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第97代後村上天皇陵

2007年05月12日 | 天皇・皇后陵

第97代後村上天皇檜尾陵

 後村上天皇陵は河内・富田林市にある観心寺内にあります。 伝承では、700年頃、開創され、雲心寺と称されたとする。 その後、808、815年に空海がこの地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。 観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵であるという。

 後村上天皇は南朝第二の天皇で、後醍醐天皇の第7皇子。 母は阿野廉子(新待賢門院) 。 元弘討幕の後、新政府の策に従って北畠親房親子に擁せられ陸奥多賀城府へ赴き足利尊氏の叛乱により西上、叡山にいる父天皇のもとで元服し、再び多賀城にもどるが北軍に攻撃され霊山に移った。 1337年吉野にはいり、皇太子となった後、父の崩御後に即位した。 一時南北朝が統一され、北朝の崇光天皇が廃立されたことにより全日本の天皇となったが、南軍が京都・鎌倉の同時奪回に失敗すると、光厳・光明・崇光の北朝3上皇と廃太子直仁親王を賀名生に連れ去り、京都を回復した幕府は崇光の弟・弥仁親王を後光厳天皇として即位させた。 勢力を回復した南朝は金剛寺を行宮に、また河内観心寺、摂津住吉まで北上して崩御した。

 後村上天皇には藤原勝子との間に第一皇子寛成親王(後の長慶天皇)、第二皇子熙成親王(後の後亀山天皇) の他に第五皇子で後亀山の皇太弟・泰成親王がおり、南北朝統一後の足利義満との対面でも知られている。  また、女御・源顕子との間に第一皇女:憲子内親王(新宣陽門院)がいる。

 

 

観心寺内の天皇陵へ参拝する時には200円の参拝料は不要です。(撮影:クロウ)

 

 

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北朝第1代光厳天皇陵

2007年05月07日 | 天皇・皇后陵

北朝第1代光厳天皇山国陵

 光厳天皇山国陵と後花園天皇後山国陵は京都市内から車で約1時間北へ向かった山国の、『常照皇寺』というほとんど人の訪れそうもない寺内にあります。 今回は京都の嵐山→保津峡→清和天皇陵を経由して行ったのですが、常照皇寺は山国地域を代表する寺院なのです。(撮影:クロウ)

 

 

 常照皇寺の正式名称は『大雄名山万寿常照皇禅寺』と言い『臨済宗天龍寺派』に属する禅寺だそうです。寺院によると創建されたのは、南北朝時代、北朝側の光厳天皇が、この山深き里に草庵を結ばれたのが『常照皇寺』の始まりで、天皇没後、光厳の菩提を弔うため、光厳を開山として禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたといいます。 その後、戦国時代には、明智光秀が周山城建設の為、木材を集めを目的に周辺の社寺を取り壊し、それ以降衰退の道を辿り荒廃していきます。 江戸時代に入ると、後水尾天皇・徳川秀忠、からの援助を受け復興され、明治時代には、皇族寺として保護され復活していきます。

 

 開山とされている光厳天皇は、南北朝時代を生き抜いた天皇です。 父・第93代後伏見天皇と母・西園寺寧子(広義門院)の第一皇子で、後醍醐天皇の皇太子にたてられた。 後醍醐天皇の笠置出奔により三種の神器なしで即位します(北朝初の天皇)が、隠岐に流されていた後醍醐天皇が京都に戻り鎌倉幕府を倒すと、光厳は、討幕側に捕らえられて1333年廃位となります。 その後1336年に足利尊氏に請われて執政上皇に擁立され、後醍醐討伐の院宣を発し、弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけると、自らは院政を敷いた。院政は15年に及び、1351年には治世は後村上天皇(後醍醐天皇の第7皇子)に移った。 この時に弟・光明上皇、嫡子・崇光上皇、廃太子・直仁親王とともに拉致された。 そして出家後、南軍に幽閉されること5年、1357年に帰京を許され、嵯峨小倉に隠凄した。1362年には巡礼のたびに出、法隆寺、高野山を経て吉野に入り、かつて自らを拘禁した後村上天皇に対面し、種々懐述したという。晩年には山国の常照寺に隠凄し52歳で崩御。 

 

 

第102代後花園天皇後山国陵

 さて、光厳天皇とともに、ここ山国に祭られている御方に後花園天皇がいます。 後花園天皇は、伏見宮第三代・後崇光院(貞成親王)の第一皇子で母は源幸子(敷政門院)である。 第101代称光天皇の病状が悪化すると、次期将軍足利義教の支持で後小松院の仙洞御所に移り、称光天皇が崩御すると即位した。

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第39代弘文天皇陵

2007年05月06日 | 天皇・皇后陵

第39代弘文天皇長等前山陵

 第39代弘文天皇長等前山陵は琵琶湖の湖西・大津市にあります。 このあたりは皇子山駅、皇子山公園などから大友皇子に縁のある土地柄であることがよくわかります。 京阪石山坂本線の別所駅の西隣に市役所があり、その裏に御陵はひっそりと佇んでいます。(撮影:クロウ)  

 中大兄皇子に仕える采女(うねめ:地方豪族の娘で側近の雑用係)である伊賀宅子娘が皇子・大友皇子を出産します。 身分の低い采女が出産した皇子では,継嗣が許されないが、後にこの皇子が,古代最大の内乱である壬申の乱で,大海人皇子を迎え撃つ総大将になるのである。

 658年中大兄皇子の皇子である健皇子が他界します。皇子は生まれながらに言葉を発することが無く,斉名天皇がそれをいたく歎き、同母姉の大田皇女,讃良皇女が健皇子の面倒をみていました。 大王は健皇子の亡骸を抱き締めて泣き叫び、その隣で泣き伏す姉達・・・。 十歳の大友皇子には特別な光景でした。 健皇子を失ってからめっきり衰弱した斉明天皇に中大兄皇子が紀国の牟婁の湯に行くことを勧め、10月15日,大王家をあげて紀国牟婁の湯への行幸がおこなわれます。

 壬申の乱の前夜、静かにたたずむ十市皇女の後姿に,大友皇子は疑念を拭いきれずにいた。 十市皇女の母・額田王は大海人皇子をこよなく愛しました。 十市皇女には、大友皇子に対して愛などはありません。十市皇女の瞳には高市皇子しか映っていなかった。 十市が大海人様に内通したならば,この大津宮の情勢がすべて大海人様に聞こえ漏れてしまう・・・。  大友皇子は十市皇女を愛していました。そして大友皇子は,大王になったばかりの父の権力を利用し,強引に十市皇女を妃としたのです。  

 大友皇子は背を向けた十市皇女にいいます。「十市・・俺はお前を愛している。大海人様に内通することだけはしないでくれ。」 皇子の言葉に皇女は、「そんなに信用がないのでしたら,離縁するなり,殺すなり,してください。」、と言った。 十市皇女の目に大粒の涙があふれていた。「父上様・・・,早く私をここから連れ出してください・・・」

 翌日、壬申の乱で大海人皇子は勝利し、大友皇子は自殺します。

 

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第56代清和天皇陵

2007年05月04日 | 天皇・皇后陵

第56代清和天皇水尾山陵

 京都・嵯峨野の北の端には嵯峨陵及び水尾山陵への参道との道標があります。 嵯峨野から3km先の嵯峨陵には嵯峨天皇の皇后・藤原嘉智子が眠り、さらに7kmほど北へ進むと水尾山陵といって、嵯峨天皇の孫・文徳天皇の第四皇子・清和天皇が眠る陵があります。 (撮影:クロウ)

 

 嵯峨野から清滝、嘉智子皇后嵯峨陵を抜けると保津川下りで有名な保津峡谷に突き当たります。 また、このあたりはハイキングコースにもなっているようです。 多くのハイカーに出会いました。 なんとか車がすれ違える程度の道を保津川沿いに進み、嵯峨野線保津峡駅から真北へ50号線を進み水尾の集落まで辿りつくと清和天皇陵はもうすぐです。

 

 見逃してしまいそうな陵への道標をたよりに、参道を目指します。 さすがにここまで来ると、他の陵とは違って手入れの行き届きようがない感じです。 体力的にも限界を感じながら県道から外れて参道を歩くこと30分、やっと清和天皇陵に辿りつきました。 

 

 

 

 文徳天皇は第1皇子の惟喬親王(紀名虎娘・静子との子)を立太子を希望いていたが、藤原良房(北家・冬嗣の二男)の娘・明子との間に惟仁親王が誕生すると僅か8ヶ月で皇太子とした。そして9歳で即位したのが清和天皇である。 藤原良房は右大臣となり左大臣・源常とともに政権を握っていた。 866年大極殿の応天門が全焼するという応天門の変により、左大臣・源信、右大臣・藤原良相(北家・冬嗣の五男)を退け、良房ひとり権力を誇ることとなる。 さらに清和天皇はかつて在原業平と浮き名を流した藤原高子(冬嗣の嫡男・藤原長良の娘で基経とは兄妹)を女御にむかい入れ、高子との間に生まれた貞明親王(後の陽成天皇)を3ヶ月で皇太子に立てた。

                伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807   
伊勢継子┣ 在原行平818-893
    
┣ 伊予親王      ┃   ┣ 在原業平825-880
      
┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣
 ┃           ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇830-887 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)

(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘

  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子  藤原温子 菅原衍子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子 源貞子 
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┣ 簡子内親王-914       ┃
           ┃  ┃┣ 綏子内親王-925    藤原褒子(時平娘 元良親王と恋愛) 
            ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
  
         ┃  ┃               藤原長良802-856┣-
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
          ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
          ┣正子内親王┃
小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
          橘嘉智子      ┃紀名虎娘・静子
良房┓在原行平娘┃  ┃┃
                         ┃ ┣
紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
                    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)
清和天皇850-881┣元良親王890-943
                        ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 
                  藤原順子(冬嗣・娘)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?

                            伴氏娘 ┗源厳子

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第83代土御門天皇陵

2007年05月03日 | 天皇・皇后陵

第83代土御門天皇金原陵

 土御門天皇金原陵は長岡京市、長岡天満宮のすぐ西の住宅地の端にあります。 土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子で、母は内大臣・源通親の養女承明門院・在子。 在子は後鳥羽天皇の乳母・藤原範子と平清盛の妻・時子の異父弟・法印能円との間に生まれた。 実父が平家の都落ちに同行したため、母が通親と再婚し、その養女となったものである。  中宮には大炊御門(藤原)麗子、皇妃には土御門(源)通子がおり、春子女王、覚子内親王、仁助法親王、静仁法親王、邦仁王(後の後嵯峨天皇)、秀子女王をもうけた。 1198年、後鳥羽天皇の譲位により4歳で即位するが、事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。 しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、1210年退位を迫り、弟の順徳天皇に譲位した。 1221年の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、自ら申し出て土佐に流され、後に阿波に移された。 1231年に出家し、崩御する。 鎌倉幕府は後鳥羽、順徳と違って阿波の守護に御所を造営させるなどして厚遇している。 また、土御門天皇には19人の皇子、皇女がいたが、多くは仏門にはいった。 しかし、通子との間の邦仁王だけは仏門にはいらず、のちに後嵯峨天皇となった。

 後鳥羽天皇には3人の皇子がいたが、譲位の時に誰を皇太子にするかを占いで決めたために、 歌人の藤原定家は日記「明月記」のなかで、このような占いが軽率に行われたことを非難している。

                                藤原立子(東一条院)
                    修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    ┣84順徳天皇(守成親王) 麗子1185-1243
         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239      ┣-  平棟子           
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇(為仁親王)┣宗尊親王    
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇(邦仁王)1220-1272
       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃ 源通子-1221┃┣89後深草天皇
       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃      ┃┣90亀山天皇
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子 
         ┃ ┃持明院基家┛                          ┃            
         ┃藤原殖子(七条院)               ┣宗尊親王    

          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       
       徳子1155-1214(建礼門院)

 

 

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第53代淳和天皇陵

2007年05月02日 | 天皇・皇后陵

第53代淳和天皇大原野西嶺陵

 第53代淳和天皇陵は小塩山の山頂にあります。 (京都・洛西に位置する大原野を眼下にそびえる標高642mの山) 淳和天皇陵はこの山頂にしばしばこ訪れ狩りを楽しんだといわれています。 小塩山の麓には花の寺といわれる勝持寺があり、ここから頂上へ険しい参道が続きます。 また東側には頂上まで続くと思われる県道があるのですが、300mほど行ったところで通行止めとなっていました。 なにやら不法投棄を防止するための通行止めのようで、陵へは山頂まで約5kmの参道でいくしかありません。 (撮影:クロウ)

 

 大伴親王は桓武天皇 第三子で母は藤原旅子(藤原百川の娘)。 皇后には正子内親王(嵯峨-嘉智子 皇女)、高志内親王(桓武-乙牟漏 皇女)がいる。 また妃には緒継女王、永原氏、橘氏子、大中臣安子、大野鷹子、橘船子、丹波池子、清原春子がおり、皇子女には恒世親王、恒貞親王、基貞親王、恒統親王、良貞親王、氏子内親王、有子内親王、貞子内親王、寛子内親王、崇子内親王、同子内親王、明子内親王、忠子  など多数もうけている。 皇后の正子内親王にとって淳和帝は叔父にあたり(父嵯峨帝の弟)が、贈皇后の高志内親王と淳和帝は、父(桓武天皇)を同じくする異母兄妹であり、平城天皇、嵯峨天皇の実の妹である。 皇太子には嵯峨上皇の第二皇子、正良親王(後の仁明天皇)を立て、833年に正良親王に譲位した。 840年に55歳で死去し、物集女村で淳和天皇の火葬が行われたと『日本紀略』にはある。

大原野の西山山麓、向日市物集女町にある「淳和天皇火葬塚」と伝えられる空堀をめぐらせた方墳

 

 高志内親王は809年に21歳で恒世親王と二人の皇女を残してなくなったが、この年に正子内親王が生まれた。 淳和天皇のもとに入ったのは即位直後で、正子内親王が皇后となったのは827年、28歳のときである。 淳和天皇の皇太子は正子内親王の弟・正良親王(後の仁明天皇)であり、嵯峨と嘉智子の思惑とおり姉弟の皇后と皇太子ができあがった。 淳和天皇の譲位により仁明天皇が即位したが、このとき皇子の道康親王ではなく、高志内親王の皇子・恒貞親王を皇太子とした。 自分が皇太子になったときの経緯に習ってお返ししたのである。 こうした皇位継承の美談も束の間、840年淳和天皇が崩御、正子内親王は落髪する。 そして嵯峨太上天皇が崩御すると承和の変 (淳和上皇の子・恒貞親王を廃して仁明天皇と良房の妹・順子の皇子・道康親王を立太子させようとした良房の陰謀)が勃発した。 これにより 東宮恒貞親王は廃された。 正子内親王は母・嘉智子がこの変に大きく関わっていたことを知り、号泣したという。 

 道康親王が即位して文徳天皇になった4年後に嘉智子が崩じ、正子内親王が太皇太后となり母にかわって後宮の頂点にたつ。 正子太皇太后は容姿端麗で心優しく、京中の弧児を集めて乳母を用意し、嵯峨の大覚寺に済寺院という僧尼のための医療施設を置いたという。

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第31代用明天皇陵

2007年04月28日 | 天皇・皇后陵

第31代用明天皇河内磯長陵

 第31代用明天皇陵は推古天皇・竹田皇子陵(磯長山田陵)のすぐ東にあります。 用明天皇は父・欽明天皇、母・蘇我堅塩媛(稲目娘)の第四皇子で、豊御食炊屋姫、桜井皇子、磐隈皇女(伊勢斎宮)、臘嘴鳥皇子(足取王)、椀子皇子(麻呂古王)、大宅皇女、石上部皇子(伊美賀古王)、山背皇子(山代王)、大伴皇女、肩野皇女(麻奴王)、橘本稚皇子、舎人皇女(当麻皇子の妃)とは同母兄弟になります。 異母兄妹の穴穂部間人皇女、蘇我稲目の娘・石寸名、葛城直磐村の娘・広子を妃とし、穴穂部間人皇女との間には厩戸皇子、来目皇子をもうけ、石寸名との間には田目皇子を、また広子との間には麻呂子皇子(当麻皇子: 当麻公・当麻真人の祖)、酢香手姫皇女(伊勢斎宮)をもうけた。

 用明天皇は即位の2年後で蘇我氏と物部氏の対立が激化した頃になくなり、存在感はあまりないが仏教を初めて受け入れた天皇として特筆され、厩戸皇子に受け継がれていくのである。 

 用明元年に密かに皇位を狙っていた異母弟の穴穂部皇子(穴穂部間人皇女とは同母兄弟)が豊御食炊屋姫に言い寄ったが敏達天皇の寵臣・三輪君逆(豊御食炊屋姫と通じていた)に妨げられた。 穴穂部皇子は物部守屋を遣わして三輪君逆を殺害すると、物部氏と対立する蘇我馬子は、穴穂部皇子を討ち、同じく物部と通じていた宅部皇子も殺害した。 尚、用明は仏教に帰依していたために廃仏派の物部氏に暗殺されたという説もある。

 (撮影:クロウ)

 

 

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第33代推古天皇陵

2007年04月28日 | 天皇・皇后陵

第33代推古天皇磯長山田陵

 敏達天皇陵のすぐ東に第33代推古天皇磯長山田陵はあります。 推古天皇は最初の女帝として、後の律令国家形成の意味でも重要転換点に位置します。 蘇我馬子により崇峻天皇が殺害された後をうけて敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫が推古天皇として即位した。 父は欽明天皇、母は堅塩姫(石川渡来系豪族)で豊浦宮で即位し、小墾田宮に移るまでここを正宮とした。小墾田宮一体は蘇我氏、物部氏が開発を進めた地域で王家の小墾田屯倉、蘇我稲目の小墾田家があった。 推古朝の政治は厩戸皇子と蘇我馬子が共同で積極的に進め、個人の登用を目的に創設された冠位十二階は厩戸皇子の功績とされているが、日本書紀には推古天皇の業績と記されている。宗教面では厩戸皇子と蘇我馬子に仏教の興隆を命じて飛鳥寺には鞍作鳥の作の仏像がある。 620年には厩戸皇子・蘇我馬子が日本最古の歴史書・天皇記、国記を残している。

 推古天皇は敏達天皇との間に竹田皇子(母の寵愛を受けるが病弱であった)、菟道貝鮹皇女(厩戸皇子の妻)のほか鸕鶿守皇女、小墾田皇女(押坂彦人皇子の妃)、田眼皇女(舒明天皇妃)、尾張皇子(厩戸皇子の妃・橘大郎女の父)をもうけている。  

推古天皇と寵愛した竹田皇子が眠る(撮影:クロウ)

 

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第30代敏達天皇陵

2007年04月26日 | 天皇・皇后陵

第30代敏達天皇河内磯長中尾陵

 敏達天皇陵は羽曳野市太子町、南阪奈道路の太子インターを降りてすぐ南にあります。 この地域一帯には奈良時代初期の天皇陵(推古天皇磯長山田陵、用明天皇河内磯長陵、孝徳天皇大阪磯長陵など)がひしめきあっています。 敏達天皇は欽明天皇と石姫皇后(宣化天皇の皇女)との間に生まれ、用明天皇(聖徳太子の父)とは異母兄弟にあたります。  敏達天皇には4人もしくわ6人の皇后がいたとされているが、古事記、日本書紀で一致するのは炊屋姫(後の33代推古天皇)、息長真手王(継体天皇にも娘か妹の麻組郎女を入れているらしい)の娘・広姫、伊勢大鹿首小熊の娘で采女・菟名子夫人である。 

 炊屋姫との間には、竹田皇子(推古天皇磯長山田陵に眠る)や菟道貝鮹皇女(厩戸皇子の妃)をもうけ、広姫(最初の皇后とみられるが立后後すぐに死亡)との間には押坂彦人皇子(糠手姫皇女との間に舒明天皇がうまれる)が、小熊子女との間には糠手姫皇女をもうけています。 敏達天皇の叔父・用明と叔母・穴穂部間人皇女が結婚し、異母兄弟の押坂彦人皇子と糠手姫皇女が結婚するなど、権威の分散を防ぐために多くの近親結婚が行われていた時期がこの頃なのです。

 敏達天皇の時代は物部氏が勢力を広げていましたが、崩御16年後の587年に物部氏【大連大伴守屋】と蘇我氏【蘇我馬子を総帥とし、東漢直駒(やまとのあやあたいごま)を長とする東漢氏、膳臣加多夫古(かしわでのおみかたぶこ) 、大伴連囓(くい) 、阿倍臣人、葛城臣烏那羅(かうらぎのおみおなら)、巨勢臣比良夫(こせのおみひらぶ)、紀男麻呂(きのおみのおまろ)などの豪族出身者の連合軍】が竜田川の西南の大和川で戦い、敗れた物部は衰退していったのです。

 緩やかな坂道参道を登ると御陵はあります。また欽明天皇皇后の石姫(宣化天皇の皇女)皇女磯長原陵もここにあります。 (撮影:クロウ)

 

 

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃息長真手王 ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 
┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 
┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛

 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686
 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┣長皇子-715
 
 
┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
 
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹)  
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707 
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武) 
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正) 
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明) 
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658 
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649 
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮

   ┃  ┗ 蘇我畝傍 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
     ┗ 刀自古朗女-623

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第25代武列天皇陵

2007年04月25日 | 天皇・皇后陵

第25代武列天皇傍丘磐坏丘北陵

 顕宗天皇陵のすぐ北、西名阪自動車道の香芝インターの南隣に第25代武列天皇傍丘磐坏丘北陵はあります。 父は仁賢天皇、母は雄略天皇の娘・春日大娘皇女で、春日娘女(ワニ氏系かと思われるが出自は不明)を皇后としたが皇子女はいなかった。  仁賢天皇が崩御すると、大臣の平群真鳥は好き勝手な政治を行い、権力を誇示します。 自分の為に宮殿を作らせたり、真鳥の子・鮪(しび)は武烈が皇太子時代に娶ろうと思っていた影媛という物部麁鹿火(あらかい:大伴金村とともに大連となる)の娘と通じていたために、皇太子は臣下の大伴金村を使って鮪を誅殺し、真鳥の家を焼き払い、真鳥も殺害したという。 その後に皇太子は武烈天皇として即位し、金村は大連になる。 武烈は暴虐な振る舞いが多く、一説には雄略天皇と同一人物ではないかと云われている。 武烈天皇の代で仁徳天皇の血統は途絶え、後に継体天皇が即位すると、武烈の姉・手白香皇女を皇后とした。

          春日大娘皇女 
24代仁賢天皇449-498  ┣-
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)          
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
   ┃    ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
   ┃    ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
   ┃    ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
            ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
           ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
           ┃     ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇  
             ┃     ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
           ┃     ┃  ┗厩戸皇子 ┃     広姫(息長真手王・娘)
           ┃     ┣穴穂部皇子  ┃
           ┃     ┣宅部皇子   ┃
           ┃   小姉君(物部系)  ┃
        振姫 ┃ 橘仲皇女(顕宗天皇娘)┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┣ 神前皇女  ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┏ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┏ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┏ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃
香香有媛(紗手媛の妹)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)            宅媛(物部木蓮子大連の女)

 

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第23代顕宗・第24代仁賢天皇陵

2007年04月24日 | 天皇・皇后陵

第23代顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵

 父は市辺押磐皇子(履中天皇と黒媛の子)で母は荑媛(葛城蟻臣の娘)である。 父が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して丹波に身を隠し、後に播磨国明石に名を変えて住み、丹波小子と名乗り、縮見屯倉首(現在の三木市志染の地名に由来する)である忍海部造細目に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。 481年、播磨に派遣されていた山部連小楯が、屯倉首の新築祝いに参入していたときに、弘計王自ら歌に託して王族の身分を明かすと、子がなかった清寧天皇はこれを喜んで、翌年宮中に迎え入れると兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。 このとき小楯はもともと伊予来目部の姓であったが功労として山部連の姓を賜った。 同年清寧が崩御した後、兄皇太子は身分を明かした大功を理由として弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、これを拒否したため、皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した(初の女帝とする説もある)。 結果、兄の説得に折れ、弘計が皇位に就いた。 罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、兄に咎められ衆を愛する政治を執ったと伝えられる。 

                                                                                  春日大娘皇女
           宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
葛城高額媛       ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
   ┣神功皇后170-269 ┣菟道稚郎子     ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)450-487
1414代仲哀天皇┃             ┣ 市辺押磐皇子-456   ┣-
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子     難波小野王
 ┣ 忍熊皇子 仲姫命┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫       ┃   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
  品陀真若王┛   ┣ 18代反正天皇336-410
  
              ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┣  磐之媛命      ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
 
 
          ┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
 
         ┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
   
         ┃   ┣ 大草香皇子 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
 
          ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
         ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇418-479
  ┣葛城襲津彦-347┃      ┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃      ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 
┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子  ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃ ┗毛媛  ┃        ┣葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰
  ┣黒媛    ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┣葛城蟻臣  ┏忍坂大中姫      
                   ┣荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

 

第24代仁賢天皇埴生坂本陵

 

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第36代孝徳天皇陵

2007年04月23日 | 天皇・皇后陵

第36代孝徳天皇大阪磯長陵

 羽曳野市太子町に集中している天皇陵のうち一番東にあるのが孝徳天皇大阪磯長陵である。 昔ながらの住宅地から緩やかな細い道を入っていくと参道があり、ほんの数分上っていくと御陵がある。(撮影:クロウ)

 軽皇子は敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の皇子で茅渟王の長男。 母は吉備姫王といい、皇極天皇(斉明天皇)の同母弟で、天智天皇(中大兄皇子)の叔父にあたる。 皇極天皇の娘の間人皇女を皇后にした。 阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。 また、蘇我石川麻呂の娘・乳娘を妃とした。 645年、乙巳の変が起きると、皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとしたが、中大兄は辞退して軽皇子を推薦し、孝徳天皇として即位する。 

 古人大兄皇子は飛鳥寺で髪をそり、袈裟をまとい、屋形に引き篭もった。 左大臣には阿部臣内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂がなり、大化という新しい時代が始まるのである。 このとき遠智娘は次女の鸕野讃良皇女を産んだ。 そして翌日には吉備笠臣垂が石川麻呂に古人大兄皇子の謀反を告げた。 古人大兄皇子は袈裟を纏った身であるので、謀反は陰謀に違いないが、古人大兄皇子は妻子とともに首を吊って自殺した。  大化二年、難波宮建設が始まった頃、叔父の孝徳大王は、石川麻呂の娘・乳娘を妃としているところを見ると、阿部臣内麻呂だけではなく、石川麻呂も側近に取り込もうとしたようである。 なにしろ石川麻呂には財源があった。 入鹿を倒した後の蘇我本宗家への収入の多くが石川麻呂へ流れたと考えると、石川麻呂を取り込んで、贅沢三昧な難波宮の建設財源の確保を考えたようである。 

 

 

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第37代斉明天皇陵

2007年04月22日 | 天皇・皇后陵

第37代斉明天皇越智山岡上陵

 岡宮天皇陵の西へ1kmほどのところに斉明天皇陵があります。 茅渟王(押坂彦人皇子の子)と吉備姫王との間に生まれた宝皇女は田村皇子(後の舒明天皇)と結ばれ、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)を産み、舒明天皇崩御後に、皇極天皇として即位します。 一時、弟の軽皇子に皇位を譲り、孝徳天皇が誕生しますが、再度、斉明天皇として即位します。 この陵には、斉明天皇の他、孝徳天皇の皇后・間人皇女と、皇極天皇の晩年の皇子・建王が眠っています。 間人皇女は中大兄皇子とは兄妹にあたりますが、一時二人は愛し合い不義の関係になっています。 母・皇極は二人の関係を咎め、切り離す目的もあって、間人皇女を弟・軽皇子の妃とします。 また建王は皇極天皇と蘇我入鹿との間に生まれた子である説があり、中大兄皇子が鎌足と共謀して起こした乙巳の変の前に、中大兄皇子の手にかかって殺害されています。 

 

 

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┣ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇蘇我稲目-579?          ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃ ┣ 菟道貝鮹皇女573-599大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃ ┣ 鸕鶿守皇女  574-    ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686
 ┃ ┃ ┣ 竹田皇子571-       ┃       ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓                       
 ┃ ┃ ┃ ┗志紀皇女(馬子娘)  ┃          ┃ 額田王631-        ┃┃       
 ┃ ┃ ┣ 小墾田皇女   ━━┓ ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃     
 ┃ ┃ ┃       息長真手王 ┃ ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃                     
 ┃ ┃ ┣田眼皇女┗広姫    ┃ ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛                      
 ┃ ┃ ┣尾張皇子  ┣押坂彦人皇子        ┃ 宅子娘┗葛野王669-705┃┃   
 ┃ ┃ ┗━━━━┓┃        ┃     ┃                      ┃┃                       
 
┃ ┃広子     ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃                       
 ┃ ┃ ┣麻呂子 ┃┃┣ 太姫  ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子 622-    ┃┃                       
 
┃ ┃ ┣酢香手姫┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃        
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃   ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃ ┗田目皇子┃┃┃        ┃      ┃                           ┃        
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃     ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃        ┣ 来目皇子578-                      ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃        ┣ 殖栗皇子┏━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585   ┣ 茨田皇子┣ 大田皇女644-667       
 ┃ ┃ ┃     ┣難波皇子  ┃      ┃  ┣ 大伯皇女661-701  
 ┃29欽明天皇509-571┗春日皇子  ┣ 厩戸皇子┃ ┣ 大津皇子662-686
   
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621   ━━┛     ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子 -587               ┃  ┃ ┣ 高市皇子654-696
 ┃ ┣宅部皇子 -587           ┃  ┣ 草壁皇子662-689

 ┃ ┣泊瀬部皇子558-(32代崇峻天皇)     ┃  ┃ ┣ 吉備皇女683-707
  
 ┃ ┃ 河上娘        ┣錦代皇女   ┃  ┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃ ┃    ┏大伴連糠手━小手子      ┃  ┃阿閉皇女661-721(43元明)
 ┗ 小姉君 ┗大伴連囓               ┗ 41持統天皇645-703
 

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第34代舒明天皇陵

2007年04月21日 | 天皇・皇后陵

第34代舒明天皇押坂内陵

 舒明天皇(田村皇子)の正妻は宝皇女(後の皇極天皇)で、中大兄皇子が嫡男として生まれ、同腹の弟に4歳年下の大海人皇子がいる。 中大兄皇子が15歳のときに父・舒明天皇が亡くなり、このときに次期大王の候補と考えられていた一人が、4歳年上の異腹の兄・古人大兄皇子である。 古人大兄皇子の母は蘇我馬子の娘・法提郎女であるので、正妻・宝皇女が認めるはずがない。 しかし蘇我蝦夷、蘇我入鹿の後ろ盾があるのでその力は強い。またもう一人は聖徳太子と後にいわれた厩戸皇太子の息子の山背大兄王である。 山背大兄王には叔父の境部臣摩理勢がついていたが、異母弟の泊瀬王とともに蘇我蝦夷に廃されたために田村皇子が舒明天皇として即位した。蝦夷が田村皇子を推したのは、皇子が法提郎女との間にもうけた古人大兄皇子を次の天皇に期待したからである。  舒明天皇の宮殿は飛鳥岡本宮(630年~)で、皇極天皇の時代には飛鳥板葺宮(643年~)、天武・持統天皇の時代には飛鳥浄御原宮(672年~)へと変遷した。因みに今の舒明天皇陵の近くに、田村皇子の宮である忍坂宮があり、宮の警備隊長を勤めたのが物部守屋討伐で功績のあった迹見赤檮である。

 舒明天皇の母は敏達天皇の皇女・糠手姫皇女で押坂彦人皇子の妻でもあり、ここ押坂内陵に眠っています。糠手姫皇女はまたの名を田村皇女、宝王ともいい、田村皇子は母の名からきている。また舒明の正妻・宝皇女も宝王かえあ継承された可能性がある。 舒明の皇后・宝皇女は最初、用明天皇の孫・高向王と結婚し漢皇子をもうけているが、彼らのことは不明である。その後、叔父である田村皇子と結婚したとき既に30歳を超えていた。 そのとき田村皇子は既に法提郎女を妃とし、また敏達天皇と炊屋姫との子・田眼皇女(詳細は不明で早くに亡くなったと思われる)や、蚊屋采女らもいれていた。

 舒明天皇陵の近くに大伴皇女(欽明天皇と堅塩姫の皇女で、敏達天皇とは異母兄妹)、鏡女王(額田王の姉で後に鎌足の妻になっている)の墓もあったようなのですが当日は知る由もなく、残念でありました。 この御陵の近くには天王山古墳、茶臼山古墳があったのですが、次の予定地に直行のため次回に訪れたいと思います。   

 

 

                       阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王 ┗ 小足媛624-
蘇蘇我稲目-579          ┃   ┣ 軽大郎女  ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃ 
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃ ┣ 菟道貝鮹皇女573-599大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃ ┣ 鸕鶿守皇女  574-    ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686
 ┃ ┃ ┣ 竹田皇子571-       ┃       ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓
     
 
┃ ┃ ┃  ┗志紀皇女(馬子娘) ┃          ┃ 額田王631-        ┃┃     
 ┃ ┃ ┣ 小墾田皇女   ━━┓ ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃  
 ┃ ┃ ┃       息長真手王 ┃ ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃                 
 ┃ ┃ ┣田眼皇女┗広姫    ┃ ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛                 
 ┃ ┃ ┣尾張皇子  ┣押坂彦人皇子575-    ┃ 宅子娘┗葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃ ┗━━━━┓┃        ┃     ┃                      ┃┃ 
 
┃ ┃広子     ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃  
 ┃ ┃ ┣麻呂子 ┃┃┣ 太姫  ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃ 
 
┃ ┃ ┣酢香手姫┃┃┣ 糠手姫皇女-664法提郎女 (馬子娘) ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃   ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃ ┗田目皇子┃┃┃        ┃      ┃                           ┃
 ┃ ┃宣化天皇   ┃┃┃     ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃        ┣ 来目皇子578-                      ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃        ┣ 殖栗皇子┏━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585   ┣ 茨田皇子┣ 大田皇女644-667  
 ┃ ┃ ┃     ┣難波皇子  ┃      ┃  ┣ 大伯皇女661-701
 ┃29欽明天皇509-571┗春日皇子  ┣ 厩戸皇子┃ ┣ 大津皇子662-686
   
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621   ━━┛     ┃  ┃
 ┃ ┣穴穂部皇子 -587               ┃  ┃
 ┃ ┣宅部皇子 -587           ┃  ┃ 尼子娘(胸形君徳善娘)
 ┃ ┣泊瀬部皇子558-(32代崇峻天皇)     ┃  ┃ ┣ 高市皇子654-696
 ┣ 小姉君                 ┃天武天皇631-686

 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)         ┃  ┣ 草壁皇子662-689
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂               ┃ ┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃         ┣ 蘇我倉山田石川麻呂       ┃ ┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)                              ┃         ┃ 蘇我日向   ━━┃━┓     ┃ ┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 
  ┃         ┗ 蘇我赤兄      ┃  ┃孝徳妃 ┃  ┃ 阿閉皇女661-721(43元明) 
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626   ┣  乳姫    ┣ 41持統天皇645-703   
      ┣ 蘇我蝦夷587-645     ┣  蘇我遠智娘-649
         
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645┗  姪娘
 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
     ┗ 刀自古朗女-623
       ┣ 山背大兄王595-643
 
       厩戸皇子574-622

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崇道天皇陵

2007年04月19日 | 天皇・皇后陵

崇道天皇八嶋(早良親王)陵

 奈良公園の真南、188号線沿いに不遇の人生を送った早良親王の御陵があります。 早良親王といえば、桓武天皇とは約一回り違いの同母弟で桓武の策略により皇太子を廃され、身の潔白を唱えながら淡路へ配流の途中で憤死します。 そして、怨霊の祟りにより桓武天皇妃が次々と亡くなるのです。(系図赤字) 

 早良親王は光仁天皇の第二皇子で母は高野新笠。 能登内親王・桓武天皇の同母弟で、死後崇道天皇と尊称された。 761年、11歳のとき出家し、770年、21歳のとき登壇受戒時に父・白壁王が即位した。 781年、兄・山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられ、藤原田麻呂が東宮傳、大伴家持が春宮大夫となる。 785年、長岡京造営工事を検分中の藤原種継が賊に弓で射られ翌日死亡するという事件が起こり、取り調べの結果、大伴家持、大伴継人、林稲麻呂らによる皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。 親王は乙訓寺に幽閉され、抗議の断食をし、10日余り後、船で淡路に移送の途中、憤死し、淡路に埋葬される。 792年、安殿親王の病が早良親王の怨霊の祟りとされ、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めが行われる。延暦18年、賀美能親王元服の時、再び早良親王の魂を鎮め、。800年、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称した。 

 桓武天皇は種継事件を利用して思いを叶えた。 つまり皇太子であった早良親王を廃し、安殿親王を皇太子としたのである。 しかし、これにより身に降りかかる不吉な出来事を受けることになる。 寵姫・旅子が大伴親王を産んだばかりというのに30歳の若さで亡くなったのである。 旅子は百川の娘であるだけにここまで自分を持ち上げてくれた百川に申し訳がなかった。 翌年、蝦夷征伐を目指していた大部隊は大敗を喫した。 そして桓武天皇の実母で皇后夫人の高野新笠が病死し、宮廷では女官の死が相次いでいたのである。 命婦・藤原教貴、大原室子などである。 翌年、皇后・乙牟漏が31歳の若さで亡くなると、后の坂上又子(坂上田村麻呂、登子と兄妹)もなくなった。  この頃から、桓武天皇は悪霊・怨霊に怯えるようになる。 井上皇后、他部親王、早良親王の・・・・。 そしていよいよ皇太子・安殿親王の体調も崩しはじめていた。 桓武天皇はやむなく、早良親王の怨霊鎮めを最初に行った。 しかしその配慮を無視するかのように伊勢神宮を焼いたのである。 桓武は皇太子・安殿に伊勢参宮を命じたが、安殿親王は桓武の処置に納得がいかずに、互いの溝に亀裂が入り始める。(撮影:クロウ)

  

蘇我娼子娘  
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737
 
  ┃   ┣ 豊成  704-765 
 
  ┃   ┣ 乙麻呂
 
 ┃   ┃   ┗是公(これきみ)
 
 
┃  ┃     ┣ 吉子   軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主

  ┃  ┃     ┣ 真友   ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
 
 ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
 
 ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807  
   ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃   
 ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃
乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫                ┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王

  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王 774-824 ( 51平城天皇 ) 

  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保 
  
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃ -789 ┃┃┃桓武 ┣業良親王    ┣正子   藤子

  ┃  ┃  ┏又子-790  ┃ ┃   ┃┃┃┣高津内親王  橘清友┣54仁明810-850 
 
 ┃  ┃  ┣坂上田村麻呂┃ ┃   ┃┃┃坂上又子-790   ┣橘嘉智子┣55文徳帝 
  
┃  ┃  ┗登子  ┗広野┃ ┃   ┃┃┃               ┗橘安万子順子 ┗56清和 
  
┃  ┃    ┣長岡    ┃ ┃   ┃┃┃          藤原真作┃        ┣貞数
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃ ┃   ┃┃┃種継           ┣三守         ┣女
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃ ┃   ┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子     ┏文子
 
┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃ ┃   ┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
┣在原行平
  ┃          永継 ┣長良┃ ┣ 山部王 ( 50代桓武天皇 ) 737-806    ┣在原業平

  ┃             ┣良房┃ ┃     ┃┣良峯安世785-830    ┣ 伊都内親王801-
 
 ┃             ┗順子┃ ┃     ┃永継
 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃ ┃百川 ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃ ┃ ┣旅子759-788

  ┃   ┃         ┃ ┃諸姉-786  
  
┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃ ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)

  ┃   ┃  ┃         ┃ ┣ 能登内親王733-781
 
 
┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)
 
 
 ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775

 
 ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮)

  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣

 
 ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇

  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王

  ┃長岡造 ┗ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反
 
 
 ┃          ┗ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王    大伴家持
 
  ┃
五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744 

  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛

藤原不比等 659-720

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