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院政下の源氏

2008年03月22日 | 平安時代

院政下の源氏

 後三年の役の後、白河は天皇は源義家を天皇親政隊長とすべく期待していたが、義家にはその意思はなかった。 それを見抜いた白河天皇は後三年の役を私合戦として勲功を与えず、1106年死去するまで無官のまま放置した。 これは義家の源氏の棟梁としての力を恐れ警戒していたからである。 そして兄の活躍に隠れていた源義綱を表舞台にたたせることとなる。  義家は死去するにあたって源氏一門の将来の不安を抱いていたが、 まず1101年義家嫡男の義親が大宰府での濫行により隠岐に配流となる。 1106年義家の三男・義国と弟・義光が合戦し義家は義国の召喚を命じられた。 1107年隠岐に配流となっていた義親が出雲国目代を殺害したことで、白河天皇は近臣・平正盛を追討使として派遣し、翌年追討は成功し正盛という新たな武家の棟梁が誕生する。

 1109年義親の配流後、義家の後継者となっていた検非違使・義忠(義親の弟)が斬殺された。 源重実に嫌疑がかけられ連行されると、その弟・重時が義綱邸を襲撃して義綱三男・義明を殺害した。 このとき義綱は逃亡を図るが、白河院の命を受けた源為義が追捕に向い、義綱は投降するが後に配流先の佐渡にて暗殺される。 また、6人の子は全てこの事件で自害等々にて死亡している。翌1110年、鳥羽天皇呪詛事件などもあり左大臣源俊房一家は義綱一家とともに滅亡することとなった。

 源義忠が殺されたことにより義家の家督を継いだのは義親嫡子・為義であった。 白河・ 鳥羽院は東国武士を束ねる為義を恐れて抑圧を加え、検非違使としたのは1124年頃、従五位下としたのは55歳のときである。 これに対して嫡男の義朝は鳥羽院の近臣として熱田大宮司藤原季範娘を妻とし、待賢門院からの支持ももあつかった。 こうして義朝は義家一族を引き継ぐこととなる。

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