平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

第55代文徳天皇陵

2007年04月10日 | 天皇・皇后陵

第55代文徳天皇田邑陵

 鳴滝駅のすぐ西の住宅地の中にある文徳天皇陵にたどり着くのに苦労を致しました。 だいたいの場所はわかっているのに、道が狭くて近くまでいけません。 途中、見事な桜を鑑賞しながら到着した御陵の参道はとても綺麗で、気持ちのいいものでした。 現在では御陵の清掃などは、宮内庁に登録されたボランティアの方々によって行われているそうですが、山の中の御陵ですと毎日というわけにはいきませんが、ここ田邑陵ですと、近所の方々がこまめに手入れをしているのでしょう。  このあたりは太秦三尾古墳にあたり、皇后の藤原明子も眠っているそうです。 (撮影:クロウ)

 文徳天皇は承和の変(淳和上皇の子・恒貞親王を廃して仁明天皇と良房の妹・順子の皇子・道康親王を立太子させようとした良房の陰謀)によって廃された恒貞親王に代わって立太子した。 文徳天皇は紀名虎の娘・静子との間に惟喬親王をもうけ、その立太子を願っていたが良房を憚って諦めた。 やがて良房の娘・明子と文徳との間に惟仁親王(後の清和天皇)がうまれると立太子とした。 これらにより、藤原良房と文徳天皇との確執は深まる中、文徳天皇は858年に23歳で突然死する。 これは、明子が生んだ清和幼帝を即位させ外祖父として政権を掌握しようとした藤原良房の陰謀説がある。

 ここで紀貫之が選んだ六歌仙と文徳天皇との関係を見てみると、やはり六歌仙が藤原良房の陰謀に関わっていることが窺われる。在原業平は清和天皇がまだ幼少であった頃に婚約者である高子と恋愛に落ち、問題を起こした。 僧正遍昭は仁明天皇崩御の際に身の危険を感じて出家した。仁明の宮廷に使えていた頃、東宮に勤務していたがその頃は惟仁親王(後の清和で、第四皇子)は誕生していないので、彼の管轄は紛れもなく惟喬親王(第一皇子)であった。 文屋康秀は文徳天皇即位直後に理由不明の左遷を受けている。喜撰は陰陽道を得意とする隠遁者である。喜撰は紀仙と当てて、紀名虎の子であるという伝承があるらしいが、ほんとうとすると文徳妃の紀静子が名虎の子であるから両者は兄妹ということになる。小野小町は云うまでもなく絶世の美女と称されているが正体は全くといっていいほどわからない。 ただひとつ、文屋康秀が三河掾(三河守に次ぐ三等官)に任じられたときに、任国への視察に誘っている。そのとき小野小町は受け入れているのである。小野小町に都落ちをしなければならない事情があったのかもしれない。

 惟喬親王に加担したこれらの5人はある意味で謀反人であるが、寛大な処分の末六歌仙に選ばれるという名誉を得ている。この理由として文徳天皇は5人の処罰によって怨霊を恐れたことは間違いない。なぜなら桓武(早良親王の祟り)、平城(伊予親王の祟り)、仁明(橘逸勢の祟り)と先の天皇が悩まされていたことを知っており、今度は自分に降りかかると信じていたからである。ところで惟喬親王はというと後継者争いの末敗れて都を去り出家して素覚法師と名乗り隠棲する。その隠棲の先が比叡山麓小野の里である。ここは小野氏発祥の地で小野妹子の墓、小野篁を祀った神社もある。つまり小野は惟喬親王が選んだ地でわかるように小野小町は惟喬親王派でありかなり高い地位にあったと思われる。そこで小野小町は惟喬親王の父である仁明天皇の更衣だったのではないかとも云われている。これが小野吉子という女性である。そして小町は惟喬親王の乳母であった可能性もある。

 

  

 

 

コメント

第64代円融天皇後村上陵

2007年04月08日 | 天皇・皇后陵

第64代円融天皇後村上陵

 円融天皇陵は花園駅の北へ1kmくらいの住宅地の中にあります。 実は以前に訪れたのですが道を間違えて辿りつけずで再挑戦でした。 東の隣にはかの有名な仁和寺があります。 (撮影:クロウ)

 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘、安子である。同母兄、姉に冷泉天皇、資子内親王がいる。 はじめに関白兼通の娘・媓子を中宮としたが、979年に亡くなったため、関白頼忠の娘・遵子を中宮とした。 また、兼家の次女・詮子を入内させ、懐仁親王(後の一条天皇)が産まれている。 即位時は小野宮系の太政大臣・実頼が摂政に就き、970年に実頼が亡くなると、九条系の伊尹が摂政を引き継いだ。 同年、伊尹が亡くなると、その弟の兼通・兼家の間で、摂関職を巡って熾烈なる争いが行われた。  兼家が兄の冷泉上皇の許に娘・超子を入内させていたように、その後兼家も娘・詮子を入内させ、天皇の唯一の皇子・懐仁親王を儲けていたにもかかわらず、頼忠の娘・遵子を中宮に立てたことが兼家の恨みを買い、両者の緊張関係が続く事になる。 藤原氏の勢力争いに翻弄され、984年、懐仁親王の立太子を条件に花山に譲位した。 

 

     ┏為時━紫式部 
    ┏□ ┏朝忠 ━藤原穆子 
  ┏兼輔┣定方(三条右大臣)┣倫子
 ┏利基 ┣胤子  伊勢姫 ┃ 
 ┃   ┃ ┣醍醐┣中務 ┃  婉子972-998(為平親王娘,花山女御) 
 ┣藤原高藤 ┣敦慶親王  ┃   ┣資平(養子)かぐや姫   
良門     ┣敦実親王  ┃ ┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男 
順子    宇多 ┣源雅信-993 ┣頼忠924-989┳公任966-1041━定頼 
長良802-856   ┏娘      ┃      ┗遵子957-1017(円融妃)
  ┣国経  ┏時平871-909   ┣敦敏912-947┳佐理スケマサ944-998
  ┣遠経  ┃┣敦忠(恋仲右近)┃      ┗為光妻      (懐妊中死亡)
    ┃        ┃┣顕忠(小野宮殿)┃                藤原忯子-985
   ┃        ┃┗保忠┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平    63冷泉帝 ┣
  ┣基経 ━╋仲平 ┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御)   ┣65花山帝(師貞親王)
  ┃836-891 ┣忠平━╋師輔-960┳伊尹コレタタ(一条殿・謙徳公)┳懐子 
  ┣淑子  ┃-949 ┗師尹モロタタ┣為光942-992       ┣挙賢 清少納言
  ┃    ┃(貞信公)(小一条)┃(母:雅子内親王)    ┃   ┃
  ┣高子  ┃    ┣芳子   ┃ ┣誠信964-1001    ┣義孝━行成
  ┃842-910 ┃    ┃(村上妃┃  ┣斉信967-1035    ┣義懐ヨシチカ
 乙春┣陽成帝┃    ┗済時995┃ ┃タダノブ      恵子女王 ┗成房
   ┃┣元良┃      ┣為任┃ ┗忯子(花山妃)
   ┃綏子 ┃     ┣娍子┃
   ┃     ┃     ┗通任┃(堀川殿)  ┏媓子(円融中宮)   
   ┣貞保 ┃    (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
   ┣敦子  ┣頼子(清和女御) ┃         ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
   ┗━━┓┣妹子(清和女御) ┃キンスエ     ┗姚子(花山帝女御)  ┃
良房804-872 ┃┣温子      ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
 ┣明子  ┃┃ ┣均子内親王  ┃(母:康子内親王)           ┃
潔姫 ┣56清和┃宇多天皇    ┣兼家929-990(東三条殿)  ━━━┓   ┃
 55文徳帝  ┃        ┣安子927-964          ┃   ┃
   ┣恬子 ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃   ┃
  紀静子   ┣保明親王     ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃   ┃
   淑姫   ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃   ┃
    ┣源兼明┃         ┣姫宮 ┣    源頼定     ┃   ┛
       ┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?      ┃
  60醍醐天皇885-930             ┃          ┃          ┃
    ┣源高明914-983(第十皇子)  ┣広平親王     綏子(すいし) ┃
    ┣雅子内親王(斎宮,師輔室) 祐姫                       ┃
      源周子               藤原元方┛南家の学者               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃   藤原守仁娘・(伊予守) 
┃   ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家)        ┣ 
 ┃        ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃        ┣大姫
 ┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044  ┗小姫 
 ┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 ┃     ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条 
 ┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王   996-1049
 ┃             ┣兼綱     ┣敦康親王    999-1018
 ┃          ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
 ┃   繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 ┃ 966-1027 992-1074(平等院鳳凰堂を造る 源重信の旧領) 
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)                          
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 ┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御) 
 ┃  重信┃-995          ┃延子(藤原頼宗娘) 
 ┃    ┃              ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 
 ┃    ┣ 彰子988-1074上東門院 ┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王
 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子内親王(斎院)
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条帝)
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129   
 ┣ 道義 ┃                          ┃┃┃┣篤子内親王(斎院)1060-1114
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃藤原公成娘
  ┃        ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
  ┃974-1004┃ ┃                ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿)      ┣章子内親王1026-1105 
 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ - 
 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                 ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院
 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┃      ┣- 
 ┃  ┃     道隆次女・原子
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┃  ┣
 ┃  ┃ 九ノ御方(伊尹娘)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63冷泉帝        ┣ 
  ┃   ┣ -        藤原娍子の妹
  ┃   昌子内親王950-999 
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992
     ┣ - 
    后・遵子-1018(頼忠小野宮殿娘)

コメント

第62代村上天皇陵

2007年04月08日 | 天皇・皇后陵

第62代村上天皇 村上陵

 仁和寺横にある円融天皇陵のすぐ北側に村上天皇陵があります。 一瞬悪い予感。 かなり長い参道を登っていく必要がありそうでしたが、そうでもありませんでした。300m程度でしょうか、緩やかな階段の奥に御陵があります。

 醍醐天皇の延喜年間の「延喜の治」に並んで村上天皇の天慶の時代は「天暦の治」が敷かれた。 財政的には倹約に努めることで物価を安定させ、 文治面では、951年の『後撰集』の編纂や歌合の催行など、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。琴・琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といわれている。 (撮影:クロウ)

 

 

コメント

嵯峨天皇皇后・嘉智子嵯峨陵

2007年04月08日 | 天皇・皇后陵

嵯峨天皇皇后・嘉智子嵯峨陵

 嵯峨野にある後亀山天皇陵の北に清滝があり、その近くに嵯峨天皇の皇后・嘉智子の御陵があります。 嵯峨天皇陵に劣らず山奥に御陵があるのは遺言によるものでしょうか。 137号線を進み清滝の念仏寺近くの林道を登っていくコースが地図にはしっかり記されていますが、実際に行ってみると、この林道/登山道はありませんでした。 山深い民家の裏庭から林道が延びているのかもしれませんが、見つけることができず、 御陵を西側から攻めてみようと、50号線をすすむことにしました。

嵯峨野の北の端の石碑には嵯峨陵及び水尾山陵への参道とありますが、ここから嵯峨陵までは3km、水尾山陵に至っては10km以上あります・・・。ここから歩くのは私にはほぼ不可能と思われます。 というか、他の訪問をすべて犠牲にして本格的な登山になります。(撮影:クロウ)

 

石碑のところから50号線を2.5kmほど車でいくと嵯峨陵参道の道標を発見。 これこそ参道らしい参道です。 御陵までの距離は約500m。

 

やっと御陵が見えてきたときには、足腰が・・・。かなり急な参道は普段運動不足の私にはきついです。

 

 石碑にあったように、清和天皇の水尾山陵へいくには、50号線をさらに10kmほど進まなくてはなりませんが、どうも道が怪しい。 簡単に行けそうな道ではないのです。 清和天皇陵もいきたかったのですが、本日は他にも予定がありますし断念することとしました。 後で調べてわかったことですが、数年前から落石の為に御陵までの50号線が通行止めになっているそうです。 従いまして、徒歩で行く必要があるのです。 天皇陵の全制覇を誓った私としては、そのうち根性をださなくてはなりません。

蘇我娼子娘  
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737
 
  ┃  ┃               軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
  ┃  ┃               ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
 
 ┃  ┃             ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
 
 ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807  
   ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃   
 ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃
┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫                ┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王

  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇) 
  
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保 
  
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王   ┣正子 藤子    ┃ 

  ┃  ┃         ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王 橘清友┣54仁明810-850 *
 
 ┃  ┃   坂上田村麻呂┃   ┃┃┃┃       ┣橘嘉智子┣55文徳帝(道康)   
  
┃  ┃   登子  ┗広野┃   ┃┃┃┃            ┗橘安万子順子┗56清和天皇 
  
┃  ┃    ┣        ┃   ┃┃┃┃          真作┃      ┗貞数親王
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守         ┣女
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子   *  ┏文子
 
┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
┣在原行平
  ┃       ┃ 永継 ┣長良┃    ┣山部王(50代桓武天皇)737-806     ┣在原業平

  ┃       ┃    ┣良房┃    ┃  ┃┣良峯安世785-830    ┣ 伊都内親王
 
 ┃       ┃    ┗順子┃    ┃  ┃永継
 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
  
┃       ┗子黒麻呂-794 ┃    ┃  ┃ヨウキョウ
  ┗素性法師 正子皇后
  ┃               ┃    ┃  ┃           ┣恒貞親王(皇太子)
 
 ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃  
┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃   ┃百川娘・旅子 759-788
  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)

  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)        
 
 ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775        
  
 
 ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮) 
  
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)    
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣   
  
 
 ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇  
  
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王        
  
  ┃  賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 
  ┃   ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728

  ┃   ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃
 
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733

 嘉智子は橘奈良麻呂の孫で清友の子。仁明天皇・正子内親王(淳和天皇の皇后)の母にあたります。 賀美能親王の妃となり、夫が即位(嵯峨天皇)した後、815年、皇后に立てられる。 嵯峨天皇譲位後は、夫と共に冷然院・嵯峨院に住み、嵯峨野に檀林寺を創建するなどした。人となりは寛和で、見る人その美しさに驚いたという。

コメント

第99代後亀山天皇嵯峨小倉陵

2007年04月08日 | 天皇・皇后陵

第99代後亀山天皇嵯峨小倉陵

 京都嵐山を経て、嵯峨野に位置するのは嵯峨小倉陵です。 第96代後醍醐天皇の第九皇子で義良親王・第97代後村上天皇(南朝第二代天皇)の第二皇子が熙成親王で後の後亀山天皇です。 母は藤原勝子といって嘉喜門院とするが、出自は明確ではなく閑院流藤原氏、阿野家の出で、後村上天皇の女御で阿野実為の娘とされている。 因みに第一皇子の寛成親王は第98代長慶天皇で、治世のはじめは院政を行い、劣勢な南朝側を鼓舞するために北朝に対して徹底的な抗戦を行ったが、後亀山天皇は北朝側の後小松天皇に皇位を譲るなどして和平に努力を傾けた。 (撮影:クロウ)

趣たっぷりの北嵯峨野

 

コメント

第91代後宇多天皇 蓮華峯寺陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

第91代後宇多天皇 亀山天皇皇后・佶子蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)

 第91代後宇多天皇 蓮華峯寺陵は京都・右京区の大覚寺の北東0.5kmくらいのところ、直指庵の東に位置します。 今回訪れたときには、御陵の改修工事の最中で、御陵の周りの濠を固める工事をしておりました。 大覚寺平岡線からやっと車が通れるような脇道からすぐで、ゆっくりと当時を振り返ることが出来ます。(撮影:クロウ)

 

 後嵯峨上皇の意志により1268年に立太子し、、1274年亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から譲位を受けて8歳で即位したときは、亀山上皇による院政が行われた。 治世中には、文永・弘安の両役が発生した。 1287年、後深草上皇が、自分の血統(持明院統)ではなく、弟亀山上皇の血統(大覚寺統)が天皇になったのを不満に思っていたので、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子・伏見天皇に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪、皇統の分裂が続くことになります。 長子である後二条天皇(94代)の治世、正安三年(1301年)から徳治三年(1308年)まで院政を敷き、持明院統の花園天皇を挟んで、もう一人の皇子後醍醐天皇(96代)が文保二年(1318年)に即位すると再び院政を開始。 1321年、院政を停止し隠居した。以後、後醍醐の親政が始まる。 晩年は後二条天皇の長子(自らの嫡孫)である皇太子邦良親王の即位によって大覚寺統が早期に一本化する事を望んでいたと言われ、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎遠になっていった。

   (持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                   不明 
 ┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王1300-1326
            ┃      ┣邦省親王     ┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

コメント

後宇多天皇皇后 今林陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

姈子内親王 今林陵

 右京区嵯峨大覚寺門前六道町にあるのは後深草天皇皇女で、後宇多天皇皇后の御陵・姈子内親王 今林陵です。 清涼寺のすぐ東、天竜寺の北、嵯峨嵐山駅の北すこし歩いた住宅地は閑静な佇まいでした。 (撮影:クロウ)

  

 

コメント

第98代長慶天皇嵯峨東陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

第98代長慶天皇嵯峨東陵

 第98代長慶天皇嵯峨東陵は京都・嵐山の渡月橋の近くにありますから、京都の中でも一際観光客で賑わうところですが、御陵だけは誰もいませんでした。 嵐山 渡月橋のすぐ北からの山桜は絶景でした。 (撮影:クロウ)

  

 

 母は近衛勝子(嘉喜門院)、妃は何故か不明で、事績もほとんど記録がありません。1368年 父・後村上天皇の崩御に伴い、南朝の御座所の置かれていた住之江殿、正印殿で即位したとされます。  南朝は当時弱体化しており、後村上天皇時代には北朝との和睦交渉が行われていたが、長慶天皇の代には交渉が途絶えており、北朝に対して強硬派の人物であったとも考えられています。 1383年頃に弟の後亀山天皇に譲位したと言われており、南朝は再び北朝との和睦交渉をはじめる。南北朝合一後も京都へ戻っている形跡はなく、1394年に崩御する。 書や詩歌を行い、源氏物語の注釈書である『仙源抄』や、詩歌多数を残している。 (撮影:クロウ)

天皇陵                           海門承朝墓

 

     (持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇     ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃源通子   ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃                                不明 
 ┃     姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子 ┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子  ┣祥子内親王
            ┃                ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

コメント

第88・90代後嵯峨・亀山天皇陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

第88代後嵯峨天皇嵯峨南陵 第90代亀山天皇亀山陵

 土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である土御門定通の許で育ったが、土御門家の没落に伴って苦しい生活を送り、中途半端な状態に置かれていた。 四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。 九条通家らは、順徳上皇の皇子を擁立しようとしたが、 執権北条泰時は、承久の乱の関係者への擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王が擁立することとなった。 邦仁王は1242年即位し、在位4年で後深草天皇に譲位し、以後、院政を敷いた。 1259年には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である亀山天皇への譲位を促した。  後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあり、鎌倉幕府の将軍は天皇家より出ることになる。  後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなった。

 両天皇陵は、嵐山すぐ東にある天竜寺内にあり、四季折々の美しさに囲まれて大変美しいところです。

天竜寺までの参道周辺も落ち着いた雰囲気がいっぱいで、

 

天皇陵の参拝だけであれば入料は不要です。

 

天皇陵の入口の竹竿をくぐると

 

手入れされた見事な両御陵が並んでいます。

 

天竜寺内ではかわいい庭桜、主役の枝垂れ桜が多くの観光客の目を引いていました。

 

 

今が見頃の天竜寺・枝垂桜

 

左は庭桜といいましてもバラ科です。葉と同時かそれより早く,大型の八重の花をつけます。 また右は”ぼけ”といって、これもバラ科です。因みに織田信長の家紋はこの木瓜紋です。

 

私が大好きなバラ科の”山吹”です。平安時代には山吹色の十二単が一際内親王様を引き立てたことでしょうね。

 

左は連翹 (れんぎょう)といってモクセイ科です。

 

右は梓辛夷”しでこぶし”という、絶滅が危惧されているモクレン科に属する日本固有の遺存種で特異な分布型の植物だそうです。 花期は、里のサクラがちらほら咲き始めた3月下旬ころ、一足早く、満開になります。

 

 

                                        天竜寺の入り口近くの庭に。

 

コメント

高野新笠 大枝陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

高野新笠 大枝陵(京都府京都市西京区大枝沓掛町)

  桓武天皇の妃・藤原旅子の御陵からほんの1.5kmほど東側の9号線沿いに大枝陵はあります。 鶯の鳴き声が竹林に響く中、結構急な階段を上っていくとすぐに辿りつきます。(撮影:クロウ)

 

 

 

 

 高野新笠は和乙継の子。和氏は百済系渡来氏族(百済の武寧王を祖先)で、母は土師宿禰(のち大枝朝臣)真妹。 即位以前に光仁天皇の室となり、能登女王・山部王・早良王を産んだ。夫が即位した後、姓を和史(やまとのふひと)から高野朝臣と改めた。子の山部親王が即位した後、皇太夫人と称せられ、崩御に際し皇太后を追贈された。 

蘇我娼子娘  
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737
 
  ┃  ┃               軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
  ┃  ┃               ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
 
 ┃  ┃             ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
 
 ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807  
   ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃   
 ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃
┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫                ┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王

  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇) 
  
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保親王 
  
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王    ┣正子 藤子    ┃ 

  ┃  ┃         ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王   橘清友┣54仁明810-850 *
 
 ┃  ┃   坂上田村麻呂┃   ┃┃┃┃         ┣橘嘉智子┣55文徳帝(道康)   
  
┃  ┃   登子  ┗広野┃   ┃┃┃┃               ┗橘安万子順子 ┗56清和天皇 
  
┃  ┃    ┣        ┃   ┃┃┃┃          藤原真作┃        ┣貞数親王
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守         ┣女
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子   *  ┏文子
 
┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
┣在原行平818-893
  ┃       ┃ 永継 ┣長良┃    ┣山部王(50代桓武天皇)737-806     ┣在原業平825-880

  ┃       ┃    ┣良房┃    ┃  ┃┣良峯安世785-830    ┣ 伊都内親王801-861
 
 ┃       ┃    ┗順子┃    ┃  ┃永継
 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
  
┃       ┗子黒麻呂-794 ┃    ┃  ┃ヨウキョウ
  ┣素性法師
  ┃       ┗葛野麻呂 ┃-818┃
 ┃     ┗由性法師
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃  ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃   ┃百川娘・旅子 759-788
  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)

  ┃   ┃  ┃         ┃  ┣ 能登内親王733-781        
 
 
┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)      
  
 
 ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775        
  
 
 ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮) 
  
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)    
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣   
  
 
 ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇  
  
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王        
  
  ┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反     
  
 
 ┃       ┃ ┣ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王    大伴家持
  
  ┃       ┃ ┃      ┣娘┃ ┃        
   坂上苅田麻呂
 
 ┃       ┃ ┗ 仲成 縄主┃ ┣ 安積親王728-744

  ┃       ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃ 
  ┃  賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 
  ┃   ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728

  ┃   ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃
 
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733

コメント

藤原旅子・宇波多陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

藤原旅子・宇波多陵 (京都府京都市西京区大枝中山町)

 京都・嵐山の南へ10kmくらいのところに、桓武天皇夫人・藤原旅子の御陵・宇波多陵はあります。 すこし狭い県道でしょうか、いけるところまで車でいき、途中の竹林からは歩くこと約5分。 暫くすると御陵が見えてきます。 (撮影:クロウ)

 

 

 

 宇合の長男・広嗣は橘諸兄に対乱して失脚し、弟の良継は大伴家持らとともに仲麻呂殺害を企てて失敗したが、後に仲麻呂追討の功を挙げ、光仁擁立に尽力して内大臣に至った。 弟の百川は北家左大臣の永手と計って光仁(白壁王)擁立、道鏡追放を実現させた。 (永手の働きが大きく、百川は中心ではないという説もある) 皇太子には第四皇子の他部親王が、聖武天皇の血筋であるがゆえになった。 しかし1年後には身分の低い山部親王(後の桓武天皇)が皇太子になる。 他部親王が廃太子となったのは母・井上皇后が夫の光仁天皇を呪詛したため、他部親王にも及んだというが、これは百川の策略による可能性が高い。 こうして百川の活躍で式家は藤原氏をリードし、桓武天皇は後に百川の娘・旅子を妃とし淳和天皇を出している。 また、百川の子・緒嗣は重用され20代で参議となっている。 尚、「日本後紀」は嵯峨天皇の勅命により緒嗣らが編纂したものである。

 
 桓武天皇は種継事件を利用して思いを叶えた。 つまり皇太子であった早良親王を廃し、安殿親王を皇太子としたのである。 しかし、これにより身に降りかかる不吉な出来事を受けることになる。 寵姫・旅子が大伴親王を産んだばかりというのに30歳の若さで亡くなったのである。 旅子は百川の娘であるだけにここまで自分を持ち上げてくれた百川に申し訳がなかった。 翌年、蝦夷征伐を目指していた大部隊は大敗を喫した。 そして桓武天皇の実母で皇后夫人の高野新笠が病死し、宮廷では女官の死が相次いでいたのである。 命婦・藤原教貴、大原室子などである。 翌年、皇后・乙牟漏が31歳の若さで亡くなると、后の坂上全子もなくなった。  この頃から、桓武天皇は悪霊・怨霊に怯えるようになる。 井上皇后、他部親王、早良親王の・・・・。 そしていよいよ皇太子・安殿親王の体調も崩しはじめていた。 桓武天皇はやむなく、早良親王の怨霊鎮めを最初に行った。 しかしその配慮を無視するかのように伊勢神宮を焼いたのである。 桓武は皇太子・安殿に伊勢参宮を命じたが、安殿親王は桓武の処置に納得がいかずに、互いの溝に亀裂が入り始める。
 
  時は流れて、801年。桓武帝に寵愛を受けた百川の子・緒嗣はあと一息で参議という鮮やかな昇進ぶりを見せているが、同じ年の真夏はかなり遅れている。 桓武の皇子は次々と元服し今はなき旅子を母とする大伴親王、多治比真宗を母とする葛原親王、安殿の弟・賀美能親王と続いた。 大伴親王に付き添うのはもちろん旅子の兄・緒嗣である。
 
  軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
   ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
 
  ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
 
  ┃      ┃是公娘・吉子-807  
   ┃┃
   ┃   
 ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
   ┃    ┃
┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
   ┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王

   ┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇) 
  
   ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保親王 
  
   ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王    ┣正子 藤子    ┃ 

   ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王   橘清友┣54仁明810-850 *
 
  ┃   ┃┃┃┃         ┣橘嘉智子┣55文徳帝(道康)   
  
┃   ┃┃┃┃               ┗橘安万子順子 ┗56清和天皇 
  
┃   ┃┃┃┃          藤原真作┃        ┣貞数親王
   ┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守         ┣女
   ┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子   *  ┏文子
 
  ┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
┣在原行平818-893
   ┃    ┣山部王(50代桓武天皇)737-806     ┣在原業平825-880

   ┃    ┃  ┃┣良峯安世785-830    ┣ 伊都内親王801-861
 
  ┃    ┃  ┃永継
 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
  
┃    ┃  ┃ヨウキョウ
  ┣素性法師
   ┃  ┃
 ┃     ┗由性法師
   ┃  ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
   ┃   ┃百川娘・旅子 759-788
  
   ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)

   ┃  ┣ 能登内親王733-781        
 
 
┃白壁王709-781(49代光仁天皇)      
  
 
  ┃       ┣ 他部親王761-775        
  
 
 ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮) 
  
   ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)    
   ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣   
  
 
  ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇  
  
   ┃ ┣ 不破内親王        
  
   ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反     
  
 
  ┃ ┃    塩焼王    大伴家持
  
   ┃ ┃        
   坂上苅田麻呂
   ┃ ┣ 安積親王728-744 

   ┗首皇子(45聖武天皇)701-756 
      ┣ 基皇太子727-728

      ┗ 阿部内親王(46孝謙/称徳718-770)
コメント

定子皇后・鳥戸野陵

2007年04月07日 | 天皇・皇后陵

鳥戸野陵 (京都府京都市東山区今熊野泉山町)

木曾義仲の首を密かに火葬にした山吹

 範頼、義経その他の鎌倉武者の華々しい行列が、亡き将義仲、兼平、根井、盾などの首級を掲げて六条東獄の門へ向かっていた。 首は宿命の木にかけられる。ところが数日後、義仲の首だけが盗まれていた。 ある夜、鳥辺野に身を横たえた女雑兵は一個の首を火葬していた。 泣いて泣いてそれを灰にしていた。義仲が最後の戦に出る朝に葵の矢に射抜かれた山吹であった。 射抜かれたところは倶梨伽羅峠で山吹が葵を射抜いたと同じ深腿である。  山吹は後に義仲の遺骨を抱いて北陸のにて生涯供養を余生の生活として長寿したそうである。

一条天皇に心から愛されていた定子

 1000年12月16日、皇后藤原定子は皇女を出産しますが、難産のためにお亡くなりになりました。24歳でした。 定子は藤原道長の兄・藤原道隆と、歌人として名高い高階貴子の娘として977年に生まれ、990年1月5日に一条天皇が元服すると、その月25日に入内し、2月11日に女御、10月5日には立后して中宮となります。当時14歳でした。 定子は母譲りの才女でした。11歳の一条天皇は、彼女を姉のように慕い、二人は熱い愛を育てていきます。この定子に仕えたのが「枕草子」で有名な、あの清少納言です。枕草子のなかで、定子の洗練された会話、漢詩・和歌に秀でた教養、そして可愛らしくみずみずしい定子が表現されています。当然のことながら一条天皇は定子に影響され、芸術・文化に開眼し、そして熱愛していくのです。  995年4月、定子の父道隆が亡くなると周囲は一変します。右大臣の藤原道兼が関白に昇進し、その後任に満を持して藤原道長が就任。次第に政治の実権を取っていくのです。翌年、事件がおこりました。定子の兄の藤原伊周が花山上皇に矢を放つという事件です。兄が太宰府に流されると、味方は幼い天皇一人になってしまいました。  999年11月7日、定子は第一皇子・敦康親王を産みますが、その日、藤原道長は愛娘・彰子の入内を強行、更に翌年2月25日、彰子を中宮、定子を皇后とする前代未聞の一帝二后制とします。 失意の中、定子は尼となりますが、一条天皇との絆は強く、道長の目を盗んでは稀な逢瀬は続きます。そして1000年12月、定子は第二皇子を産んだ次の日に亡くなるのです。  亡くなった後、定子が残した和歌が見つかっています。

 夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙のいろぞゆかしき
 (私が死んだ後、恋しがって流す貴方の涙の色が知りたいです・・・)

 定子が鳥辺野に土葬される際、一条天皇は次の歌を残しています。

野辺までに心ばかりは通へども我がみゆきとは知らずやあるらん
(貴方が行く鳥辺野には身体は行けないけれども、心だけは貴方を追って行っています。貴方は知らないのですか?・・・・)

 今回の訪問は二回目です。というのも前回訪れたときには、この鳥戸野陵まで辿りつくことが出来ずに諦めたので再度の挑戦でした。 前々から是非とも訪れたかった藤原定子の御陵でしたので、しみじみと階段を一歩一歩登り、御陵の前に着いたときには感無量でした。 将来の栄華が空しく消え、無念に亡くなった定子殿に冥福をお祈りいたします。(撮影:クロウ)

 

 

 

 また、ここ鳥戸野陵は醍醐天皇皇后・穏子 圓融天皇女御・尊称皇太后詮子 後朱雀天皇皇后・禎子内親王 後冷泉天皇皇后・歓子 白河天皇皇后・賢子 鳥羽天皇御母で堀河天皇女御・贈皇太后苡子の火葬塚でもあります。

長良802-856
 
 ┣国経  ┏時平871-909

   ┃        ┃┗保忠┏実頼 ━╋斉敏928-973━懐平
  ┣基経 ━╋仲平 ┃(九条殿)┗述子933-947(村上女御)

  ┃836-891 ┣忠平━╋師輔-960┳伊尹コレタタ(一条殿・謙徳公)┳懐子
 
  ┣淑子  ┃-949 ┗師尹モロタタ┣為光942-992       ┣挙賢
  ┣高子  ┃    ┣芳子   ┃ ┣誠信964-1001    ┣義孝━行成
  ┃842-910 ┃    ┃(村上妃┃  ┗斉信967-1035    ┣義懐ヨシチカ
 乙春┣陽成帝┃    ┗済時995┃  タダノブ      恵子女王 ┗成房
   ┃     ┃     ┗通任┃(堀川殿)  ┏媓子(円融中宮)   
   ┣貞保 ┃    (三条妃)┣兼通925-977╋顕光┳元子(一条帝女御)┓
   ┣敦子  ┣頼子(清和女御) ┃         ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
   ┗━━┓┣妹子(清和女御) ┃キンスエ     ┗姚子(花山帝女御)  ┃
良房804-872 ┃┣温子      ┣公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
 ┣明子  ┃┃ ┣均子内親王  ┃(母:康子内親王)           ┃
潔姫 ┣56清和┃宇多天皇    ┣兼家929-990(東三条殿)  ━━━┓   ┃

 55文徳帝  ┃        ┣安子927-964          ┃   ┃
   ┣恬子 ┗穏子885-954 盛子-943┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃   ┃
  紀静子   ┣保明親王     ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃   ┃
   淑姫   ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃   ┃
    ┣源兼明┃         ┣姫宮 ┣    源頼定     ┃   ┛
       ┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?      ┃
  60醍醐天皇885-930             ┃          ┃          ┃
    ┣源高明914-983(第十皇子)  ┣広平親王     綏子(すいし) ┃
    ┣雅子内親王(斎宮,師輔室) 祐姫                       ┃
      源周子               藤原元方┛南家の学者               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃   藤原守仁娘・(伊予守) 
┃   ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家)        ┣ 
 ┃        ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃        ┣大姫
 ┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044  ┗小姫 
 ┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 
┃   
  ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条 
 ┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王   996-1049
 ┃             ┣兼綱     ┣敦康親王    999-1018
 ┃          ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
 ┃   繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通

 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)                          
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 
┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)         
 ┃  重信┃-995          ┃延子(藤原頼宗娘)
 ┃    ┃              ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 1076-1103
 
┃    ┣ 彰子988-1074上東門院 ┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王 藤原苡子

 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子    賢子┣鳥羽
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条)┣堀河天皇
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129   
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃藤原茂子(公成娘) 
  ┃        ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
  ┃974-1004┃ ┃                ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿)      ┣章子内親王1026-1105 

 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102 
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ - 

 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                 ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院

 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63
冷泉帝
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992

コメント

待賢門院・藤原璋子 花園西陵

2007年04月05日 | 天皇・皇后陵

花園西陵 待賢門院・藤原璋子

  藤原璋子は、大納言藤原公実を父にその妻・光子を母とし、幼児の時、白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御の猶子となり、その縁で法皇の猶子ともなり、院御所で養育された。なんともいえぬ可愛さを秘めた女児で、14歳のころ法皇の愛撫を受けるようになっていた。法皇は、璋子を関白藤原忠実の一男忠通に娶らせようとしたが、法皇とのただならぬ関係を知っていた忠実と妻の師子は、この婚姻を喜ばなかった。それで、法皇は璋子を孫の鳥羽天皇の後宮にしようとした。永久5年12月入内し女御となった。鳥羽天皇15歳、璋子は17歳であった。翌年正月、璋子は皇后になり、三条西殿で立后の儀式をなした。
元永2年、璋子中宮は皇子顕仁を生んだが、明らかに顕仁は法皇の子であった。鳥羽天皇はそれを承知しており、自分の皇子顕仁を、「叔父子」と呼んでいた。新皇子を溺愛した法皇は、保安4年、顕仁親王を皇太子に立てるとともに、鳥羽天皇を退陣させ、皇太子は5歳で天皇(崇徳天皇)の位についたのである。
院御所の三条西殿では、法皇は西対、鳥羽上皇は東対、璋子中宮は寝殿を常御殿としていた。翌天治元年11月、中宮は今上天皇の生母ゆえ女院に列せられ、院号を待賢門院の称した。その後璋子女院が産んだ子は、男女合わせて6人であったが、誰が法皇の子で、誰が鳥羽上皇の子である判らなかった。それ故、大治4年(1129)7月法皇の崩御によって、璋子女院の生活は暗転したのであった。鳥羽上皇との仲は悪くはなかったが、藤原得子(のちの美福門院)が上皇のもとに入待したころから、璋子に寄せる愛は薄れていき、璋子は双ヶ丘の東麓に法金剛院を建立し、そこで暮らすことが多くなったのである。法金剛院は、双ヶ丘の東麓・三ノ丘の五位山を背にして南面して建立され、広い敷地内には大きな苑池を設け、西に阿弥陀堂、東に女院御所がつくられ、のちに北斗堂・三重塔・経蔵・九体阿弥陀堂などが建立された。女院はここで落飾し、まもなく没したのである。(撮影:クロウ)

 

コメント

第96代後醍醐天皇塔尾陵

2007年03月27日 | 天皇・皇后陵

第96代後醍醐天皇塔尾陵

 鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、1336年に京都を確保すると上皇を奉じて入京する。 尊氏は武家政権の構築に着手するが、後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗しており、8月の豊仁親王(光明天皇)即位は三種の神祇を欠いたままで行われた。 同年11月には講和が成立し、後醍醐は神器を足利方に渡して譲位し、光明天皇が即位。 同年末、北朝は『建武式目』を発布して武家政権の成立を宣言するが、後醍醐は京都を脱出して吉野に逃れ、北朝方に渡した神器は贋物であると宣言し、吉野朝廷を成立させて対抗する。 

 足利政権内部の紛争から観応の擾乱が起こると、1351年に北朝は南朝との和睦を行い、神器も南朝方に返されて北朝はいったん解体される。 翌正平7年、南朝は京都と鎌倉への侵攻と光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王の拉致を行い、一統は破棄される。 京都を奪還した足利義詮は北朝再建を試みるものの上皇の不在により治天を定めることができず、三種の神器も南朝方に渡っていた。 足利政権では古代の継体天皇の先例を持ち出し、光厳生母の広義門院を治天とし、8月に三種の神器のないまま光厳皇子の弥仁親王の践祚を行い、後光厳天皇として即位させる。三上皇はその後、北朝へ返還された。 1392年、南朝の後亀山天皇との和睦が成立し、神器は返還され南北朝合体が実現する。 

奈良吉野山の如意輪寺近くにある後醍醐天皇陵には孫・長慶天皇の皇子・世泰親王も眠っています。(撮影:クロウ)

 

 

コメント

持明寺統・深草北陵

2007年03月25日 | 天皇・皇后陵

持明寺統・深草北陵

 持明寺統の第89代後深草天皇から後陽成天皇までの12天皇が祀られ、南北朝時代の第3代崇光天皇の第1皇子・栄仁親王の墓が、ここ京都市伏見区深草坊町の深草北陵にあります。 持明院統という名称は、藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発するとうことです。  基頼の孫持明院基家の娘・陳子は守貞親王(太上天皇・後高倉院)の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となります。 そして、後堀河天皇は譲位後、持明院邸内に居住し、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院邸内に住んだことにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と云うようになります。

 院政を敷いた後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟亀山天皇の子孫(大覚寺統)が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草と亀山の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承し、院政を行うよう裁定されます。 大覚寺統の後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊。 吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、足利尊氏は持明院統(北朝)の光明天皇を擁立。 後醍醐は自己の正統性を主張し(南朝)、南北朝時代となる。  一般的に現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫と言われているが、持明院統嫡流とされる後光厳院流は後小松天皇の子である称光天皇の代で断絶しており、厳密に言えば持明院統の分家である伏見宮家が現在の皇室の直接の祖先にあたります。

京都市伏見区深草坊町の深草北陵(撮影:クロウ)

 

 

┏伏見宮貞成親王(後崇光院) 勧修寺(藤原)房子 花山院(藤原)兼子 
┃ ┣性恵女王           ┣応善女王 ┣大慈光院宮
┃ ┣102後花園天皇(彦仁)1419-1471 ┣仁尊法親王┣知円女王    
┃ ┣めここ皇女┣103後土御門天皇(成仁フサヒト)1442-1500
┃ ┣理延  ┣嘉楽門院藤原信子┣104後柏原天皇1464-1526 
┃ ┣貞常 大炊御門信宗    ┣尊敦親王 ┣覚鎮女王
┃ ┣王女            皇太后源朝子 ┣105後奈良天皇(知仁)1497-1557
┃ ┣王女                 ┣清彦親王 ┣106正親町天皇(方仁) ┓
┃ ┣雲岳聖朝            豊楽門院藤原藤子 
┣永寿女王       ┃
┃庭田(源)幸子                   万里小路(藤原)栄子
      ┃ 
┃  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃  ┣誠仁親王(陽光太上天皇)  
┃  ┃  ┣107後陽成天皇(和仁)        
┃  ┃藤原晴子      ┣108後水尾天皇(政仁)1596-1680
┃藤原(万里小路)房子  近衛前子(中和門院)
┃ 
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 
                      三条治子(西御方)       ┃
              足利尊氏        ┣治仁王(伏見宮2代目)  ┃
               ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王(伏見宮3代目) ┛
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王     藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )   三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 )    ┣6後小松天皇
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇)┣宗純親王1394-1481
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王       宮人
 ┏89後深草天皇 胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317      藤原仲子
 ┃ 藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃         藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                    藤原立子(東一条院)    ┃
                         修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇      ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181        ┣84順徳天皇         ┃

         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239    平棟子      ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王   ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    ┃

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃

 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                   不明 
 ┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)         ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-             阿野廉子  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王     ┃
            ┃      ┣邦省親王     ┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
     藤原忠子 ┣懽子内親王       ┃┃┣護良親王1308-1335         
     西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
         ┣西園寺禧子(礼成門院)   ┃┣尊良親王
         ┣左大臣公衡        ┃┣宗良親王  
         ┣太政大臣兼季       ┃二条為子
         ┣西園寺金章子   藤原実俊┣世良親王
         ┗西園寺瑛子       ┃┣静尊法親王
                      ┗遊義院一条局

コメント