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ゆん@尾道-4-2

2018年07月12日 | 優木絢 Yuri 結真 ゆん ゆな ゆきな

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長篠-8 織田信長本陣跡

2018年07月12日 | 戦国時代

 「天正3年(1575年)旧暦5月長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し武田軍1万五千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄依頼の武将の相次ぐ討ち死に等損害を積み重ね遂には撤退を余儀なくされました。武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました」 説明案内より抜粋

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長篠-7 信玄塚

2018年07月12日 | 戦国時代

 信玄塚の説明板「信玄塚と火おんどり」に記載のように、信長・家康軍と勝頼両軍あわせて16000もの戦死者が出た。信長公記には餓死した者、溺れ死んだ者も含めてその数知れない、多聞院日記には「千余人討死」とある。従って設楽原の住民は、戦場のかたづけに従事し、この地に2つの塚を築いて弔ったという。それがこの「信玄塚」である。勝頼と信長家康の戦いなのに信玄塚なのは、当時いかに信玄の偉名が大きかったか、と推察できる。

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長篠-6 馬防柵と鉄砲構え

2018年07月12日 | 戦国時代

 「長篠の戦い」1575年5月21日は、長篠城攻め、鳶ヶ巣山砦の戦い、設楽原の戦いの総称で、三河国長篠城をめぐって、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。なかでも設楽原の戦いと言えば、馬防柵と、3000丁の鉄砲の三段撃ち。馬防柵は、武田軍の騎馬隊を防ぐ策であり、横木に銃をしっかりと固定できて命中する確率が上がるという意味でも重要な柵となる。

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長篠-5 甘利郷左衛門信康の碑

2018年07月12日 | 戦国時代

 甘利信康は、甲斐武田氏の家臣で信玄・勝頼2代に仕え、武田信玄陣立書では信玄本陣を守る鉄砲衆として記載されている。『甲斐国志』では信康を信忠の子弟とし、1575年5月21日の長篠の戦いで戦死したとしている。『甲陽軍鑑』では長篠合戦における左翼の山県昌景隊に属していたと記されている。地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、立ったまま切腹したという。

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