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米沢-2 上杉家中興の祖・上杉鷹山

2018年07月20日 | 戦国時代

 上杉鷹山というと米沢藩の第9代藩主で上杉氏再興の名君として知られている。上杉の祖はもちろん上杉謙信であるが、関ヶ原の戦いで敗者となった上杉氏は130万石の大大名から30万石に減封となり、初代米沢藩主となったのが上杉景勝である。後に領地返上寸前の米沢藩を建て直し、江戸幕府第10代将軍・徳川家治の一字を賜り治憲を名乗ったが、藩主引退後の1802年、52歳の時に剃髪し鷹山と名乗った。

 名門上杉家の藩祖・上杉景勝から3代後の第四代米沢藩主・綱勝は媛姫との間に男子を設けたが早くに無くし、徳川の武家諸法度を適用しえ藩取り潰しになるところであった。ところが幸運なことに綱勝の正妻・媛媛は当時の大老格・保科正之の娘であった。また大名取り潰し政策による社会不安が目立つ状況にあった。そこで保科正之は「末期養子」を認めることを決断したことから、上杉家は救われることとなる。候補に挙がったのは上杉定勝(綱勝の父)の娘・三姫の子・綱憲であった。実はこの綱憲の父は忠臣蔵で有名な吉良上野介義央である。上杉の血を引く綱憲が米沢第四代藩主となり上杉家はかろうじて存続することとなった。しかしこの時30万石から15万石に減知されている。そしてそれから4代後の重定のときに再び存続の危機にさらされた。重定には娘しかできず、長女・三女は早世し、障害を持つ次女のみという状況の中で、次女に婿養子を迎えることとなったが、その婿養子が後の上杉鷹山である。当時の名である秋月直松は宮崎・日向の高鍋藩の大名・秋月種美の次男で、直松の祖母・豊姫というのが、上杉綱憲の娘であった。つまり上杉鷹山は吉良上野介義央の玄孫にもあたる。

 上杉鷹山は保科正之の末期養子政策によりこの世に生を受けたともいえるのであるが、末期養子政策を敷くまでは、大名改易により職を失った武士が溢れ、一部の浪人は三代将軍・家光の死をきっかけに幼い新将軍・家綱を人質にしようと由井正雪の下で反乱を起こすまでになった。家綱の後を家光から頼まれた保科正之は、この不安定な状況を改善するために末期養子の禁を解いた。そして大大名である上杉家の再興にも助力したのである。この時、正之は上杉家に家臣から浪人を出させないようにと厳命したという。かくして、120万石で養っていた家臣6000人をわずか15万石で養っていかなくてはならなくなり、経済的にはほとんど破綻の状態に陥ったのである。そこでこの窮地を打開するために重定は徳川家に領土返上も考えたが、正妻の実家である徳川尾張家からの助言もあり、上杉の血をひく秋月家に白羽の矢がたてられた。重定は隠居し、上杉の血を引く春姫と秋月種美の子・上杉治憲が米沢藩主・重定の次女・幸姫と結婚して養子となり、治憲は9代藩主となったのである。

 上杉鷹山が石高15万で家臣の首切りをせずに大倹約令を発して上杉再興を考える途上には、改革反対派の中心人物による七家騒動などの困難が待ち構えており、これらの上杉中興の前期改革は頓挫して隠居する。米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。

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