岡宮天皇真弓丘陵
持統天皇が寵愛した草壁皇子が死後岡宮天皇に追尊されたのを初めて知りました。ここ岡宮天皇陵は飛鳥の南西すぐのところにあり、その昔スサノオノミコト神社の本殿があったそうです。(撮影:クロウ)
661年、斉明大王(天智、天武の母)は一族を率いて筑紫へ向かっていた。 身篭っていた大田皇女は大伯海で大海人皇子の子・大伯皇女を産んだ。 翌年、妹の讃良皇女は筑紫で草壁皇子を、翌翌年には大田皇女が大津で大津皇子を産んだ。 中大兄皇子は兵力の増員のために備中へ立ち寄り、伊予の熟田津から道後温泉で斉明大王や額田王らと休養をとり、その後筑紫の大津に着いた。 母斉明大王はかなり弱っていたため、道後温泉で休養をとったのであるが、甲斐なく筑紫で68歳の生涯を閉じたのである。 本来、我が国では大王が喪に服しているときには戦は禁忌である。 しかし、唐は百済のみならず高句麗をも滅ぼし、新羅を属国として我が国を支配下に置こうとしている。 唐軍と新羅軍を相手にした戦を中断するわけにはいかなかった。 母・斉明大王に続いて664年に間人皇后も亡くなった。中大兄皇子と逢えなくなったことが妹の胸を痛めたに違いない。 667年には娘の大田皇女が若くしてなくなった。 大海人皇子は大田皇女を寵愛していただけに悲哀の翳りは隠し切れなかった。
病状が悪化した天武天皇が亡くなったのは翌年の686年で大津皇子が斎王の大伯皇女を伊勢まで訪れ帰ってきた直後である。皇后は草壁皇子が即位するまでの間自分が政治を執る旨を告げた。兵政官の長となった大嶋は500人の兵を引き連れて宮の警護に当たっていた。皇后の警護体制はいかにも大津皇子が謀反を企てているかのようである。 そして天武天皇の葬儀の時に謀反を企てたとして大津皇子は憐れな最後を遂げたのである。草壁皇子は天武天皇の後を継いで王位につくこともできたが、なにしろ大津皇子に心を寄せていた人たちからの反感をかうのが皇后にとっては怖かったし、草壁皇子は政務につけるほどの体力がなかったため、しばらく鸕野讃良皇后が政務を執ることとなった。
奈良県高取町には草壁皇子墓であるといわれる古墳が二つあり、束明神古墳がそのひとつです。 岡宮天皇陵の北側を進むと春日神社があり、その境内にあります。 (束明神の「束」は草壁皇子の歌から取られているらしい)
女色夫古娘 泊瀬部皇女 姪娘(蘇我倉山田石川麻呂・娘)
┃ ┃ ┣ 御名部皇女
┣ 川島皇子657-691 ┣ 阿閉皇女(43代元明天皇)661-722
天智天皇(中大兄皇子) 626-671 ┃
┣*1 ┣大友皇子39代弘文天皇648- ┣氷高皇女(44代元正天皇)
┣*2 宅子娘 ┃ ┣━━━━━━━吉備皇女683-729
遠智娘 額田王 ┣葛野王669-705┃ 宮子682-754 ┃
宍戸臣大麻呂 ┣━十市皇女652-678 ┓ ┃ ┣首皇子(聖武天皇)701-756┃
┣ 泊瀬部女 ┃*1大田皇女-667 ┃ ┣軽皇子(42代文武天皇)683-707┃
┣ 忍壁皇子656-705┃┣ 大津皇子662-689 ┃ ┃ ┣高円朝臣広成701- ┃
┣ 磯城皇子 ┃┣ 大伯皇女661-701斎王┃ ┃ ┣高円朝臣広世 ┃
40代 天武天皇 631-686 ┃ ┃石川朝臣刀子娘 ┃
┣ 長皇子 ┃ ┃┃ ┣ 草壁皇子662-689 ┃ ┛ ┏━━━━━━━━━━━━┛
┣弓削皇子┃ ┃┃ *2持統天皇41代645-703 ┃ ┣膳夫王-729
大江皇女 ┃ ┃┃ ┃ ┣葛木王
氷上娘 ┃┣━━ 高市皇子654-696┛ ┣鉤取王
┃胸形君徳善女尼子娘┣ 長屋王676-729
┃ ┣河内女王┣安宿王(奈良麻呂乱で流罪高階真人)
┃天智天皇┓ ┣ 鈴鹿王 ┣山背王-763
┃ 御名部皇女(元明天皇・姉)658┣黄文王
┣ 新田部皇子-735 長娥子(不比等娘,宮子妹)
五百重娘 ┣ 塩焼王-764
(鎌足娘) ┗ 道祖王-757(ふなど)聖武後皇太子(朝廷機密漏洩事件)