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大海人皇子を愛した額田王

2006年01月21日 | 奈良・飛鳥時代

「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」生没年不詳

 豪族・鏡王のむすめで、天武天皇の妃となり、十市皇女を生んでいます。鏡姫王(藤原鎌足の嫡室)の妹ともいわれていますが、極めて謎だらけで、万葉集の代表的歌人としての記録以外は皆無です。また、天智天皇が天武天皇より奪って十市皇女を生んだとも・・・。謎。 姉の鏡王女(かがみのおおきみ)は、はじめ中大兄皇子に、あとで藤原鎌足の夫人になった人である。

み吉野の、玉松が枝は、はしきかも、君が御言を、持ちて通はく

弓削皇子-699(ゆげのみこ)が苔の生えた松の枝を折って贈ったのに答えたもの。松枝が運んできたあなたの言葉を”いとおしいです”と・・。

君待つと我が恋ひをれば、我が宿の、簾動かし、秋の風吹く

あなた様(天智天皇)を恋しく待っていますと、家のすだれを動かして秋の風が吹いてきます。

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

 天智天皇の領地は茜色の光に満ちた紫野で、そこを大海人皇子(天武天皇)が袖振って猟に行く時に、そんなに袖を振って歩くと野守(天智天皇)に見られますよと、たしなめて詠った。大海人皇子は、そのようなことはよくわかっている。あってもそ知らぬ顔で見すごさなければならないわたしたちだ。しかし、久々にそなたを見てどうして袖を振らずにおられよう。と返している。

 弟よ(大海人皇子)、お前はまだ皇太弟。額田王の豊満な肢体、整った美貌、冴えた頭、豊かな歌才は天皇の女になってこそふさわしいのだ・・と兄は言う。 大海人皇子は額田王が兄の元に去り、耐えなければならなかった。 しかし、蒲生野の茜の光の中に、額田王を見たとき、耐えに耐えていたものが迸り溢れたのである。

 大海人皇子は、次の皇位を約束されている地位である。しかし、天智天皇と伊賀宅子娘との間に生まれた大友皇子も、才幹すぐれ、風貌も立派な青年である。中大兄皇子時代に、蘇我入鹿を自ら槍をもって刺殺し、自分と同じ皇位継承候補者古人大兄皇子を吉野に攻めて討ち、前帝で叔父に当たる孝徳天皇の皇子・有間皇子を絞殺した人が、自分の嫡子で愛する大友皇子に皇位を譲りたいと願うのは当然である。  後に大海人皇子(631-686)は壬申の乱(672年)で大友皇子(648-672)を倒し王位につくが、大友皇子は額田王の娘・十市皇女(652-678)と結婚していた。 

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