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加古川城主 糟屋武則

2008年02月17日 | 戦国時代

加古川城主 糟屋武則

 糟屋武則で代表される糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家で、播磨国にて別所氏の家臣であった糟屋忠安の次男である。武則の母が兄朝正を産んだ後、豪族志村氏と再婚し、その際に産まれたのが武則である為に本性は志村だったとされている。 1577年の羽柴秀吉の播磨攻めの時に朝正が別所長治について三木城に入った為、武則は兄と袂を分かって織田方につき、糟屋の姓を名乗りその後武則は黒田孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓頭となっている。 1583年、賤ヶ岳の戦いで武則は佐久間盛政配下の宿屋七左衛門という武士を討ち取るなどして活躍し、福島正則や加藤清正らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。 その後も小牧・長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐などに兵150名を動員して参加している。 また1586年には方広寺大仏の作事奉行、1591年には近江国検地奉行を務めるなど行政面でも事績を残し、後陽成天皇の聚楽第行幸の際には天皇の行列に供奉している。 この他朝鮮出兵にも従軍し、1592年には新庄直忠らとともに朝鮮人逃亡流民の帰郷を促す訓令を発布するほか、1593年の第二次晋州城攻防戦に参加するなど活躍し、1595年には播磨加古川城主(12000石)になった。 七本槍の中で唯一西軍に加わり、360名の兵を率いて伏見城の戦いや関ヶ原の戦い等に参加した。戦後改易され、後に許され1602年に旗本として徳川家臣となるが、その死後、糟屋家は再び断絶となった。

糟屋忠安?-?
  ┣糟谷朝正 平井山合戦1579年で討死
  ┣糟屋武則1562-?(1595加古川城主、関ケ原戦で改易 長浜城歴史博物館に武則所用と伝わる銘助光の大身槍(平三角槍)が所蔵)
 ┃ ┃1577三木合戦が初陣 
 ┃ ┃1580家督を相続 
 ┃ ┃1582本能寺の変の後、山崎の戦いに参加 
 ┃ ┃1583賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政配下の宿屋七左衛門と槍を合わせ武功を挙げる 
 ┃ ┃1584小牧・長久手の戦いでは、他の七本槍と共に馬廻衆として本陣を守る   
 ┃ ┃1590小田原征伐にも兵150名を動員して参加 
 ┃ ┃1592文禄の役では、目付として片桐且元らと共に200名の手勢を引き連れて名護屋城へ出兵 
 ┃ ┃1595 6,000石の加増を受け、加古川城主1万2,000石の大名となる  
 ┃ ┃1600関ヶ原の戦いで宇喜多秀家隊に属して奮戦。戦後処理で家禄を没収されて改易された 
 ┃ ┃1602領地を1万2,000石に回復したが、1615年大坂夏の陣にて討死?  
 ┃ ┃  
 ┃ ┃    

 ┃ ┣糟屋宗孝(関ヶ原の戦で改易後復活するが大坂夏の陣にて討死) 
  ┃ ┣十左衛門(加賀藩主・前田利長に召し抱えられた)   
 ┃ ┗加藤権左衛門  
 ┃  ┗娘(黒田二十四騎の一人、益田正親の室)
  ┣糟谷助兵衛
  ┃ ┗加須屋武成(保科正之に召し抱えられ弓術日置流道雪派の祖となる)
  ┣糟谷武政(大坂夏の陣の後、加古川市米田町船頭で帰農)            

 女(小寺政職の妹)   

加古川城跡は現在称名寺となっている

 

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池田輝政は高砂城城主だった

2008年02月17日 | 戦国時代

池田輝政

 1564年、池田恒興の次男として尾張国に生まれ、織田信長に仕え、本能寺の変後は、父兄と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕える。  1584年の小牧・長久手の戦いで、父恒興と兄元助が戦死したため家督を相続し、美濃国大垣城13万石、ついで岐阜城13万石を領する。  豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。 また、豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。  1594年、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。 秀吉没後は関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、福島正則とともに功を挙げた。 戦後、播磨国姫路城52万石に加増され、名を輝政と改めると姫路城を大規模に改修した。 1612年、正四位上参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称された。 二男忠継の備前国岡山城28万石、三男忠雄の淡路国洲本城6万石、弟長吉の因幡国鳥取城6万石を合せ、一族で計92万石もの大領を有して、世に「西国将軍」等と称された。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。  

播磨高砂神社境内には現在、高砂城跡があり、池田輝政公の像も見ることが出来ます。

 

  

生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死

 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)

 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣- 督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘   ┣池田忠雄
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┗森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死【小牧長久手戦】
織田信長

 7月25日、伏見城攻撃を受けた徳川勢は小山に集結して軍議を開いた。 徳川家康は福島正則の攻略も行った。 福島正則は賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な名将であり、その説得には黒田如水の子・長政があたった。おかげで長政は異例ともいえる52万石の大名となっている。 本来秀吉の手中にあり、秀頼を守る立場にあった福島正則、加藤清正が石田三成とは朝鮮出兵以来反りが合わなかったことを巧に利用して調略したと考えられる。 これまでの豊臣秀吉の調略を家康が取り入れた効果が関ヶ原の戦い以前から始まっていたのである。 こうして小山軍議では福島正則は東軍の名乗りを上げた。 そして福島正則とともに先鋒となった武将に池田輝政がいる。 池田輝政は小牧・長久手の戦(秀吉と家康が戦い家康が勝利する)で討死した池田恒興の子であるから、本来家康は輝政にとって父の仇である。 戦後、輝政は秀吉の計らいで家康とも和解したが、そのときに家康の次女・督姫を妻としていために家康側についたのである。 

 小山軍議が開かれた一週間後の8月1日に伏見城は落城し前哨戦は西軍の勝利となる。 いよいよこれから本戦に突入していくのであるが、その戦場として選ばれたのは関ヶ原であるから、美濃領主の岐阜城が重要となってくるが、このときの岐阜城主は織田信長の孫・三法師、つまり織田秀信である。 秀吉に操られ13万石の領地しか与えられなかった秀信は秀吉に恨みがあるはずで、家康側についてもよさそうであるが、西軍に味方したことで東軍家康の攻撃目標は岐阜城と定まったのである。かくして先鋒福島正則と池田輝政は岐阜城を攻略して織田秀信を出家させた。

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龍野城

2008年02月11日 | 戦国時代

龍野城

 1499年播州地方の豪族の赤松村秀が鶏籠山に築いた以後、政秀、広貞、広秀と続いたが、1577年に豊臣秀吉によって開城し、秀吉はあらたに蜂須賀正勝を置いた。  江戸時代にいったん破却されたが、1672年に脇坂安政によって再建され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になった。 現在の本丸御殿は1979年に再建されたものである。

桜散る後の新緑に囲まれた龍野城 2008.4.25

 

本丸御殿(2005春 撮影:クロウ)

 

  歴代城主は 1506-1577年には〈赤松4代〉赤松村秀、政秀、広貞、広英 1585-1587年には 蜂須賀正勝、  1587-1589年には 福島正則、 1589-1594年には 木下勝俊、 1594-1595年には 小出吉政、 1617-1626年には 本多政朝、 1626-1632年には 小笠原長次、 1633-1636年には 岡部宣勝、 1637-1658年には 京極高和、 1672-1871年には 〈脇坂10代〉安政、安照、安清、安興、安弘、安実、安親、安薫、安宅、安斐 が城主となっている。

 後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。

 敗走してきた義詮と三河で合流した尊氏は遠近橋本の戦いで北条時行を撃破し鎌倉を陥落させたのである。 一方京では反乱の首謀者である西園寺公宗は北条泰家とともに死罪に処せられた。この時後醍醐天皇は尊氏に京へ戻るように命令するが、弟の義詮はそれを制し結果的には鎌倉に居を定め、配下の武士に恩賞を与えることによって実質的には幕府を復活したのである。 そして足利尊氏・直義兄弟は新田義貞を討つために兵を募った。新田義貞は後醍醐天皇側の武士であり後醍醐天皇より尊氏尊氏追討の命を受けたのは133511月であった。この時尊氏は天皇に逆らうことはできないと参戦しなかったため、新田義貞は足利直義を破る。 直義の敗戦を聞いた尊氏は鎌倉の建長寺に入って出家しようと考えたが、直義の画策により再び発起し、新田義貞を敗走させた。 これを機に中立派の武士が続々と尊氏の新政権に加担を表明したのである。その代表が赤松円心という流通業で富を得た播磨の武士である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336111日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。

 足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。孤立した後醍醐天皇が比叡山に篭っている間、尊氏は1336年五月、京の石清水八幡宮に本陣を構え、光厳上皇と豊仁親王と合流した。そして光厳上皇に豊仁親王の天皇即位を要請する。 北朝第二代光明天皇の誕生である。足利尊氏は強大な軍事力で後醍醐天皇を追い詰め、三種の神器を光明天皇に渡し、正式に譲位するかわりに後醍醐天皇の皇子が、光明の皇太子になるという和議を持ちかけ、後醍醐天皇は承諾したのである。息子の成良親王を皇太子とすると京を脱出して吉野に入った。そして「光明に渡した三種の神器は偽物であり朕こそ真の天皇である。朕に忠誠を誓う者は逆賊尊氏を討て」と言った。この日から南北朝が統一される1392年までの56年間に渡り皇室は分裂することになる。この直後1338年、後醍醐天皇は北畠顕家、新田義貞という両腕を亡くし、翌1339年に義良親王を皇太子とすると亡くなった。

 ここで登場する赤松円心は龍野城主・赤松村秀を6代遡る豪族にあたる。また、足利6第将軍義教を1441年に暗殺(嘉吉の乱)した赤松満祐(後に管領細川持之以下有力守護大名により追討が決まり、播磨・備前・美作の兵により体制を整えたが、但馬守護の山名持豊を総司令官とする幕府軍にはかなわず播磨坂本城から木山城に後退し1441年落城する。)は赤松村秀の祖父の叔父にあたる。

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白河皇太后・賢子上醍醐陵

2008年02月02日 | 天皇・皇后陵

上醍醐陵

京都府京都市伏見区醍醐山醍醐寺内

 昨年春の醍醐寺にて桜花見をしたときに続いて、二回目は冬の醍醐です。このときの京都は冷え込みがきつくボタン雪が途中から降ってきました。 上醍醐陵へ行ってみようとしたのですが、ここ参道入り口から陵までは約1時間の山登りを覚悟する必要があるのですが、丁度ボタン雪が雨に変わるという生憎の天候のために断念です。

上醍醐陵への参道(2008/1/25撮影:クロウ)

 

 上醍醐は桜で有名な醍醐寺から西へ登山道を進んだ上醍醐山頂にあります。 比叡山延暦寺、高雄山神護寺といったお寺と並んで江戸時代まで女人禁制でした。 いずれも密教系の山岳寺院で、厳しい修行に打ち込むのは男性に限定され、それゆえ修行のさまたげとなる恐れのある女性は近づくことができなかったといいます。 上醍醐寺の開山堂の近くに上醍醐陵という陵墓があり、 この陵墓の主は白河天皇の中宮だった藤原賢子 (紫式部の娘の名も藤原賢子)、その娘で堀河天皇の中宮になった媞子内親王、賀茂の斎院になった令子内親王の三人の母子です。 

 白河天皇皇后 藤原賢子・第72代白河天皇中宮の父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。  後三条天皇は藤原頼道の嫡男・師実を呼び、養女賢子を1071年、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内させた。 これにより村上源氏の父・源顕房は宮廷に威勢を誇るようになる。 白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年長子敦文親王誕生に伴い中宮となる。 1077年敦文親王を亡くすも、1079年善仁親王(後の堀河天皇)を出産し、ほかに、媞子内内親王(郁芳門院)、令子内親王、子内親王を生んだが病にかかり、三条第にて28歳で崩御する。 鳥辺野にて火葬され、翌年醍醐山頂の円光院にて遺骨を納めた。 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかったという。 これを見かねた権中納言源俊明が、遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。 白河天皇の嘆きは一方ならず、1086年円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院、勝楽院、常行堂などを建てて供養した。 1087年、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈された。

 実は賢子の異母妹である師子も白河上皇の後宮にはいり、後の覚法法親王を身篭って退出し、その後に藤原師実の妻となっている。 

 白河天皇皇女尊称皇后・媞子内親王(郁芳門院)は中宮 藤原賢子の娘で同母弟に堀河天皇、同母妹に皇后宮令子がいる。 3才で斎宮に卜定されるが、母の死により退下後は母・賢子の面影が色濃かったため、最愛の中宮を亡くした白河天皇に鍾愛されました。 12才の時、5才年下の弟・堀河天皇の准母となり、入内。4年後、初の配偶者以外の中宮に冊立され、2年後、16才で女院号宣下されるが21才で早世し、父・白河上皇は悲しみのあまり直後に出家しました。

藤原顕季アキスエ1055-1123             
 ┗長実             
  ┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160              
     ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155             
     ┣女朱内親王(高松院)1141-1176             
    ┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘             
堀河天皇┃ ┃             
  ┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
藤原苡子┃      ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
     ┃      ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
   祇園女御    ┣顕仁親王75崇徳1119-1164         ┣              
    ┣清盛?   ┃    ┣重仁親王1140-1162   源渡            
    ┃      ┃    ┃     乳母:有子           
    ┗━━━┓  ┃    藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院               
藤原基子1049-  ┃  ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)         
 ┣実仁親王    ┃  ┣
禧子内親王1122-         
 ┃(白河皇太子) ┃  ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主         
 ┣輔仁親王    ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘         
後三条天皇   ┃  ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
 ┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝                    
藤原茂子┃┃           ┣覚行法親王
    ┃祇園女御・妹兵衛佐局  経子
    ┣善仁親王(堀河天皇)1079-1107           
    ┃   ┃         ┃ 
    ┃   ┃         篤子内親王 
    ┣媞子内親王1076-1096斎宮(郁芳門院)
    ┣令子内親王1078-1144斎院 
源顕房 ┣子内親王1081-1156土御門斎院 
 ┃┣藤原賢子1057-1084 
 ┃隆子 
 ┗師子1070-1148(後に藤原師実妻) 
  ┣覚法法親王1092-1153 
 白河上皇

醍醐寺から眺めた醍醐山(2007/4/4 撮影:クロウ)遥かかなたの上醍醐陵に思いを馳せて。

      

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後崇光太上天皇 伏見松林院陵

2008年02月02日 | 天皇・皇后陵

後崇光太上天皇 伏見松林院陵

 足利義満が頂点の地位に就き、天皇にとって代わろうとした時、あっけなく亡くなったが、この時朝廷側が義満に「上皇」を追贈しようとした。 異例の出来事に幕府側の4代将軍義持と斯波義将は断ったが、義満が尊号宣下をうける理由として考えられることは、その資格であるが、義満が後小松天皇の父であった、ということである。 後小松の妃・三条厳子と義満はかつて密通しており後小松がそのときの子であるということである。 後小松天皇の皇子・称光天皇には子がなく28歳の若さで亡くなった。そのとき遠縁の伏見宮彦仁親王を即位させて後花園天皇とした。 称光天皇には異母兄・宗純親王がいたにもかかわらずである。義満は宮中を我が物顔で歩き回っていたから、この宗純親王も義満の子であるとすれば、それを次期天皇に担ぎ上げるのに躊躇った朝廷は遠縁から選んだ可能性がある。 実はこの宗純親王こそ出家して一休と名乗ったあの一休さんである。 

 さて、この遠縁から選ばれた後花園天皇の父が伏見宮貞成親王といって、1447年に太上天皇の尊号を贈られ、後崇光院と呼ばれたのである。 幼少時から今出川家で養育され、左大臣公直・左大臣公行父子が養親となり音楽や和歌に親しみ、40歳でやっと伏見御所にて元服し貞成と名乗り、父・栄仁親王のもとに迎えられる。 1416年栄仁親王没、翌1417年に兄・治仁王も急死し、貞成が後継となったときに、兄を毒殺した嫌疑がかけられるが、後小松上皇や四代将軍足利義持から安堵を受けた。 伏見宮は北朝の正統であったために天皇家からは猜疑心をもって見られることが何かと多く、1418年に称光天皇の仕女である新内侍が懐妊した際にも密通の嫌疑がかけられたが、義持のとりなしにより虎口を免れている。

 称光天皇が一時期危篤状態へ陥ると次期天皇の候補にもなり、1425年に親王宣下を受けるが、回復した称光天皇がこの報を聞くと激怒したため、わずか3ヶ月後に出家に追い込まれた。 1428年に再び称光天皇が重態に陥ると、六代将軍の足利義教は貞成の実子である彦仁王を庇護し、後小松上皇に新帝の指名により後小松は彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させる。

伏見松林院陵

 

                    三条治子(西御方)       
            足利尊氏        ┣治仁王(伏見宮2代目)  
             ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王(伏見宮3代目)   ━┓
              赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416     ┃
               三条秀子┃   ┣興信法親王     藤原資子    ┃
藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 ) 三条厳子┣101称光天皇
 ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 )   ┣6後小松天皇 
 ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融)┣宗純王
 ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王     宮人   ┃
89後深草天皇胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王        ┃
 ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317      藤原仲子1339-1427崇賢門院    ┃
藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348                        ┃
        藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398             ┃
             藤原(正親町)実子                  ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗貞成親王(1372-1456後崇光院) 勧修寺(藤原)房子 花山院(藤原)兼子 
 ┣性恵女王           ┣応善女王   ┣大慈光院宮
 ┣102後花園天皇(彦仁)1419-1471 ┣仁尊法親王  ┣知円女王    
 ┣めここ皇女 ┣103後土御門天皇(成仁フサヒト)1442-1500
 ┣理延  ┣嘉楽門院藤原信子┣104後柏原天皇1464-1526 
 ┣貞常 大炊御門信宗    ┣尊敦親王 ┣覚鎮女王
 ┣王女            皇太后源朝子 ┣105後奈良天皇(知仁)1497-1557
 ┣王女                 ┣清彦親王 ┣106正親町天皇(方仁) ┓
 ┣雲岳聖朝            豊楽門院藤原藤子 
┣永寿女王       ┃
庭田(源)幸子                   万里小路(藤原)栄子
      ┃ 
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┣誠仁親王(陽光太上天皇)   
  ┃  ┣107後陽成天皇(和仁)        
  ┃藤原晴子      ┣108後水尾天皇(政仁)1596-1680
藤原(万里小路)房子  近衛前子(中和門院)

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関が原の合戦

2008年02月02日 | 戦国時代

関が原の合戦

 豊臣秀吉が1598年に亡くなると、その死後の政権を巡って徳川家康派と石田三成派が戦い、勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立します。 日本全国のほとんどの大名が徳川派(東軍)と石田派(西軍)に二分したことから 『天下分け目の戦い』 とも呼ばれています。 

 天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派の対立抗争が存在したが、秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。 1591年の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により深刻な状況となっていた。 一方、秀吉の姉・日秀の子・秀次を養子とし関白の職に就かせていたが、茶々との間に第二子・秀頼が誕生すると、次第に秀次を排除するようになっていった。 秀次は正親町上皇の崩御後の服喪期間に殺生禁断の比叡山で狩をしたということも拍車がかかったのか、秀吉から謀反の罪をかけられ高野山に追放となり切腹させられている。 尾張出身の秀次(おね派)一族が三条河原の処刑場にて惨殺されたときの立会人は石田三成、増田長盛といった近江派(茶々の出身)であった。 かくして尾張派と近江派の対立が表面的になってきたのである。

 秀吉は晩年には五大老(徳川家康 前田利家 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家)・五奉行(石田三成 前田玄以 浅野長政 増田長盛 長束正家)の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて1598年8月に伏見城で死去する。 ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、これに対して同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。 一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。

 徳川邸に参集した大名:福島正則(1561-1624)、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、蜂須賀家政、藤堂高虎、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次・京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼、大谷吉継など。

 前田邸に参集した大名:毛利輝元(1553-1625)、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、石田三成(1560-1600)、増田長盛、細川幽斎・細川忠興父子、加藤嘉明、浅野長政・浅野幸長父子、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長、長宗我部盛親など。

 1599年の閏3月に前田利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7名により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。 彼等は朝鮮出兵のときに最前線で活躍したが秀吉に評価されなかった。 治部少輔である石田三成の讒言によるものであると考えていたからである。  三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。 この時石田三成は家康の屋敷に逃げ込み保護を求め、家康は三成の隠居により七武将の矛を収めさせた。 

 豊臣政権の象徴である大阪城は秀頼に与えられたが、長束正家・前田玄以らが城番をしていた伏見城に徳川家康は入城して居座ったのである。 その後徳川家を強めるための婚姻、勝手な領地の加増等々を行い、ついには大阪城へ入った。 その頃大阪城西の丸にいた北の政所が京都へ去ってしまう。 家康はこの西の丸に入ると天守閣を造らせた。(本来本丸にしか許されない) 石田三成が徳川打倒を密かに狙うなか、家康は前田家の本拠地加賀征伐を策した。 前田家は利家亡き後、利長が継ぎ、姻戚関係にあった細川忠興、浅野長政らと結託して家康を狙っているという増田長盛からの情報がはいったからである。 前田家はすぐに家康に屈し、利家の妻・まつ(芳春院)は江戸に人質としていき、前田利常の娘が家康の三男・秀忠の妻となることとなる。 もともと徳川家と同格であった前田家を勢力内に取り込んだことは関ヶ原戦の勝利に大きく貢献している。 1600年上杉景勝は会津で反乱を画策しているという知らせに石田三成が呼応した。 三成とは盟友であった大谷吉継も三成の佐和山城で味方になる決意をしたが、五奉行の増田長盛により徳川側へ報告された。

 1600年7月19日、関ヶ原の前哨戦とも云える西軍による伏見城攻撃が始まった。 城攻めの大将は宇喜多秀家、副大将は小早川秀秋である。 宇喜多秀家は備前の大名・宇喜多直家の子で、豊臣秀吉から「秀」の字が与えられ元服する。 関ヶ原では最後まで勇敢に戦った武将として知られている。 また、小早川秀秋は北の政所の兄・木下家定の五男にあたり、一時秀吉の養子となったが後に毛利家に養子にだした。毛利元就の三男・小早川隆景の小早川家である。 小早川隆景が亡くなった後は秀秋が小早川家を掌握していた。 朝鮮出兵のときに総大将になったこともあったが失敗が続き領地も減らされていたのであるが、秀秋はこれを三成の讒言によるものであると考えていた。 ところが家康は減らされた領地を秀秋の下に返還したために、家康は秀秋にとっては恩人とも云える存在になった。 しかし秀秋は西軍に参加したのは、毛利輝元が西軍の総大将となったからである。 石田三成が小早川秀秋に伏見城の攻撃を依頼したのは、秀秋の態度を明確に確認するためのものであったとも云える。 ところが困ったことに、伏見城には秀秋の兄・木下勝俊が篭城しており北の政所に相談したという。

 7月25日、伏見城攻撃を受けた徳川勢は小山に集結して軍議を開いた。 徳川家康は福島正則の攻略も行った。 福島正則は賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な名将であり、その説得には黒田如水の子・長政があたった。おかげで長政は異例ともいえる52万石の大名となっている。 本来秀吉の手中にあり、秀頼を守る立場にあった福島正則、加藤清正が石田三成とは朝鮮出兵以来反りが合わなかったことを巧に利用して調略したと考えられる。 これまでの豊臣秀吉の調略を家康が取り入れた効果が関ヶ原の戦い以前から始まっていたのである。 こうして小山軍議では福島正則は東軍の名乗りを上げた。 そして福島正則とともに先鋒となった武将に池田輝政がいる。 池田輝政は小牧・長久手の戦(秀吉と家康が戦い家康が勝利する)で討死した池田恒興の子であるから、本来家康は輝政にとって父の仇である。 戦後、輝政は秀吉の計らいで家康とも和解したが、そのときに家康の次女・督姫を妻としていために家康側についたのである。 

 小山軍議が開かれた一週間後の8月1日に伏見城は落城し前哨戦は西軍の勝利となる。 いよいよこれから本戦に突入していくのであるが、その戦場として選ばれたのは関ヶ原であるから、美濃領主の岐阜城が重要となってくるが、このときの岐阜城主は織田信長の孫・三法師、つまり織田秀信である。 秀吉に操られ13万石の領地しか与えられなかった秀信は秀吉に恨みがあるはずで、家康側についてもよさそうであるが、西軍に味方したことで東軍家康の攻撃目標は岐阜城と定まったのである。かくして先鋒福島正則と池田輝政は岐阜城を攻略して織田秀信を出家させた。  秀信は出家すると高野山に登るとすぐに病死した。

 9月15日関ヶ原の本戦は始まろうとしていたが、家康本陣に加勢するはずの三男秀忠軍が到着しない。 実は信州城主真田昌幸が秀忠軍を信州で10日に渡って釘付けにしていたのである。 かつて北条氏と手を組んだ家康が真田家の上州沼田城を奪おうとしたとき真田昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したことがあった。 その後秀吉の仲介で徳川、真田は和解し、昌幸の長男・信幸は徳川重臣の本多忠勝の娘を娶っていたので長男は家康側、次男・信繁は石田側を推していたが結局三成を応援したのである。 約三万の軍勢を率いた秀忠軍を待たずして、先鋒・福島正則は宇喜多秀家・小西行長軍に襲い掛かった。 宇喜多秀家ゆうする三成側は終始優勢に戦をすすめており、充分な勝算はあった。 しかし小早川秀秋の裏切りにより1万6千の勢力が徳川に加わり、これが引き金になって裏切る部隊も現れ、西軍は総崩れのかたちとなった。 この戦いで毛利輝元は大阪城に篭り参戦しなかったのであるが、実は合戦の前日、毛利の吉川広家は家臣を東軍におくりこみ、密約を交わしていたのである。 参戦しないかわりに毛利の本領安堵を約束させるというものであり、書面はかわされ戦争不参加は守られた。 ところが合戦が終わり毛利輝元が大阪城を撤退し家康に明け渡すが、毛利輝元の領土は百二十万から三十六万石に減らされ、輝元は隠居させられた。 毛利家は完全に騙されたのである。 こうして徳川家康は政権確立の基礎を固めたのである。

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