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一条堀川に住んだ陰陽師・鬼一法眼之古跡@京都貴船

2018年07月17日 | 平安時代

 鬼一法眼は、『義経記』に登場する伝説上の人物である。一条堀川に住んだ陰陽師で、『六韜』という兵法の大家、文武の達人とされる。源義経がその娘・皆鶴姫と通じて兵書『六韜』を盗み学んだという伝説で有名である。ここ「鬼一法眼之古跡」は貴船口駅の近くあり、墓所があったとも伝えられている。鬼一法眼は武術家であり、僧侶であり、医者だったとも見受けられる。「法眼和尚位」という僧の位があるし、法眼という医者の称号まである。義経記によると、奥州に下った義経は、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」を学ぼうとやってくる。この書は、坂上田村麻呂が愛読し、奥州の悪路王と呼ばれた人物を倒し、平将門もこの書によって、分身の術を体得したと言われる珍本ですある。また鬼一のことを義経記は以下のように描写している。「京の住まいはガッチリと固め、四方に堀を廻らし水を張って、八の櫓を築いていた。夕方には渡していた橋を外し、朝には門を開かず、人の言ふ事など、まったく意に返さない贅沢で華美な人物だった」 義経は、この人物に六韜三略を写させて欲しいと頼み込むが、断られてしまう。そこで義経は、幸寿前というこの家に仕えている若い女性と仲よくなると、鬼一に姫がいることを聞き出し、この姫に近づき、この本十六巻を三ヶ月ばかりかけて写し把握したという。この書「六韜三略」、あの「玉葉」を書いたことで知られる九条兼実が1181年に正装姿で閲覧したと記されている。所有者は中原師景という人物。

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西園寺姞子・粟田山陵

2018年07月17日 | 天皇・皇后陵

 西園寺姞子1225-1292の父は太政大臣・西園寺実氏、母は四条貞子で四条天皇の乳母である。18才の時に後嵯峨天皇(23才)の即位を受けて女御となると、二か月後には中宮となる。19才で久仁親王(後深草天皇)を生み生後2ヵ月で立太子させる。ほかには、 綜子内親王(1247-1269)、 恒仁親王(1249-1305亀山天皇)、雅尊親王(1254-1256)、恒尊親王、貞良親王、理子内親王(亀山天皇皇女)、西園寺嬉子(亀山中宮・今出川院)等がいる。後嵯峨天皇が4歳の後深草天皇に譲位して上皇となると、「大宮院」の称号を与えられた。

 後嵯峨法皇が1272年に崩御すると西園寺姞子は出家。法皇の遺産は彼女と円助法親王が受け継ぐこととなる。具体的な選任は鎌倉幕府に一任されたが、困惑した幕府は姞子に一任・・。これに対して姞子は亀山上皇を推挙したため幕府はそれに従った。これに対して亀山上皇の兄である後深草上皇が反発して円助法親王と亀山上皇の策動を疑い、鎌倉幕府に対して自分の子への皇位継承を要望した。こういった経緯から、これが後深草天皇の持明院統北朝と亀山天皇の大覚寺統南朝の両統迭立の発端となる。 

                    三条治子(西御方)            
              足利尊氏1305-1358    ┣伏見宮治仁王 ②1370-1417
               ┣足利頼子 源資子 ┣伏見宮貞成親王③1372-1456
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮①)1351-1416    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇1377-1433
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王
 ┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃    藤原仲子1339-1427
 ┃  ┃  ┃┣尊園親王1298-1356   ┣尊道親王1332-1403
 ┃  ┃  ┃三善衡子     正親町実明女
 ┃  ┃  ┗━━━━┓
 ┃藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃        藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                                          ┃
                  伊岐致遠女                               ┃
    源懿子1116-1143   ┣79六条天皇1164-1176                       ┃
       ┣78二条天皇1143-1165                               ┃
 ┏77後白河1127-1192      更衣尾張局                            ┃
74鳥羽    ┃                    ┣道覚親王1204-1250 藤原立子(東一条院)  ┃
 ┣覚快法┃親王1134-1181        ┃   修明門院藤原重子┣85仲恭天皇1218-1234┃(廃位)
  紀家子 ┣80代高倉天皇1161-1181┃     ┣84順徳天皇1197-1242     ┃(流罪)
   平滋子┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239(流罪)         ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇1196-1231    ┃(流罪) 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃┣87四条天皇1231-1242 ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇┛
       ┃ ┃  ┃藤原竴子1209-1233   ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
      ┃ ┃ ┃持明院基家┛                       ┣宗尊親王    ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┃1242-1274   ┃
          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)   平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃
 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃平時仲女 
 ┃┣慈道親王1282-1341 
 ┃┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                  不明 
 ┃┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)        ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-         阿野廉子1301-1359  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇1343-1394
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇1347-1424       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王1300-1326┃
            ┃      ┣邦省親王1302-1375┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
            ┃ ┃             ┃┃┣恒性皇子
     藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362   ┃┃┣護良親王1308-1335         
               ┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
 ┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
 ┣左大臣公衡1264-1315            ┃┣宗良親王1311-1385  
 ┣太政大臣兼季1281-1339            ┃二条為子
 ┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
 ┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮)     ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322              ┗遊義院一条局

粟田山陵は南禅寺の境内にあり、水路閣も人気のスポット

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草薙神剣とゆかり深い熱田神宮

2018年07月17日 | 記紀創世紀

 熱田神宮は、三種の神器・草薙神剣の御鎮座に始まる。景行天皇の御代に、息子の日本武尊は神剣を火上山に留め置かれたまま能褒野でなくなられた。尊の妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田にお祀りになられた。それ以来、伊勢神宮につぐ格別に尊い宮として篤い崇敬をあつめ、親しまれてきた。ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代としてよらせられる天照大神のことである。

 熱田神宮といえば、源頼朝の正妻・由良姫が熱田神宮の宮司・藤原季範の娘であったことでも知られる。藤原季範の子・範忠や祐範は熱田神宮の神官となっており、熱田神宮の大宮司家であった。当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあった。1156年に起きた保元の乱においては、由良御前の実家・熱田大宮司家は義朝の軍勢に兵を送って援護したという。また、由良御前の子である源頼朝は1158年、熱田大宮司家と縁の深い統子内親王の立后にあたり皇后に仕える「皇后宮少進」に任命され、1159年2月に統子内親王が女院号宣下されると頼朝はその蔵人に任命されている。そして間もなく由良御前は死去する。

 ちょうどこの頃前後して、源義朝は 常盤御前という雑仕女と出会う。いわずと知れた源義経の母である。近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女、つまり呈子の身の回りの雑用係り。都の美女千人の中から選ばれた美女ではあったが素性は不明で、身分は極めて低い。源義朝の妾となり、今若、乙若、そして牛若(後の源義経)を産んでいる。1160年に始まった平治の乱では、源義朝が平清盛と戦って敗北し、子供たちをつれて清盛の元に出頭して、母と子供たちの助命を乞うことで有名である。常盤の美しさに心を動かされた清盛は今若、乙若、牛若を助命するということになっているが、これは疑わしい。平治の乱に参加した頼朝でさえ助命されている。比較にならないほどの、なんの血統もない常盤御前の子なら、ましてである。殺されるはずはない。 常盤御前は、清盛に請われて妾となり一女(廊御方)を産んだ後、一条長成という中流貴族に嫁し、一条能成の他何人かの子を産んでいる。その一人は牛若丸とともに、鞍馬寺で一緒に過ごしており、後に義経とともに都落ちをしている。このとき常盤御前は、鎌倉方によって逮捕され、保身のため追討使に義経の情報を漏らしている。 その後、義経の弟と一緒に平穏な晩年を過ごしたようであるが、はっきりした事は不明。

為義1096-1156    伊藤祐親・娘                    
 ┣義朝1123-1160  ┣息子  ┗行宗
 ┃   ┃          ┃     ┗養女(姉の娘) 
 ┃   ┃        ┃      ┣
 ┃   ┣源義平     ┃     左金吾(刀禰弾正介の嫡子)
 ┃   ┣源頼朝1147-1199(乳母比企の局)   
 ┃   ┣義賢      ┃      ┣比企能員 畠山重忠・娘
 ┃   ┣範頼      ┃      ┣丹後局   ┣
 ┃季範┣範頼      ┃      ┗長女┗島津忠久 1180-1227
 ┃┣由良御前      ┃       ┣
 ┃┗祐範        ┃      藤九郎盛長
 ┃           ┣大姫1178-1197       
 ┣頼賢         ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条氏により暗殺)       
 ┣頼仲        ┃  ┣一幡(藤原氏に敗れる)    
 ┣為宗         ┃  ┣公暁(乳母は三浦一族)     
 ┣為成         ┃  ┃   (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画)   
 ┣為朝1139-1170   ┃比企能員(よしかず)娘・若狭局     
 ┗為仲         ┃      
             ┣実朝1192-1219(乳母は北条・阿波局 三浦氏に暗殺される)      
             ┣三幡      
             ┃        
      ┏北条政子1157-1225尼御台     
      ┣北条宗時          足利家時(報国寺開基)    
    北条時政          ┣
      ┣阿波局      ┏娘      
      ┣鏡子     ┏常葉時茂      
      ┣百合子 ┏重時1198-1261
      ┣江馬四郎義時1163-1224     
    牧の方    

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司@夕日が浦-2

2018年07月17日 | 素人 凌 さとみ 葵 ひな Haru 司 Saya38 Mizuki

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