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会津 若松-12 山本家の墓

2018年07月06日 | 幕末

 1643年に保科正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山したお寺である。本堂の表には、戊辰戦争殉難殉節供養の碑があり、山本家は八重の高祖父の時代から、このお寺を菩提寺としていて、八重は1931年に、バラバラになっていた家族のお墓をここにまとめた。この大龍寺の一角にある山本家の墓には「山本家之墓」と建てられた墓標があり、これは八重が書いたものと言われています。この墓標の裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と書かれており、これを建立した翌年に、八重は88年の生涯を閉じます。

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会津 若松-11 白虎隊の生き残り飯沼貞雄の墓

2018年07月06日 | 幕末

 飯盛山で自刃し、亡くなった隊士の数は19名。しかしながら、自刃したもののその命を生きながらえた唯一の人物が白虎隊隊士・飯沼貞吉。通りすがった会津藩士の妻により助けられ、白虎隊は後世に広く知られることになる。生き残った飯沼貞吉を保護したのは長州藩士・楢崎頼三、ひとり生き残ったことを恥じ、悶々とする彼を哀れんだ楢崎頼三は長州へと連れ帰り生活の面倒をみたという。そして楢崎頼三は「今からは日本人が心を一つにして、この国を強くて豊かな国にしなければいけない」と諭したという逸話が残されている。彼が亡くなってから26年後、戊辰戦争90年祭を機に彼の遺髪と義歯は白虎隊墳墓に合祀され、碑には「君と十九人の同志は泉下に手をとりあい満足の笑みを交わしていることであろう」と刻まれている。

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会津 若松-10 白虎隊十九士の墓

2018年07月06日 | 幕末

 ここ飯盛山には 白虎隊十九士の墓がある。16~17才の少年たちによって編成された白虎隊は、戸ノ口原合戦から退却し辿り着いた飯盛山で、鶴ヶ城の天守を覆い隠す、激しい炎と濛々たる黒煙を目にする。その時、隊士の間では城に戻り戦うか、敵陣に斬り込み一人でも多く道連れにするか、激論が交わされた。結果、彼らが選んだのは自刃。捕らえられて生き恥をさらすより潔く死を選ぶ、という結論だった。ある者は腹を割き、ある者は喉に刃を突き立てる、凄惨たる光景。新政府は彼らの遺骸に手をつける事を許さなかったが、3ヶ月後、近くの村人・吉田伊惣治らによって付近の妙国寺に密かに仮埋葬された。改葬が許されたのは明治2年。その時作られた墓は拡張され、大正15年に今の形となった。

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会津 若松-9 山本覚馬・八重の生誕地

2018年07月06日 | 幕末

 山本覚馬1828-1892は、幕末の会津藩士、同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。新島襄と再婚した八重は妹である。

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ゆん@尾道-4-1

2018年07月06日 | 優木絢 Yuri 結真 ゆん ゆな ゆきな

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