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長篠-4 大宮前激戦地と土屋昌次

2018年07月02日 | 戦国時代

 ここは武田軍の右翼隊に属していた馬場信春・穴山信君・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・一条信竜らが激戦を繰り広げた場所である。土屋昌次は馬防柵に攻め寄せて第二の柵まで破ったが、鉄砲に当たって戦死した。土屋昌続は、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐守護武田信重の子・金丸光重を祖とし、武田晴信の守役であったという。『甲陽軍鑑』に拠れば、1561年の川中島の戦いにおける戦功で桓武平氏三浦氏流土屋家の名跡を継いだとされる。第4次川中島の戦いでは、上杉勢の攻勢により信玄本陣まで危機に晒されたが、信玄の傍を離れずに上杉勢に応戦し、この戦功により侍大将になったという。1568年の今川領国への侵攻に際しては、信玄側近として戦時禁制や朱印状奏者を独占的に務めており、岡部氏など駿河国衆との取次を務めている。1569年の三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると、甲斐名門の土屋家を継ぎ、1573年の三方ヶ原の戦いでは徳川方の鳥居忠広と一騎討ちで首級をあげた。

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長篠-3 烈士 鳥居強右衛門

2018年07月02日 | 戦国時代

 鳥居強右衛門が登場するのは、1575年の長篠の戦いの時だけで、他はほとんど知られていない。彼は三河国宝飯郡内の生まれで、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳。奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆であったが、武田家の当主であった武田信玄が1573年4月に死亡した情報が伝わると、奥平氏は再び徳川家に寝返り信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。長篠の戦いでは奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌は長期籠城の構えから一転、家康のいる岡崎城へ使者を送り援軍を要請しようと決断した。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われたが、この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。

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長篠-2 柳田前激戦地

2018年07月02日 | 戦国時代

 柳田橋の付近は正面の家康本陣の前にあたり、馬防柵が一面に設けられ武田騎馬隊と織田徳川鉄砲隊との激戦があった場所である。設楽原古戦場いろはかるたは「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」。

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長篠-1 長篠城跡

2018年07月02日 | 戦国時代

 長篠城は三河設楽郡長篠にあり、1575年の長篠の戦いに先立つ攻防戦で知られる。1508年、菅沼元成が築城、その子孫が居城後、徳川家康に服属するようになった。1571年、武田信玄による三河侵攻で攻められ、城主・元成の直系玄孫・菅沼正貞は心ならずも武田軍の圧力に屈した。1573年、武田信玄の病が悪化し死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。以後、家康により城が拡張される。1575年6月29日、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が持てる兵力の大半1万5千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。

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Marina@神戸-1-2

2018年07月02日 | 山口華奈 山岡ゆい 森田かほ Marina

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井伊氏-5 小野政次終焉の地・蟹淵

2018年07月02日 | 戦国時代

 小野政次-1569 は遠江国井伊谷の国人で井伊氏に家老として仕えた。井伊直盛の家老を務めた小野政直の嫡男。父・政直は井伊一門である井伊直満(直盛の叔父)と対立、謀殺するなどした奸臣であったという。1560年、今川軍は桶狭間の戦いで織田信長に大敗を喫し、井伊直盛も戦死する。この時小野家でも政次の弟・朝直、一族とみられる小野源吾が討死している。一方、三河国では徳川家康が今川氏を離反し、織田氏と同盟を結んだ。この頃直親も徳川氏に密かに内通していたという。直親の内通を知った政次は、駿府の今川氏真に今川謀反を訴えた。直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かうが、途中の掛川にて今川氏家臣の朝比奈泰朝によって殺害された。政次は氏真の命を奉じて直親の遺児・虎松も討たんとしたが、新野親矩によって阻まれている。1563年には井伊直平が死去し、井伊谷城が無主となったため、井伊氏は直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)を当主とした。

 1568年、武田信玄が今川氏の駿河国に侵攻、これに際して政次は今川軍に従っていた。虎松を殺害して井伊谷を掌握するよう氏真より命じられ、井伊氏より井伊谷を横領する事となった。だが徳川家康は政次の横暴に対抗すべく、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。政次は敗北して井伊谷から退去すると、1569年4月7日、井伊家の仕置き場とされる蟹淵にて獄門により処刑。政次の子2人を含む彼らの供養塔と伝えられる石塔群がここ蟹淵に残っている。

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