたのである。 藤原麻呂の家政機関に関わる木簡の差出元は「中宮職」で、これは聖武天皇の実母・藤原宮子の庶務機関である。 あて先は「兵部省卿宅政所」 で、当時の兵部卿は藤原麻呂であるから、藤原麻呂の家政機関ということになる。 木簡には19人の名前 (池辺波利・太宿奈万呂・杖部廣国・秦金積・大鳥高国・川内馬飼夷万呂・日下部乙万呂・太東人・八多徳足・村国虫万呂・東代東人・山村大立・史戸廣山・大荒木事判・太屋主) が列挙され、これは宮子付の中宮舎人と見られる。 この木簡群は二条二坊の南面に集中しており、 これはここが藤原麻呂の家政機関であり藤原麻呂邸であったことを物語っているのである。

藤原麻呂の家政機関の中宮職移木簡

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