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会津 若松-14 西郷頼母、妻の墓

2018年07月27日 | 幕末

 善龍寺には西郷頼母の妻・千重子をはじめとする一族21名が眠っている。1868年8月23日、新政府軍は戸ノ口原で白虎隊らを破り、土佐藩の板垣退助らを先頭に若松城下に進攻した。西郷頼母邸では、千重子の長女ら5人をはじめ、一族21人が城に入らず屋敷で自刃した。千重子の義母の律子(58歳)、妹の眉壽子(26歳)、妹の由布子(23歳)、長女の細布子(16歳)、二女の瀑布子(13歳)は、辞世の歌を残し自刃。千重子は、三女の田鶴子(9歳)、四女の常盤子(4歳)、五女の李子(2歳)を刀で刺し、母と妹らは互いに刀を刺して亡くなる。その他、支族の西郷鉄之助夫婦、母の実家・小森家の祖母や婦女子、親戚で江戸藩邸から避難し、西郷家にいた親戚ら21人が亡くなった。『西郷隆盛一代記』によると、薩摩藩士の川島信行が、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が丸く座って自殺していたという。細布子はわずかに息があり、「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば、戦おうとするしぐさをしたが、川島が「味方だ、味方だ」と叫んだ。細布子は、その場に倒れ、懐剣を出し、咽喉を刺そうとするが出来ず、川島が不びんに思い介錯したという。

 西郷頼母は、家督を継いで藩主・松平容保に仕えた。1862年、容保が京都守護職就任を要請されたとき、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さなかったことで家老職を解任され蟄居させられる。1868年、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は会津へ帰還する。このとき頼母ら家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの容保親子の斬首要求に態度を一変、新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失う。若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めたが、会津藩士の多くは新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、長子・吉十郎を伴い城から脱出。家老・梶原平馬の命令で刺客が差し向けられたが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったという。会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。西郷家は藩主である保科家の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し保科頼母となる。

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夏子@淡路・阿万浜-3

2018年07月27日 | Sena 希実 松島夏子

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