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米沢-4 米沢藩主上杉家墓所

2018年07月20日 | 池波正太郎 江戸時代

  上杉家廟所、山形県・米沢藩歴代藩主の墓所である。1623年景勝が他界すると現在の廟所に埋葬され、以後十二代藩主までここに埋葬される。現在の廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟が並んでいる。二代景勝から九代重定までは、火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物である。十代治憲から十二代斉定までは土葬となり御堂も宝形造りとなっている。上杉謙信の遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。上杉景勝が越後から会津に移動の際も春日山城不識庵より謙信の霊柩を移動させ、その周囲にある一片の土も運ばせたと伝えられる。さらに越後より会津そして米沢に至る時も謙信の霊柩は運ばれた。明治になって米沢城本丸から謙信の霊柩は上杉家廟所に移築されている。

高梨政盛1455-1513  
  ┃┃┗娘   
  ┃┗娘┣長尾晴景1509-1553   
 ┃ ┣長尾為景1489-1543(守護代)
 ┃長尾能景1459-1506       ┃          
  ┃  ┗娘          ┃ 
  ┃  ┣高梨政頼1508-1576 ┃飯山城主
  ┃  ┃ ┣秀政-     ┃
  ┃  ┃ ┣黒姫     ┃
  ┃  ┃ ┗娘(真田信綱室)┃
  ┗高梨澄頼1492-1547    ┃          
 ┏━━━━━━━━━━━━┛    
  ┣仙桃院1524-1609     桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
  ┃ ┣義景(10歳で早世)   ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
  ┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
  ┃ ┃ ┣- 
  ┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)  
  ┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
  ┃ ┣娘(畠山義春室)   武田信玄1521-1573
  ┃長尾政景1526-1564溺死   ↑
  ┃房長┛          ↓
  ┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
  ┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
  ┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
  ┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派) 
  ┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政) 
  ┃ ┃  ┃┃
  ┃ ┃  ┃┃ 樋口兼豊-1602
  ┃ ┃  ┃┃   ┣直江兼続1560-1619
  ┃ ┃  ┃┃   ┣大国実頼  ┣直江景明1594-1615
  ┃ ┃  ┃┃   藤      ┣於松
  ┃ ┃  ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
  ┃ ┃  ┃娘
  ┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
  ┃ ┃ 甘糟景持 -1604(景勝派 川中島戦で殿軍)
  ┃ ┃ 甘糟景継 1550-1611(景勝派 越後上田衆)
  ┃ ┃ 村上義清1501-1573(葛尾城主)
  ┃ ┃          
  ┃ ┣景勝1556-1623(養子)②代米沢藩主   
  ┃ ┃┣定勝1604-1645(③代)  
  ┃ ┃四辻公遠娘┣綱勝1639-1664(④代)  
  ┃ ┃     ┃┣-
  ┃ ┃     ┃媛姫(保科正之娘)
  ┃ ┃     ┃吉良義央
  ┃ ┃     ┃┣綱憲(⑤代)養子 正妻:紀州光貞娘・栄姫
  ┃ ┃     ┗三姫 ┣吉憲1684-1722(⑥代)
  ┃ ┃ (富子)1643-1704  ┃ ┣宗憲1714-1734(⑦代)    
  ┃ ┃         ┃ ┣宗房1718-1746(⑧代) 
  ┃ ┃         ┃ ┣重定1720-1798(⑨代)正妻:尾張藩宗勝娘豊姫 
  ┃ ┃         ┃祥寿院(山中氏)    ┣治広1764-1822(⑪代)
  ┃
┃         ┃           ┣
幸姫 ┗斉定1788-1839(⑫代)   
  ┃ ┃         ┗豊姫       お登世┃   ┗斉憲1820-1889(⑬代) 
  ┃ ┃           ┣春姫        ┃    ┗茂憲1844-1919(⑭代) 
  ┃ ┃黒田長貞1695-1754秋月藩主┣上杉治憲1751-1822(鷹山)⑩代米沢藩主
  ┃ ┃清円院1556-1579    秋月種美1718-1787
  ┃ ┃ ┣道満丸1571-1579 
  ┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568

中央にある二代上杉景勝公霊廟

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米沢-3 直江兼続と上杉景勝

2018年07月20日 | 池波正太郎 江戸時代

 軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。上杉謙信が倒れ御館の乱というお家騒動が起こったとき、北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。従って北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。

 窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。1584年末から上杉家の二大巨頭のひとり秀治が病に倒れ、兼続は単独執政を行ない、兼続死去まで続くことになる。1588年には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として佐渡征伐に景勝と共に従軍すると平定後には佐渡の支配を命じられる。越後・佐渡の金山支配を任せられ、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられている。

 1598年1月、豊臣秀吉から上杉景勝の元に命令が下った。越後を離れて会津に移るべし。背景には実力者徳川家康に不穏な動きがあったからである。家康は関東七か国を統治し、伊達政宗や最上義光など東北の大名と関係を深めようとしていた。秀吉が上杉家を会津に移したのは、この動きに睨みを利かせるためであった。さらにこの年景勝は、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、徳川家康錚々たるメンバとともに徳川五大老の一人に選ばれている。景勝は家康の独走を抑えるキーマンに抜擢されたのである。ところが、1598年9月18日に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭する。石田三成と懇意であった兼続は、家康と対立する。

 1599年家康は伊達政宗と縁組を結び、東国での勢力拡大に動いた。奉行の一人石田三成はこれに反発、前田利家の力をかりてこれを阻もうと試みたが、前田利家は死去し石田三成は佐和山に蟄居させられた。そして家康が次なるターゲットに定めたのが上杉家であった。1600年4月、兼続の元に家康の外交僧・西笑承兌から書状が届いた。西日本最大の城郭である神指城築城という、上杉家に謀反の疑いがあるというものである。一刻も早く上洛して家康に弁明すべきという。直江兼続は返書をしたためたが、これを直江状という。15項目にわたって家康に反論したのである。これに対しての家康の回答は、即刻上洛しなければ会津へ出兵であった。かくして1600年6月家康による会津征伐が始まった。家康軍総勢10万に対して上杉勢は総勢5万で若松城を出陣したそのとき、石田三成が挙兵、大阪城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の大名に打倒家康の檄を飛ばしたのである。これを知った家康は全軍に会津征伐中止を通達し、江戸への撤退を開始した。これらは会津の景勝と三成の間に交わされた密約によるものである。このとき上杉は東北の最上義光、伊達政宗の問題を解決した後で関東に出兵するとした。上杉は最上の10倍の兵にて侵攻し長谷堂城へ攻撃、ここに北の関ケ原といわれる合戦が始まった。ところが上杉は最上以上の死者を出して総崩れとなってしまった。かくして最上攻略は深入りせずに断念した。ちょうどこの頃、家康率いる東軍と三成率いる西軍が関ケ原で戦い、決着はわずか一日でついた。美濃での関ヶ原本戦で西軍が敗れた事を奥州で知った上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。この撤退戦の見事さは語り草となり、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。1601年7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど新田開発に努め、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。1614年からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

 ところで、直江兼続の豊臣秀吉からのかわいがられようは尋常ではなかった。あの石田三成は近江佐和山で18万石の大名であったが、直江兼続は米沢に30万石を与えられたくらいである。秀吉が死んで政権が分裂すると、徳川家康と石田三成が関が原で戦うこととなったが、このとき直江兼続は主君・上杉景勝に石田三成方に就くように進言し、景勝は承知した。いまの景勝があるのは直江兼続のおかげであると認識していたから異論はなかったのである。しかし関が原で石田三成が大敗し、上杉景勝は会津120万石を没収されたとき、直江兼続は家康にこういった。故太閤殿下からいただいた米沢30万石を返上するかわりに、返上分はそのまま主人・上杉景勝にお与えいただきたい。家康はこの申し出を承認したのである。このとき直江兼続は自分の贖罪のつもりもあってか会津から連れてきた上杉家の家臣をひとりもくびにしなかった。このことが後々までも上杉家の財政難の原因となるのであるが、直江兼続はこれを覚悟で荒地の開墾指示を行った。このときの農業指導は、こうである。田植えの時期には農家の女性は化粧をし赤い腰巻を推奨した。苗を植える男性農民のやる気向上が目的である。米の生産を向上させて主税をあげる目的であることはいうまでもないが、代を重ねるごとに赤字額は増えていき、江戸中期にはどうにもならなくなっていた。藩籍を幕府に返上との案もあったが、養子を向かいいれての財政再建をねらい、日向高鍋藩主秋月家の次男を向かいいれたのである。これが後の上杉鷹山で、再建の基本は直江兼続が行った農業立国であったという。

高梨政盛1455-1513  
  ┃┃┗娘   
  ┃┗娘┣長尾晴景1509-1553   
 ┃ ┣長尾為景1489-1543(守護代)
 ┃長尾能景1459-1506       ┃          
  ┃  ┗娘          ┃ 
  ┃  ┣高梨政頼1508-1576 ┃飯山城主
  ┃  ┃ ┣秀政-     ┃
  ┃  ┃ ┣黒姫     ┃
  ┃  ┃ ┗娘(真田信綱室)┃
  ┗高梨澄頼1492-1547    ┃          
 ┏━━━━━━━━━━━━┛    
  ┣仙桃院1524-1609     桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
  ┃ ┣義景(10歳で早世)   ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
  ┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
  ┃ ┃ ┣- 
  ┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)  
  ┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
  ┃ ┣娘(畠山義春室)   武田信玄1521-1573
  ┃長尾政景1526-1564溺死   ↑
  ┃房長┛          ↓
  ┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
  ┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
  ┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
  ┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派) 
  ┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政) 
  ┃ ┃  ┃┃
  ┃ ┃  ┃┃ 樋口兼豊-1602
  ┃ ┃  ┃┃   ┣直江兼続1560-1619
  ┃ ┃  ┃┃   ┣大国実頼  ┣直江景明1594-1615
  ┃ ┃  ┃┃   藤      ┣於松
  ┃ ┃  ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
  ┃ ┃  ┃娘
  ┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
  ┃ ┃ 甘糟景持 -1604(景勝派 川中島戦で殿軍)
  ┃ ┃ 甘糟景継 1550-1611(景勝派 越後上田衆)
  ┃ ┃ 村上義清1501-1573(葛尾城主)
  ┃ ┃          
  ┃ ┣景勝1556-1623(養子) 初代米沢藩主 120万石  
  ┃ ┃┣定勝1604-1645(2代)  
  ┃ ┃四辻公遠娘┣綱勝1639-1664(3代)  
  ┃ ┃     ┃┣-
  ┃ ┃     ┃媛姫(保科正之娘)
  ┃ ┃     ┃吉良義央 1641-1703 吉良上野介→米沢4代に多額の援助
  ┃ ┃     ┃┣上杉綱憲(4代)養子 正妻: 紀州光貞娘・栄姫 15万石は初代の1/8だが、派手で豪華な生活ぶり(毎年25000両生活)
  ┃ ┃     ┗三姫 ┣上杉吉憲1684-1722(5代)   今の150億財産は使い切ってしまう    (参勤交代)
  ┃ ┃ (富子)1643-1704  ┃ ┣宗憲1714-1734(6代)   また、上杉家の家宝を抵当に商人から借金(江戸藩邸出費) 
  ┃ ┃         ┃ ┣宗房1718-1746(7代)   判治借上を行うまでに追い込まれる   (お手伝い普請)
  ┃ ┃         ┃ ┣重定1720-1798(8代)正妻:尾張藩宗勝娘豊姫 寛永寺修復で6万両出費@1753年
  ┃ ┃         ┃祥寿院(山中氏)    ┣幸姫(?-?)   1763年には藩の借金は16万両となる →借金返済の為領地返上を進言→踏みとどまる 
  ┃ ┃         ┗豊姫         豊姫┃         構造改革ができなかった時代の典型 
  ┃ ┃           ┣春姫        ┃
  ┃ ┃黒田長貞1695-1754秋月藩主┣上杉治憲1751-1822(鷹山)9代米沢藩主  9歳で上杉重定の養子→江戸桜田邸へ@1761年 家老・竹俣当綱から藩の苦境を訴えられる
  ┃ ┃清円院1556-1579    秋月種美1718-1787(日向高鍋藩主3万石) 鷹山は1767年藩主となる ①倹約 ②農業政策 ③籍田の礼 ④会計一円帳 ⑤土木事業(開墾、堤防)
  ┃ ┃ ┣道満丸1571-1579                      会津・蘆名氏の家臣、武田勝信(侍組)が反発 →クーデター 
  ┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568
 

米沢城跡にある景勝と兼続の像

直江兼続の菩提寺である林泉寺を訪れ忘れたのは悔いる

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米沢-2 上杉家中興の祖・上杉鷹山

2018年07月20日 | 戦国時代

 上杉鷹山というと米沢藩の第9代藩主で上杉氏再興の名君として知られている。上杉の祖はもちろん上杉謙信であるが、関ヶ原の戦いで敗者となった上杉氏は130万石の大大名から30万石に減封となり、初代米沢藩主となったのが上杉景勝である。後に領地返上寸前の米沢藩を建て直し、江戸幕府第10代将軍・徳川家治の一字を賜り治憲を名乗ったが、藩主引退後の1802年、52歳の時に剃髪し鷹山と名乗った。

 名門上杉家の藩祖・上杉景勝から3代後の第四代米沢藩主・綱勝は媛姫との間に男子を設けたが早くに無くし、徳川の武家諸法度を適用しえ藩取り潰しになるところであった。ところが幸運なことに綱勝の正妻・媛媛は当時の大老格・保科正之の娘であった。また大名取り潰し政策による社会不安が目立つ状況にあった。そこで保科正之は「末期養子」を認めることを決断したことから、上杉家は救われることとなる。候補に挙がったのは上杉定勝(綱勝の父)の娘・三姫の子・綱憲であった。実はこの綱憲の父は忠臣蔵で有名な吉良上野介義央である。上杉の血を引く綱憲が米沢第四代藩主となり上杉家はかろうじて存続することとなった。しかしこの時30万石から15万石に減知されている。そしてそれから4代後の重定のときに再び存続の危機にさらされた。重定には娘しかできず、長女・三女は早世し、障害を持つ次女のみという状況の中で、次女に婿養子を迎えることとなったが、その婿養子が後の上杉鷹山である。当時の名である秋月直松は宮崎・日向の高鍋藩の大名・秋月種美の次男で、直松の祖母・豊姫というのが、上杉綱憲の娘であった。つまり上杉鷹山は吉良上野介義央の玄孫にもあたる。

 上杉鷹山は保科正之の末期養子政策によりこの世に生を受けたともいえるのであるが、末期養子政策を敷くまでは、大名改易により職を失った武士が溢れ、一部の浪人は三代将軍・家光の死をきっかけに幼い新将軍・家綱を人質にしようと由井正雪の下で反乱を起こすまでになった。家綱の後を家光から頼まれた保科正之は、この不安定な状況を改善するために末期養子の禁を解いた。そして大大名である上杉家の再興にも助力したのである。この時、正之は上杉家に家臣から浪人を出させないようにと厳命したという。かくして、120万石で養っていた家臣6000人をわずか15万石で養っていかなくてはならなくなり、経済的にはほとんど破綻の状態に陥ったのである。そこでこの窮地を打開するために重定は徳川家に領土返上も考えたが、正妻の実家である徳川尾張家からの助言もあり、上杉の血をひく秋月家に白羽の矢がたてられた。重定は隠居し、上杉の血を引く春姫と秋月種美の子・上杉治憲が米沢藩主・重定の次女・幸姫と結婚して養子となり、治憲は9代藩主となったのである。

 上杉鷹山が石高15万で家臣の首切りをせずに大倹約令を発して上杉再興を考える途上には、改革反対派の中心人物による七家騒動などの困難が待ち構えており、これらの上杉中興の前期改革は頓挫して隠居する。米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。

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米沢-1 米沢城址にある上杉神社

2018年07月20日 | 戦国時代

 米沢城は、戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩・上杉氏の藩庁および、米沢新田藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。上杉謙信が1578年、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に祭られたが、上杉景勝が会津を経て1601年に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。明治に入ると神仏分離令、廃城令により、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。

伊達政宗生誕の碑

上杉謙信公の像

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秀吉から疎まれた蒲生氏郷

2018年07月20日 | 戦国時代

 1590年の小田原征伐などの功により、伊勢より会津に移封され42万石の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗を抑えるための配置であるが左遷とも言える。黒川(今の会津若松)において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置し、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を若松へと改めたことで知られている。

 実は蒲生氏郷、秀吉に嫌われた。ある意味その実力を恐れられたとも言える。人と違うことに価値を置くのではなく、私であることに価値を置いた武将である。蒲生氏は藤原北家の一族で、近江日野を本拠地とする。室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に客将として仕えたが、氏郷(幼名は鶴千代)が13歳の時に六角家が滅亡、人質として信長の元に小姓として仕えた。やがて信長に認められ、一流の武将に育てられていく。氏郷も期待に応えようと初陣では才覚を発揮する。結婚相手は冬姫、織田信長の二女を娶り人質をとかれ、近江日野に暮らすこととなる。

 1582年本能寺の変以降秀吉の時代になると、近江日野から伊勢に領地替えとなり1584年には6万石から12万石に加増された。伊勢の町づくり、海運の整備を行い、海岸沿いに松坂つくるなど ここでも町作りという地盤固めに力を入れている。1590年にまた領地替えとなり、小田原攻めの恩賞として会津の黒川、今の若松に移ることとなる。42万石への加増である。ここ会津は徳川家康、伊達政宗に挟まれた領地であり、しかも未整備で海路も使えない不便な場所である。秀吉にとっては氏郷が危険な存在に映ったからこその領地変えであったが、伊勢の経験を生かして町を一新する。武士、商人のすみわけを行い、独自の商品を生み出し、楽市楽座取り入れた自由商売を行うとともに、豪傑を召し抱えて軍備も増やすのである。一方伊達氏の状況を報告するなど秀吉に対するアピールは欠かさず、やがて73万石に加増された。与えられたものをどう使うかを人一倍考え、諦めたら何も起こらないという新しいものさしの持ち主であった。

 これらの後ろ盾となったのは氏郷の支えとなる存在、つまり家臣の存在である。家臣の求心力を高めることにより、報酬に納得し不満を抱かせない方法、心をつかむ接し方には後日談が数多くあるという。家臣に蒸し風呂をふるまう蒲生風呂など、労をねぎらうことが重要と考えていたようだ。 

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