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夏子@淡路・阿万浜-2

2018年07月28日 | Sena 希実 松島夏子

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会津 若松-15 皆鶴姫の墓と暦応の碑:藤原成道の側室(鬼一法眼の後妻)の娘

2018年07月28日 | 平安時代

 皆鶴姫の解説の前に、平治の乱で平氏敗れた源氏の状況について語らねばならない。源氏方は、頼朝が伊豆へ流され、義経は京都洛北の鞍馬寺に預けられた。この時の名は遮那。成人するに付け平家の追求の手が身辺にも及ぶ様になったので、知人の金売り商人の吉次の手引きで奥州に逃れたのである。途中、1172年名古屋の熱田神宮で元服し、義経と名を改めると平泉の藤原氏を訪ね、1174年に義経は、京都へ戻った。平氏の動向を探っていた義経は、兵法に通じた吉岡・鬼一法眼が所有する兵法書を手に入れようとしたが叶わず、娘の皆鶴姫(母は、藤原成道の側室で皆鶴はその娘、後に皆鶴を連れ吉岡鬼一法眼の後妻となる)に近づき、密かに書き写したという。その時、帽子丸という男子が生まれている。皆鶴姫は、正一位大納言藤原成道卿の側室である桂御前の一人娘、彼女が生まれて直ぐに父である藤原成道卿が亡くなってしまったので、母は皆鶴姫を連れて里に帰りその後、鬼一法眼吉岡憲海と再婚し、姫も鬼一法眼の養女となった。その後義経は、四条の上人正門坊の元に身を寄せていたが、それを訴え出た人があり、上人は捕らえられ義経は奥州へ逃れるのである。皆鶴姫は驚き後を追ったという。1176年、会津若松市柳原に皆鶴姫が2歳の帽子丸を連れて来た時、敵に帽子丸が捕まり沼に投げ入れられ溺死したという。皆鶴姫も18歳で難波池に投じた。その時、義経は報を聞き急ぎ戻り、この池の傍らに皆鶴姫を葬り、墓を築いた。   

暦応の碑の左側には、義経が奥州平泉に下向する際に愛馬を繋いだと伝わる「駒繋石」がある

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