平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

岡宮天皇陵

2007年04月18日 | 天皇・皇后陵

岡宮天皇真弓丘陵

 持統天皇が寵愛した草壁皇子が死後岡宮天皇に追尊されたのを初めて知りました。ここ岡宮天皇陵は飛鳥の南西すぐのところにあり、その昔スサノオノミコト神社の本殿があったそうです。(撮影:クロウ)

 661年、斉明大王(天智、天武の母)は一族を率いて筑紫へ向かっていた。 身篭っていた大田皇女は大伯海で大海人皇子の子・大伯皇女を産んだ。 翌年、妹の讃良皇女は筑紫で草壁皇子を、翌翌年には大田皇女が大津で大津皇子を産んだ。 中大兄皇子は兵力の増員のために備中へ立ち寄り、伊予の熟田津から道後温泉で斉明大王や額田王らと休養をとり、その後筑紫の大津に着いた。 母斉明大王はかなり弱っていたため、道後温泉で休養をとったのであるが、甲斐なく筑紫で68歳の生涯を閉じたのである。 本来、我が国では大王が喪に服しているときには戦は禁忌である。 しかし、唐は百済のみならず高句麗をも滅ぼし、新羅を属国として我が国を支配下に置こうとしている。 唐軍と新羅軍を相手にした戦を中断するわけにはいかなかった。 母・斉明大王に続いて664年に間人皇后も亡くなった。中大兄皇子と逢えなくなったことが妹の胸を痛めたに違いない。 667年には娘の大田皇女が若くしてなくなった。 大海人皇子は大田皇女を寵愛していただけに悲哀の翳りは隠し切れなかった。

  病状が悪化した天武天皇が亡くなったのは翌年の686年で大津皇子が斎王の大伯皇女を伊勢まで訪れ帰ってきた直後である。皇后は草壁皇子が即位するまでの間自分が政治を執る旨を告げた。兵政官の長となった大嶋は500人の兵を引き連れて宮の警護に当たっていた。皇后の警護体制はいかにも大津皇子が謀反を企てているかのようである。 そして天武天皇の葬儀の時に謀反を企てたとして大津皇子は憐れな最後を遂げたのである。草壁皇子は天武天皇の後を継いで王位につくこともできたが、なにしろ大津皇子に心を寄せていた人たちからの反感をかうのが皇后にとっては怖かったし、草壁皇子は政務につけるほどの体力がなかったため、しばらく鸕野讃良皇后が政務を執ることとなった。 

 

 奈良県高取町には草壁皇子墓であるといわれる古墳が二つあり、束明神古墳がそのひとつです。 岡宮天皇陵の北側を進むと春日神社があり、その境内にあります。 (束明神の「束」は草壁皇子の歌から取られているらしい) 

 

女色夫古娘 泊瀬部皇女  姪娘(蘇我倉山田石川麻呂・娘) 
   ┃   ┃      ┣ 御名部皇女 
   ┣ 川島皇子657-691  ┣ 阿閉皇女(43代元明天皇)661-722  
天智天皇(中大兄皇子) 626-671                  ┃
 ┣*1           ┣大友皇子39代弘文天皇648- ┣氷高皇女(44代元正天皇)   
  ┣*2        宅子娘     ┃             ┣━━━━━━━吉備皇女683-729

遠智娘            額田王
       ┣葛野王669-705┃ 宮子682-754        ┃
宍戸臣大麻呂       ┣━十市皇女
652-678     ┓ ┃  ┣首皇子(聖武天皇)701-756┃
 ┣ 泊瀬部女       ┃*1大田皇女-667      ┃ ┣軽皇子(42代文武天皇)683-707┃
 ┣ 忍壁皇子656-705┃┣ 大津皇子662-689    ┃ ┃ ┣高円朝臣広成701-    ┃ 
 ┣ 磯城皇子       ┃┣ 大伯皇女661-701斎王┃ ┃  ┣高円朝臣広世      ┃
40代  天武天皇  631-686              ┃ ┃石川朝臣刀子娘             ┃

 ┣ 長皇子 ┃ ┃┃  ┣ 草壁皇子662-689    ┃ ┛ ┏━━━━━━━━━━━━┛
 ┣弓削皇子┃  ┃┃ *2持統天皇41代645-703 
┃  ┣膳夫王-729
大江皇女   ┃  ┃┃              ┃    ┣葛木王
 
      氷上娘 ┃┣━━     高市皇子654-696┛   ┣鉤取王
 
           ┃胸形君徳善女尼子娘┣ 長屋王676-729 
 
           ┃               ┣河内女王┣安宿王(奈良麻呂乱で流罪高階真人)
 
           ┃天智天皇┓       ┣ 鈴鹿王
┣山背王-763
         
 ┃ 御名部皇女(元明天皇・姉)658┣黄文王
           ┣ 新田部皇子-735
     長娥子(不比等娘,宮子妹)
      五百重娘 ┣ 塩焼王-764
 
      (鎌足娘)  ┗ 道祖王-757(ふなど)聖武後皇太子(朝廷機密漏洩事件)

コメント

春日宮天皇陵

2007年04月18日 | 天皇・皇后陵

春日宮天皇田原西陵

 奈良公園の南側に県道80号線が三重の伊賀方面に延びています。 この県道沿いに春日宮天皇陵があります。 じつは、この時の目的地は光仁天皇陵でした。 それをここが田原東陵と間違って、結局光仁天皇陵に行きそびれたのは失敗です。 田原東陵へは再度訪れることとして、ここでは田原西陵を紹介します。(撮影:クロウ)

 春日宮天皇は、万葉歌人として知られている施基皇子で、天智天皇と越道君娘の第7皇子として生まれ、 紀橡姫との間に光仁天皇、難波内親王(この御方を呪詛した罪で、井上内親王は息子の他戸王と共に幽閉される) 、湯原王,榎井王をもうけています。  また多紀皇女(天武の皇女)との間に春日王をもうけた。 光仁天皇が即位したときに、御春日宮天皇と追尊され、田原天皇とも呼ばれました。 また、平安時代には皇室の祖先と仰がれた陵墓で、近陵ともいい、平安初期に「十陵四墓」が制定され、天智天皇の山階の山陵、光仁・桓武天皇陵や、外戚藤原氏の祖・不比等以下の四墓がそれにあたります。 因みに天智天皇が数多くの妃、采女に産ませた男子には大友皇子、川嶋皇子がいる。

  

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┣ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃ 真手王  ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 
┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 
┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛

 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686
 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┣長皇子-715 
                              ┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699 
 
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹)  
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707 
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武) 
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正) 
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明) 
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658 紀橡姫      ┣他部親王
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649       ┣難波内親王┣酒下内親王
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘 越君伊羅都売    ┣白壁王(光仁)709-781
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮 ┣ 阿閉皇女 ┣ 施基皇子-716     
    
   ┃  ┗ 蘇我畝傍          ┣ 御名部皇女┃      ┣春日王703-745  
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)     天智天皇(中大兄皇子)     託基皇女665-751 
   ┣ 法提郎女                   ┣   ┣不比等659-720    ┓
     ┗ 刀自古朗女-623      鏡姫王 車持君與志古娘(安見児) ┃  
       ┣ 山背大兄王595-643
    ┗━━┓┣定恵641-        ┣藤原麻呂
         ┣ 財王608-   ┃           中臣鎌子614-669     ┃ 
         ┣ 日置王    ┣ 弓削王622  ┗藤原五百重娘669-695┛
         ┣ 片岡女王   ┣          ┣新田部皇子
       厩戸皇子574-622   ┃        天武天皇   ┣塩焼王
         ┃  ┣ 舂米女王 ┃         ┣磯城皇子┗道祖王-735
         ┃ 菩岐岐美郎女-622         ┣忍壁皇子665-705
         ┣ 手嶋女王                  ┣泊瀬部皇女
      位奈部橘王                 ┣託基皇女┣-
                        宍戸臣大麻呂娘  川島皇子(天智皇子)

コメント

第43代元明 44代元正天皇陵

2007年04月17日 | 天皇・皇后陵

第43代元明天皇奈保山東陵

 元明天皇陵は、聖武天皇陵のすこし北側の住宅地のはずれにあります。 元明天皇は、推古天皇をはじめとして、皇極、持統、に続く女帝で、持統天皇の皇子・草壁皇子を夫とし、阿閉皇女と呼ばれ、氷高皇女(36歳で女帝となった元正天皇)、吉備女王(長屋王の妻)、軽皇子(後の文武天皇)を産んでいます。 草壁皇子は異腹の兄弟大津皇子と皇太子の地位を争い、母・持統天皇の後押し(無実の罪で大津皇子を追いやる)で勝利するも、夢半ばで死去した御方です。 

 首皇子の誕生の2年後に持統天皇は死去し文武天皇もその4年後に25歳で若死にすると、首皇子はまだ7歳だったので、阿閉皇女が即位し元明天皇となった。 その後数年して首皇子15歳のときに、元明天皇の皇女・氷高皇女が即位し、中継ぎのように元正天皇となっている。 本来なら首皇子が即位してもいいのであるが、なにしろ蘇我氏の血筋ではない宮子の子であることから、先に元正を天皇にしたというのである。このようにして不比等は孫の即位を見ずに720年に死去すると、翌年元明天皇も力尽きて死去する。(撮影:クロウ)

 

女色夫古娘 泊瀬部皇女  姪娘(蘇我倉山田石川麻呂・娘) 
   ┃   ┃      ┣ 御名部皇女 
   ┣ 川島皇子657-691  ┣ 阿閉皇女(43代元明天皇)661-722  
天智天皇(中大兄皇子) 626-671                  ┃
 ┣*1           ┣大友皇子39代弘文天皇648- ┣氷高皇女(44代元正天皇)   
  ┣*2        宅子娘     ┃             ┣━━━━━━━吉備皇女683-729

遠智娘            
額田王       ┣葛野王669-705┃ 宮子682-754        ┃
宍戸臣大麻呂       ┣━
十市皇女652-678     ┓ ┃  ┣首皇子(聖武天皇)701-756┃
 ┣ 泊瀬部女       ┃*1大田皇女-667      ┃ ┣軽皇子(42代文武天皇)683-707┃
 ┣ 忍壁皇子656-705┃┣ 大津皇子662-689    ┃ ┃ ┣高円朝臣広成701-    ┃ 
 ┣ 磯城皇子       ┃┣ 大伯皇女661-701斎王┃ ┃  ┣高円朝臣広世      ┃
40代  天武天皇  631-686              ┃ ┃石川朝臣刀子娘             ┃

 ┣ 長皇子 ┃ ┃┃  ┣ 草壁皇子662-689    ┃ ┛ ┏━━━━━━━━━━━━┛
 ┣弓削皇子┃  ┃┃ *2持統天皇41代645-703 
┃  ┣膳夫王-729
大江皇女   ┃  ┃┃              ┃    ┣葛木王
 
      氷上娘 ┃┣━━     高市皇子654-696┛   ┣鉤取王
 
           ┃胸形君徳善女尼子娘┣ 長屋王676-729 
 
           ┃               ┣河内女王┣安宿王(奈良麻呂乱で流罪高階真人)
 
           ┃天智天皇┓       ┣ 鈴鹿王
┣山背王-763
         
 ┃ 御名部皇女(元明天皇・姉)658┣黄文王
           ┣ 新田部皇子-735
     長娥子(不比等娘,宮子妹)
      五百重娘 ┣ 塩焼王-764
 
      (鎌足娘)  ┗ 道祖王-757(ふなど)聖武後皇太子(朝廷機密漏洩事件)
 

第44代元正天皇奈保山西陵

 

コメント

第45代聖武天皇・皇后陵

2007年04月16日 | 天皇・皇后陵

第45代聖武天皇佐保山南陵 皇后・光明子佐保山東陵

 奈良、聖武天皇陵は興福寺の北、正倉院の西にあります。 奈良・大和王朝期の天皇陵に比べると、規模は小さく前方後円墳ではありません。 ここ佐保山には光明皇后の陵も隣接しております。 光明皇后は 756年に太上天皇となっていた夫の聖武天皇が亡くなった2年後には「天平応真仁正皇太后」と皇太后号が贈られ、「天平應眞仁正皇后佐保山東陵」と書かれています。

 聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子と文武帝との間に生まれた生粋の藤原一族である。しかも不比等と橘三千代との子・安宿姫(後の光明皇后)を正妃に持ち揺るぎ無い藤原氏の一員である。 729年、政敵・長屋王(高市皇子の子で天武の孫)を滅ぼし一族の繁栄を謳歌していたが、737年天然痘が蔓延し藤原四兄弟が揃って死亡したところから、藤原氏に代わって橘諸兄が台頭し左大臣まで登りつめた。 東大寺発願が四兄弟死亡の6年後であり、反藤原氏の意図であったことは重要な意味を持つ。 東大寺の隣には藤原の氏寺・興福寺があるが、これへの挑戦のようでもある。 藤原氏の傀儡でもあった天皇が、藤原権力と戦う意図があったようにも思えるのである。

 藤原氏の祖ともいえる鎌足の意思を受け継いだ藤原不比等は持統天皇の息子・草壁皇子、その息子・軽皇子(後の文武天皇)、その息子・首皇子と関わり、天皇系を牛耳ることにより藤原氏の権力を固めていった。 平城京遷都の710年には大和朝廷の実権をほぼ手中にした。 時の天皇は不比等の傀儡の元明天皇(持統天皇の妹・阿閉皇女)である。720年に不比等が死ぬと、息子の武智麻呂、房前が独裁政権を執るが、この時立ちはだかったのが高市皇子の息子・長屋王で、右大臣になっていた。首皇子即位をまじかに控えて、首皇子の母・宮子の尊称問題(大夫人)で意義を申し立てた長屋王に面子を潰された藤原一族は、呪詛の疑いで長屋王を自殺に追い込んだ。 祝杯を挙げたのも束の間、737年に疫病で藤原四兄弟が死ぬと、橘諸兄は僧玄坊、吉備真備とともに藤原氏を蹴落としていく。 このときに起きたのが藤原広嗣(宇合の子)の叛乱である。広嗣は処刑され、不比等の諸領土は全て朝廷に返上となった。 橘諸兄は県犬養宿三千代と美努王の子で、彼にとって不比等は母を寝取られた宿敵である。 ここに藤原氏への復讐が達成されたとも思えるのである。(744年頃) そして橘諸兄に傾注する聖武天皇は度重なる流浪遷都、東大寺の建立を繰り広げる。

 藤原不比等の娘・光明子は仲麻呂とともに藤原政権を立て直したが、結果、夫・聖武天皇を裏切ったことになる。 見事に裏で聖武天皇を操った光明子は高僧・玄坊との醜聞、権力の女という一面のほか、悲田院・施薬院を創設し貧困の人々を救ったという一面もある。 これは懺悔の表れであり、法隆寺の夢殿を作ったとされる光明子の祖先の懺悔の表れと同じかもしれない。 藤原の祖・鎌足や不比等の陰謀を見、長屋王の変の祟りで藤原四兄弟が亡くなり、安積親王の変死が聖武天皇に影響されるかもしれないと怯えた光明子が、貧困の民衆を救おうとした懺悔はある意味当然のことであると思われる。

  光明子は正倉院に直筆の「楽穀論」を残しているが、その書体は男勝りで強烈な個性を持っているというが、通称法華寺(法華滅罪寺)を考えると本質が伺える。 法華寺は藤原不比等の館を光明子が寺にしたもので、平城京の拠点ともいえるこの場所を滅罪の場所に選んだ。 光明子の受難と悔悟は藤原四兄弟の滅亡に端を発している。 4兄弟の死は平城京を震撼させたが、それは長屋王の祟りであり、藤原武智麻呂にも祟りの被害が及んだというから、滅罪寺の建立のきっかけとなったはずである。 こうして反藤原派の女人となっていった。 原因は藤原四兄弟の死だけではなく、 聖武天皇の母・宮子が大きく影響している。 宮子は聖武天皇を産むと、藤原不比等の邸に幽閉され親子は37年間会えなかった。 不比等のやり方に疑問を持った光明子は、僧・玄坊と宮子を自分の邸に呼び、宮子が憂鬱の呪縛から解けた。 光明子は姉の宮子の悲運を見るにつけ、また藤原に操られた聖武天皇を思うにつけて、自ら藤原の娘であることから開放され、夫と姉の真の幸福を願った結果が宮子事件であった。

 この時俄かに暗躍していたのが藤原武智麻呂の子・仲麻呂である。聖武天皇の唯一の皇子安積親王が若くして急死したのは仲麻呂の毒殺とも言われている。 長屋王の祟りを怯えるかのように不可解な行動をとる朝廷側に対して非難材料に事欠かなかった仲麻呂に対して、聖武天皇は阿部内親王に譲位するという自分の非を認めるかのような行動にでたのが749年である。 この後仲麻呂の兄・豊成が右大臣となり、仲麻呂とともに、橘諸兄を包囲し徐々に追い詰めていくのである。 755年には諸兄の子・奈良麻呂が朝廷に反旗を翻し、そして聖武天皇が崩御する直前の756年、諸兄は左大臣の職を投げ出し敗北した。

  聖武天皇が王位を譲り、娘の孝謙天皇が即位すると、光明子は藤原仲麻呂に利用されていく。 藤原仲麻呂は光明皇太后の紫微中台という立場を利用して私的な政治を行うのである。 756年の聖武天皇の崩御後、遺愛の宝物が正倉院に納められると天皇御印が仲麻呂の手に渡り、翌年橘諸兄死去、奈良麻呂の叛乱、大炊王の即位と進み、 仲麻呂は頂点を極めたのであるが、 奈良麻呂の叛乱では430人もの死刑・流罪者を出し、諸豪族の恨みは仲麻呂に集中することになる。 また、藤原一族からも仲麻呂の突出に反感を買うこととなり、ついには孤立していくのである。

参道を進むと左側には聖武天皇陵へ、右側には光明皇后陵へと分かれています。(撮影:クロウ)

 

 

聖武天皇陵                                  光明皇后陵

 

   ┏ 蘇我娼子娘-693
   ┣ 安麻呂  ┣ 武智麻呂(南家)680-737

           ┃   ┗ 仲麻呂706-764 後に恵美押勝
 
          ┣ 房前  (北家)681-737元正の内臣
 
           ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737
 
           ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱        白壁王709-781光仁天皇

           ┃  ┣ 良継 白壁王支持           ┣ 他部親王

  ┏許米━大嶋  ┃  ┗ 百川 道鏡追放   県犬養広刀自 ┣ 酒下内親王

┏□ 金(反大海)
 ┃                            ┣ 井上内親王717-775
 
┣□□意美麻呂  ┃五百重669-695(天武夫人)      ┣ 安積親王728-744 
  
┃舒明┓      ┃┣ 麻呂 (京家)695-737       ┃

┃   鏡女王    ┃┃          文武天皇683-707  ┃
 
┃    ┣氷上娘 ┃┃ 賀茂比売         ┣ 首皇子(45代聖武724)701-756

┃    ┣五百重 ┃┃  ┣ 藤原宮子682-754┛     ┣ 基皇太子727-728
  
┗□ 鎌子614-669┃┃  ┣ 長娥子694-(長屋王妾)  ┣ 阿部内親王46代孝謙718-770

           ┣ 藤原不比等659-720               ┃
       ┣ 定恵644-667 ┣━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
        與志古娘       ┃     
       
          県犬養(橘)三千代668-733                   
              ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
 
            ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757  
  
           美努王

コメント

第11代垂仁天皇陵

2007年04月15日 | 天皇・皇后陵

第十一代垂仁天皇 菅原伏見東陵

 垂仁天皇陵は平城宮後のすぐ西、安康天皇陵のすぐ東にあり、濠に囲まれた立派な前方後円墳でした。

 活目入彦五十狭茅尊(後の垂仁)には兄・豊城入彦命がいた。 父崇神天皇は弟の器量を認め(といっても、二人が見た夢の内容で占ったという)、 活目入彦五十狭茅尊が垂仁天皇として即位し、兄・豊城入彦命が皇太子となった。 垂仁天皇は狭穂姫命を皇后として三輪山の纒向に都を置いた。

 垂仁は崇神天皇(御間城入彦)同様に天神地祀を怠らず、天照大神を倭姫命(日葉酢媛命との間にうまれた)に託し鎮座する場所を探させた。 倭姫命は諸国をめぐって伊勢に辿りつき五十鈴川のほとりに祠をたてた。これが伊勢神宮の起こりである。 また垂仁は殉死の禁止を行った。奈良市・佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の一つ日葉酢媛命陵に、垂仁天皇(崇神天皇の第三皇子)の皇后である日葉酢媛命が眠っている。 日葉酢媛命陵は、かつては神功皇后陵にあてられたこともあり、野見宿禰(のみのすくね)の献策で人身御供にかえて埴輪を初めて立てたという『日本書紀』の説話でも有名。 橿原市鳥見町にある枡山古墳に眠る倭彦命(垂仁の兄弟)が亡くなった時、従者を殉死させたので生き埋めになった人たちの泣き叫ぶ声が何日も続いた。それが哀れなので、次に日葉酢媛命が亡くなった時に野見宿禰の建言によって人を殉死させる代わりに埴輪を立てた。 その為に出雲の国から100人の土師部を呼んで埴輪を作らせたという。

  丹波道主王の娘・日葉酢媛命には、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ) 、 薊瓊入媛(あざみにいりひめ)という妹がおり、いずれも垂仁天皇の妃となっている。 実はこの4姉妹の他にも妹がいたが不細工であったため里に返され、その途中で身投げ自殺をしたという。 また日葉酢媛命を皇后に迎える前に、狭穂姫という皇后がいたが死なれている。 垂仁は狭穂姫を愛していたが、狭穂姫の兄・狭穂彦が王位を狙って謀反をおこし、狭穂姫は兄の稲城にはいってしまった。 稲城が垂仁により焼かれる前に、皇后親子を助けようとしたが、あえなく狭穂兄妹は焼死する。 焼死する直前に生まれた子の本牟智和気御子だけは助け出されたが30歳になっても喋ることができなかったという。 本牟智和気御子は狭穂姫が火中から生まれたために付けられた名前であるが、そのときの逸話は哀しい物語として、日本書紀、古事記の両方に記載されている。 (撮影:クロウ)

 

 

 

             大物主神(蛇)      尾張大海媛
第七代孝霊天皇  ┣                   ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
     ┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与かも)  ┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
     ┣ 吉備津彦      ┣ 開化天皇  ┃   ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
    ┣ 稚武彦命  孝元天皇   ┣ 崇神天皇(御間城入彦)   (
みまきいり彦
)
   倭国香媛      ┃   伊香色謎命 ┃    ┣ 豊城入彦命  
 
            ┃         ┃    ┣ 垂仁天皇━┓(
いくめいり彦
)  
             ┃              x 御間城媛 ┣   ┃ 
                         ┣ 武埴安彦命 ━┛     ┏迦具夜比売┃ 
            埴安媛  ┣           大筒木垂根王    ┃
                 吾田媛(隼人族)                  ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┃    
肥長姫(蛇)                            葛城高額姫
狭穂姫命┃                                             ┣ 神功皇后
┃ ┣ 誉津別   播磨稲日太郎姫 -122        垂仁天皇       ┃ 
11代垂仁天皇-69-70┣ 櫛角別王(
くしつのわけのみこ)  ┣両道入姫命  ┣ 15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代仲哀天皇 
  ┃ イニシキイリヒコ    ┣ 小碓尊  (おうすのみこと) 日本武尊    ┣坂王
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130                  ┣忍熊皇子
  ┣ 倭姫命      ┣ 稚足彦尊(
わかたらしひこのみこと
13代成務天皇)大中姫 
 ┣日葉酢媛命     ┣ 神櫛皇子(
かむくしのみこ
)讃岐国造の祖   
 ┣渟葉田瓊入媛  ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖 
 ┣真砥野媛    ┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛    ┣ 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖 
丹波道主王    ┣ □ 
10代崇神天皇   ┣ □ 
  ┣ 八坂入彦命 ┣ □
 御間城姫 ┣ 八坂入媛命(
やさかいりびめのみこと)

コメント

第20代安康天皇陵

2007年04月15日 | 天皇・皇后陵

第20代安康天皇 菅原伏見西陵

 安康天皇陵は奈良・平城宮跡の西1kmくらいのところ、第二阪奈道路・宝来IC近くにあります。(撮影:クロウ)

 安康天皇は允恭天皇の子である。 一方仁徳天皇と日向の髪長姫との間に生まれたのが大草香皇子と若日下部命である。 安康天皇は大草香皇子と対立し、大草香皇子の子・眉輪王によって殺され、この時、難波吉士日香香とその子が殉死する。 安康天皇は大草香皇子の死後、彼の妻だった長田大郎女を妃とした。 長田大郎女は履中天皇の皇女であり、中磯姫ともいう。 連れ子の眉輪王は幼くして、自分の父・大草香皇子が安康天皇に殺されたことを知ると天皇の寝首を斬って葛城の大豪族・円大臣のもとに逃げた。 安康天皇暗殺の知らせを聞いた允恭の子・幼武皇子(後の雄略天皇)は、兄を疑い殺すと、葛城円を囲んだ。 円大臣はかねてから幼武皇子が望んでいた娘・韓媛を仕えさせ、五箇所の屯倉を幼武皇子に献上したあと、眉輪王を匿ったからには幼武皇子に応戦する他はなく、見事に戦いきった後、眉輪王を殺して、自害した。これにより幼武皇子は雄略天皇として即位した。倭王武とされる雄略天皇に比べると安康天皇への関心は低く、陵も雑な扱いを受けており、宮内庁は戦国期の城跡を陵と指定しているらしく、当時の古墳最盛期を考えると、立派な前方後円墳であったと考えられる。

 

 

                                                                                  春日大娘皇女
           宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
葛城高額媛       ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
   ┣神功皇后170-269 ┣菟道稚郎子     ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)450-487
1414代仲哀天皇┃             ┣ 市辺押磐皇子-456
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┣ 忍熊皇子 仲姫命┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫       ┃   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
  品陀真若王┛   ┣ 18代反正天皇336-410
  
              ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┣  磐之媛命      ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
 
 
          ┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
 
         ┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
   
         ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
 
          ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
         ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇418-479
  ┣葛城襲津彦-347┃      ┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃      ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 
┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子  ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃ ┗毛媛  ┃        ┣葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰
  ┣黒媛    ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┣葛城蟻臣  ┏忍坂大中姫      
                   ┣荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

コメント

伝承上の九人の天皇

2007年04月15日 | 天皇・皇后陵

 日本初代天皇・神武天皇から第九代開花天皇までは、伝承上の人物であり実在したのかどうかは定かではない。 特に第二代からは『欠史八代』と云われ、記紀にも宮、系譜、陵の場所などが簡単に記されているだけである。 (撮影:クロウ)  

神武天皇陵 (畝傍山東北陵)

 樫原神宮の北隣にあるその御陵は圧倒的な大きさに加えて宮内庁の事務所も半端ではない。(撮影:クロウ) 神日本磐余彦尊 (かむやまといわれひこのみこと)・神武天皇は『日本書紀』の記述によると、兄の五瀬命(いつせのみこと)らと共に日向の高千穂宮を発ち、筑紫、安芸、吉備から瀬戸内海を経て難波に至りますが、生駒山を越えての大和入りは登美能那賀須泥毘古(長髄彦)をはじめとする地元の豪族に阻まれます。この戦いで兄の五瀬命,稲飯命,三毛入野命を失った神武天皇は紀州の海に逃れます。そして、今度は霊剣「韴魂ふつのみたま」と「八咫烏」に導かれながら紀伊熊野から大和入りを果たし、激しい戦いの末に大和地方を平定し、奈良・橿原宮で即位を宣して初代天皇になった言われています。

 

綏靖天皇陵 (桃花鳥田丘上陵)

 神武天皇を父とする三兄弟の末皇子である綏靖天皇は、2人の弟を殺し皇位を奪おうという野心を持った異母兄で長兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)の謀を事前に知り、すぐ上の兄である神八井耳命(かみやいみみのみこと)と共に先手をうって手研耳命を殺そうします。その際武器を持って先に部屋に入ったにもかかわらず恐れをなして長兄を殺す事ができなかった神八井耳命に代わって手を下したのが綏靖天皇でした。神八井耳命はこれを恥じ弟の方が皇位にふさわしいと述べてその地位を譲ります。 後に五十鈴依姫(いすずよりひめ)を立てて皇后(天皇の母方の叔母)とし、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)を生んでいる。

 

 安寧天皇陵 (畝傍山西南御陰井上陵)

 安寧天皇陵は神武天皇陵の西側、畝傍山を隔ててすぐのところにあります。 綏靖天皇が即位した年に五十鈴依媛命を皇后に立て、磯津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)を産み21歳の時に皇太子となる。8年後に綏靖天皇が崩御すると磯津彦玉手看尊が即位して安寧天皇となる。都を葛城の高丘宮から浮穴宮に移したという。即位3年後に事代主神の孫・鴨王の娘・渟名底中媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を皇后とし息石耳命(おきそみみのみこと)と日本彦耜友尊(やまとひこすきとものみこと(後の懿徳天皇),磯城津彦命(しきつひこのみこと)を産む。

 

 懿徳天皇(畝傍山南繊沙渓上陵)

 懿徳天皇陵も安寧天皇陵と同じくは神武天皇陵の西側、畝傍山を隔ててすぐのところにあります。  安寧天皇の第二子として生まれた大日本彦耜友尊は16歳で皇太子となり、27年後に安寧が崩御すると懿徳天皇として即位した。都を軽の曲峡宮に移し同年息石耳命の娘にあたる天豊津媛命を皇后に立て観松彦香殖稲尊(後の孝昭天皇)、武石彦奇友背命(天豊津媛命ともいう)を産んだ。

 

孝昭天皇陵(掖上博多山上陵)

 孝昭天皇陵は近鉄御所駅の近く国道沿いに位置しますのですぐに見つけることが出来ます。 懿徳天皇陵の皇子として生まれた観松彦香殖稲尊は18歳で皇太子となり12年後の懿徳天皇崩御に際に孝昭天皇として即位した。 都を掖上池心宮に移し、世襲足姫を皇后とし天足彦国押人命、 日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)を産む。

  

孝安天皇陵(玉手丘上陵)

 孝安天皇陵は孝昭天皇陵の東に1.5kmのところ玉出に位置し日本武尊命陵のすぐ北側にある。 後陵は小高い山の上にあり車ですぐ近くまで行ったものの御陵の前まで行く元気がなくなっていたため今回は断念。 孝昭天皇の皇子として生まれた日本足彦国押人尊は皇太子となった15年後に孝昭天皇が崩御すると、孝安天皇として即位し都を室の秋津嶋宮に移した。後に押媛命(兄の天足彦国押人命の娘)を皇后とし大日本根子彦太瓊尊(後の孝霊天皇) 、大吉備諸進命を産んだ。

  

孝霊天皇陵(片丘馬坂陵)

 孝安天皇の皇子として生まれた大日本根子彦太瓊尊は皇太子となった26年後に孝安天皇が崩御したがすぐには即位せず皇太子のまま都を黒田の廬戸宮に移し、その後孝霊天皇として即位した。翌年細媛命を皇后とし大日本根子彦太瓊尊を産んだ。また欝色謎命との間に四道将軍のひとり吉備津彦命や倭迹迹日百襲姫命をもうけている。 

 

孝元天皇陵(剣池島上陵)

 孝元天皇陵は橿原神宮のすぐ東、甘樫丘に挟まれた石川池の横に位置する。 孝霊天皇の皇子として生まれた大日本根子彦国牽尊は19歳で皇太子となり40年後に孝元天皇崩御に際して孝元天皇として即位し都を軽の境原宮に移した。欝色謎命を皇后として大彦命や稚日本根子彦大日日尊(後の開花天皇)を産んだ。 また妃・伊香色謎命との間に彦太忍信命(武内宿禰の祖父)をもうけている。

 

開花天皇(春日川坂上陵)

 孝元天皇の皇子として生まれた稚日本根子彦大日日尊は16歳で皇太子になり35年後に開花天皇として即位した。都を率川宮に移した。孝元天皇の妃であった伊香色謎命を皇后とし後の崇神天皇である御間城入彦を産む。これより先、天皇は丹波の竹野媛を妃とし、彦湯産隅命をもうけます。次の妃、和邇臣の遠祖・姥津姫は、彦坐王をもうけます。

 

      ┏  玉櫛媛(溝橛媛)                
 溝橛耳神 ┣   五十鈴依媛命   渟名底仲媛命┏天豊津媛命
      ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛┗━━━━┓ ┣息石耳命┣5孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)
      ┃(富登多々良須々岐比売命) ┃ ┣4懿徳天皇(大日本彦耜友尊)┃┃┃
 天照大神 事代主     ┣ 神八井耳命 ┃ ┣磯城津彦命        ┃┃大井媛
    ┣  オオクニヌシ      ┃      ┣3安寧天皇(磯城彦玉手看尊)  ┃┃ 
      ┣  加夜臣奈留美 ┣ 2綏靖天皇(渟名川耳尊)━┓━━━━━━━┛┃
  スサノオノミコト            ┣ 岐須耳命  ┃ ┃      ┃┃      渟名城津媛
     鵜葺草葺不合命┣ 吾平津媛  ┛糸織姫   ┃┃
                  ┣1神武天皇(磐余彦)       x ┃
                  ┣五瀬命,稲飯命,三毛入野命    ┃┃
                玉依姫命┣ 手研耳命        ━┛┃
                    吾平津姫(日向)          ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
 ┃ 長髄彦(ナガスネヒコ)              埴安媛(河内青玉繋娘)
 ┃       ┏押媛命                 ┣武埴安彦命
 ┃        ┃  ┣大吉備諸進命                ┃伊香色謎命
  ┣天足彦国押人命┣7孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)┣彦太忍信命(武内宿禰の祖父)
 
 ┣6孝安天皇(日本足彦国押人尊)┃     ┣8孝元天皇(大日本根子彦国牽尊) 
 世襲足媛
  ┃┃        ┃   細媛命┣大彦命
        ┃長媛  ━━━━┛      ┣9開花天皇(稚日本根子彦大日日尊)
       五十坂媛 ┃           ┣迹迹姫命┃┃┣彦湯産隅命
            ┣倭迹稚屋姫命 欝色謎命(出石心命孫┃┃竹野媛
            ┣倭迹迹姫命                ┃姥津姫━彦巫王 
            ┣吉備津彦命           ┣10崇神天皇(御間城入彦)
  
         
欝色謎命(倭国香媛)       伊香色謎命

コメント

第57代陽成天皇陵

2007年04月13日 | 天皇・皇后陵

第57代陽成天皇神楽岡東陵

 陽成天皇陵は銀閣寺の西、吉田山の南、後一条天皇陵のすぐ南にあります。 前回、後一条天皇陵をやっとのことで見つけたときには、ここ陽成天皇陵がすぐ近くにあることを忘れてしまい、見逃してしまいましたので再度の挑戦です。 

 876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。先に触れたように陽成上皇の母・高子は奔放な性格だった。そして高子が建立した東光寺の僧・善祐と高子は密通しており、高子55歳の時に表沙汰にされている。極めて老いらくの恋であるが・・・。このとき丁度、宇多天皇が我が系統を確保するために醍醐天皇に譲位する直前であるから、陽成上皇に罵倒された仕返しともいえる政治的な策略の感がある。896年高子の密通は暴露され廃位が決まると、僧・善祐は流され、高子は910年に69歳の生涯を閉じた。

 

                   伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣
 ┃           ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇830-887 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)

(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子  藤原温子 菅原衍子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子 源貞子 
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┣ 簡子内親王-914       ┃
           ┃  ┃┣ 綏子内親王-925    藤原褒子(時平娘 元良親王と恋愛) 
            ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  
         ┃  ┃                 藤原長良802-856┣-
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850       ┣藤原淑子┃
          ┃        ┃ ┣ -         836-891┣藤原基経┃
          ┣正子内親王┃
小野吉子(更衣)     842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
          橘嘉智子      ┃紀名虎娘・静子
  良房┓在原行平娘┃    ┃┃
                         ┃ ┣
紀有常女*5     藤原明子┃ ┣陽成天皇876-884
                    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)
┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
                        ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 
                  藤原順子(冬嗣・娘)     ┣源能有 ┃  
藤原遠良娘?-?

                            伴氏娘 ┗源厳子

コメント

第95代花園天皇陵

2007年04月13日 | 天皇・皇后陵

第95代花園天皇十楽院上陵

 哲学の道を後にして、知恩院の北隣にある第95代花園天皇陵へ。 花園天皇は鎌倉時代末期の天皇で、持明院統の伏見天皇と左大臣洞院実雄の娘・顕親門院・季子との第三皇子です。 持明院統と大覚寺統の対立の中で鎌倉幕府の滅亡、室町幕府の成立、南北朝の動乱の時代にいきたのです。 大覚寺統の後二条天皇の皇太子となり、後二条天皇が二条高倉の皇居で崩御の後、12歳で即位する。 この時の皇太子は花園天皇よりも9歳年上の尊治親王(後の醍醐天皇)である。(撮影:クロウ)

 

 

                      三条治子(西御方)
              足利尊氏        ┣治仁王 
               ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 )  ┣6後小松天皇
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇)
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王 
 ┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317      藤原仲子
 ┃ 藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃         藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇┛
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                   不明 
 ┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王     ┃
            ┃      ┣邦省親王     ┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

コメント

第65代花山天皇陵

2007年04月12日 | 天皇・皇后陵

第65代花山天皇紙屋川上陵

 金閣寺のすぐ東にあるのは花山天皇陵です。

  996年1月16日、伊周・隆家の従者が花山法皇を射るという事件が起きた。 このころ花山上皇は為光の四の君の許に通っていた。少し前には藤原伊尹の娘で九の御方という姫君の許に通っていたが、この姫君に仕える女に手をつけ、そのまた娘をも身篭らせてしまった。九の御方に気が咎めた花山上皇は異母弟の弾正ノ宮・為尊親王をあてがっている。為尊といえば和泉式部を寵愛した色男で有名である。事件で殺害された者は花山の従者であったが花山上皇はこれを隠し為光邸へのお忍びの遊蕩をも隠そうとした。しかしこういう事が広まるのは実に早い。この頃伊周は為光の三の君に通っていたが花山のお忍びを同じく三の君へのお忍びを勘違いしたようで、威嚇の為に伊周の弟・隆家が矢を放ち従者を殺害したのである。 かくして4月24日伊周・隆家兄弟は法皇を射た罪で23歳の伊周は大宰権帥に、18歳の中納言隆家は出雲権守に処せられることとなった。 中宮定子は伊周らの不祥事件を憚って内裏を退出し、一週間後の5月1日に落飾している。 花山天皇には平平子との間に清仁・昭登親王をもうけていたが、即位を見ることはなかった。また、為平親王娘の婉子は後に藤原実資と再婚した。 

 

 

 

     ┏為時━紫式部 
    ┏□ ┏朝忠 ━藤原穆子 
  ┏兼輔┣定方(三条右大臣)┣倫子
 ┏利基 ┣胤子  伊勢姫 ┃ 
 ┃   ┃ ┣醍醐┣中務 ┃  婉子972-998(為平親王娘,花山女御) 
 
┣藤原高藤 ┣敦慶親王  ┃   ┣資平(養子)かぐや姫   
良門     ┣敦実親王  ┃ ┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男 
順子
    宇多 ┣源雅信-993 ┣頼忠924-989┳公任966-1041━定頼 
長良802-856   ┏娘      ┃      ┗遵子957-1017(円融妃)
 
 ┣国経  ┏時平871-909   ┣敦敏912-947┳佐理スケマサ944-998

  ┣遠経  ┃┣敦忠(恋仲右近)┃      ┗為光妻      (懐妊中死亡)
    ┃        ┃┣顕忠(小野宮殿)┃                藤原忯子-985
   ┃        ┃┗保忠┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平    63冷泉帝 ┣
  ┣基経 ━╋仲平 ┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御)   ┣
65花山帝(師貞親王)

  ┃836-891 ┣忠平━╋師輔-960┳伊尹コレタタ(一条殿・謙徳公)┳懐子
 
  ┣淑子  ┃-949 ┗師尹モロタタ┣為光942-992       ┣挙賢 清少納言
  ┃    ┃(貞信公)(小一条)┃(母:雅子内親王)    ┃   ┃
  ┣高子  ┃    ┣芳子   ┃ ┣誠信964-1001    ┣義孝━行成
  ┃842-910 ┃    ┃(村上妃┃  ┣斉信967-1035    ┣義懐ヨシチカ
 乙春┣陽成帝┃    ┗済時995┃ ┃タダノブ      恵子女王 ┗成房
   ┃┣元良┃      ┣為任┃ ┗忯子(花山妃)
   ┃綏子 ┃     ┣娍子
   ┃     ┃     ┗通任┃(堀川殿)  ┏媓子(円融中宮)   
   ┣貞保 ┃    (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
   ┣敦子  ┣頼子(清和女御) ┃         ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
   ┗━━┓┣妹子(清和女御) ┃キンスエ     ┗姚子(花山帝女御)  ┃
良房804-872 ┃┣温子      ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
 ┣明子  ┃┃ ┣均子内親王  ┃(母:康子内親王)           ┃
潔姫 ┣56清和┃宇多天皇    ┣兼家929-990(東三条殿)  ━━━┓   ┃

 55文徳帝  ┃        ┣安子927-964          ┃   ┃
   ┣恬子 ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃   ┃
  紀静子   ┣保明親王     ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃   ┃
   淑姫   ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃   ┃
    ┣源兼明┃         ┣姫宮 ┣    源頼定     ┃   ┛
       ┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?      ┃
  60醍醐天皇885-930             ┃          ┃          ┃
    ┣源高明914-983(第十皇子)  ┣広平親王     綏子(すいし) ┃
    ┣雅子内親王(斎宮,師輔室) 祐姫                       ┃
      源周子               藤原元方┛南家の学者               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃   藤原守仁娘・(伊予守) 
┃   ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家)        ┣ 
 ┃        ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃        ┣大姫
 ┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044  ┗小姫 
 ┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 
┃   
  ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条 
 ┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王   996-1049
 ┃             ┣兼綱     ┣敦康親王    999-1018
 ┃          ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
 ┃   繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 ┃ 966-1027 992-1074(平等院鳳凰堂を造る 源重信の旧領) 
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通

 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)                          
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 
┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御) 
 ┃  重信┃-995          ┃延子(藤原頼宗娘) 
 ┃    ┃              ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 
 
┃    ┣ 彰子988-1074上東門院 ┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王

 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子内親王(斎院)
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条帝)
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129   
 ┣ 道義 ┃                          ┃┃┃┣篤子内親王(斎院)1060-1114
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃藤原公成娘
  ┃        ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
  ┃974-1004┃ ┃                ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿)      ┣章子内親王1026-1105 

 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ - 

 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                 ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院

 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┃      ┣- 
 ┃  ┃     道隆次女・原子
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┃  ┣
 ┃  ┃ 九ノ御方(伊尹娘)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63
冷泉帝        ┣ 
  ┃   ┣ -        藤原娍子の妹
  ┃   昌子内親王950-999 
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992
     ┣ - 
    后・遵子-1018(頼忠小野宮殿娘)

コメント

第67代三条天皇陵

2007年04月12日 | 天皇・皇后陵

第67代三条天皇北山陵

 第67代三条天皇陵は花山天皇陵のすぐ北側の住宅地内にあります。 三条天皇は冷泉天皇と藤原超子の間にうまれ、兼家の寵愛をうけたが、一条天皇の長期政権により1011年、36歳という異例の即位であった。 順風であった兼家時代から、道長の時代にはいっては皇子の敦明親王の立皇太子を約束して、1016年退位し、翌年に後崩御。  即位後に藤原綏子、藤原原子を妃として持ったがともに皇子女を持つことはなく、綏子は臣下と密通し、原子は不審な死を遂げるなど、不遇な世を送った。 (撮影:クロウ)

 

コメント

光明・崇光天皇大光明寺陵

2007年04月12日 | 天皇・皇后陵

北朝第二/三代光明・崇光天皇大光明寺陵

 桓武天皇陵の南、桃山駅のすぐ南に位置するのは大光明寺陵・光明天皇、崇光天皇陵です。 ここは二度目の挑戦でやっと見つけることができました。 北朝大二代の光明天皇は後伏見天皇と西園寺寧子・広義門院との間に第二皇子として生まれ(先の光厳天皇の同母弟) 足利尊氏の擁立され即位する。 皇后は三条氏。 後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した足利尊氏が湊川の戦いで勝利し、1336年に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。 後醍醐天皇の代わりに豊仁親王が三種の神器の無い状況で光厳天皇の院宣により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。 後醍醐天皇には太上天皇の尊号を贈り、 後醍醐の皇子・成良親王を皇太子に立てたが、後に後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を設立をしたために、成良親王の皇太子はご破算となり、ここに南北朝の対立が始まった。 兄の光厳上皇による院政が行われて、1348年に光厳上皇の第1皇子・興仁親王(後の崇光天皇)に譲位した。 上皇にあった後は、1352年に後村上天皇の軍が京都の足利義詮を追い都を奪回した際に、光厳上皇と共々南朝に捕らえらる。 1355年に京へ戻り、以後は落髪して仏道に入ったとされ、1380年、長谷寺にて崩御した。

 また、大光明寺陵には伏見宮治仁王(南北朝時代の皇族、世襲親王家、伏見宮第2代当主)の墓があります。 父は栄仁親王、母は三条実治の娘、藤原治子(西御方)。伏見宮第3代当主の貞成親王とは兄弟で崇光天皇は祖父にあたる。 妃に今上臈を迎え、智観女王、眞栄女王、智久女王をもうけている。

 

 

                      三条治子(西御方)
              足利尊氏        ┣治仁王(第二代伏見宮)1370-1417
               ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王(後崇光院)
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 )  ┣6後小松天皇
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇)
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王 
 ┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317      藤原仲子
 ┃ 藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃         藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇┛
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子 
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       
       徳子1155-1214(建礼門院)

コメント

昭憲皇后御陵・伏見桃山東陵

2007年04月12日 | 天皇・皇后陵

昭憲皇后御陵・伏見桃山東陵

 伏見桃山東陵の隣・明治天皇柏原陵については桓武天皇陵の紹介で記載したので、ここでは省略です。

 月輪陵墓監区事務所の後にいったのは、桃山陵墓監区事務所。 もちろん御陵印をもらうのが目的です。 桃山陵墓監区事務所は明治天皇陵のところにあり、以前いったことがある場所です。 ところが前回、あわただしかったせいか、明治天皇陵の隣に昭憲皇后の御陵・伏見桃山東陵があることを忘れていたようで、今回初の参拝です。 前回は桓武天皇陵をおとずれ、そのあと長い参道を歩いてきたのですが、今回は御陵南側の正面からの訪問でした。

 

 

コメント

第94代後二条天皇 北白河陵

2007年04月11日 | 天皇・皇后陵

第94代後二条天皇 北白河陵

 京都 今出川通り沿いの吉田山北側にあるのは第94代後二条天皇 北白河陵です。大覚寺統の世仁親王(後宇多天皇)と堀河(源)基子(西華門院)との間にうまれ、後醍醐天皇とは異母兄弟になります。御陵正面の左手には藤原(五辻)宗子との間に生まれた邦良親王の墓がひっそりと寄り添うようにありました。 邦良親王は、後醍醐天皇が即位したときに皇太子として立したのですが、即位することなく死去するのでした。また、親王の長男である康仁親王(1320年-1355年)は後醍醐天皇が再度の倒幕計画に失敗して流罪となり、持明院統の光厳天皇が即位すると大覚寺統の嫡流として皇太子に立てられたものの、翌年の幕府滅亡と後醍醐天皇の復帰とともに光厳天皇ともども廃位されています。(撮影:クロウ)

 

立太子するが即位することはなかった邦良親王の墓

 ここ後二条天皇陵を訪れたとき、事務所に人影を始めて発見しましたので、前々から気になっていた御陵印について聞いてみました。 昔は各御陵の事務所に御陵印というものがあり、押印できたそうですが、今はあるところで集約管理されているらしく、そこへいかないと押印できないということです。 しかしながら、そこへいけば一気に多くの御陵印を押してもらえる、という利点があるということです。 ここ後二条から最も近いところはというと、なんと前回訪れた泉涌寺の監区事務所。 この際再度行ってみようと思い、足をのばしました。 そこで押印してもらったのが、この印(月輪陵後月輪陵)です。 普通は、掛け軸などに押印するらしいのですが、そのようなものは持ち合わせておりません。 で、押印の台紙に使ったのは「歴代天皇辞典 PHP文庫」です。 御陵参拝の時にはいつも携帯している文庫本ですが、やむなしというところです。 実はこのブログの内容はかなり、この文庫本に頼っております。 御陵制覇と同時に、御陵印制覇を、この日決めてしまいました。 

 

コメント

第58代光孝天皇陵

2007年04月10日 | 天皇・皇后陵

第58代光孝天皇後田邑陵

 光孝天皇陵は仁和寺のすぐ西隣にあります。 村上、円融天皇陵を訪れたあと、仁和寺内にある「梵」というお食事処で和弁当を食べた後にいってみました。

 光孝天皇は仁明天皇の第三皇子で、 母は贈太政大臣藤原総継の娘・澤子。 異母兄弟には、文徳天皇がいます。 太皇太后橘嘉智子の寵愛を受けて育ち、16歳で元服し、53歳のときに一品親王となって諸親王の筆頭となる。 陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち55歳で思わぬ即位をしています。 即位と同時に皇子を多く臣籍降下させ、源定省を親王に復し、立太子させた翌日に死去している。 陽成天皇廃位のとき、基経は有力候補であった清和天皇の孫・貞辰親王を推さず、基経の母と姉妹の沢子が生んだ仁明皇子の時康親王を擁立しようとした。 このとき反対派の公卿・源融などは皇位への執着心をあらわにしている。

 

                   伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣
 ┃           ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇830-887 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)

(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子   藤原温子 菅原衍子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子 源貞子
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┣ 簡子内親王-914  
           ┃  ┃┣ 綏子内親王-925  
            ┃  ┃斑子女王    ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  
         ┃  ┃                        ┣-
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850             ┃
          ┃        ┃
┣                   ┃
          ┣正子内親王┃
小野吉子(更衣)     在原行平娘   ┃姣子女王
          橘嘉智子      ┃紀名虎娘・静子
  良房┓    ┃藤原高子┃┃
                         ┃ ┣
紀有常女*5     藤原明子 ┃ ┣陽成天皇
                    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)
┣清和天皇850-881┣元良親王
                        ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 
                  藤原順子(冬嗣・娘)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘

                            伴氏娘 ┗源厳子

コメント