第45代聖武天皇佐保山南陵 皇后・光明子佐保山東陵
奈良、聖武天皇陵は興福寺の北、正倉院の西にあります。 奈良・大和王朝期の天皇陵に比べると、規模は小さく前方後円墳ではありません。 ここ佐保山には光明皇后の陵も隣接しております。 光明皇后は 756年に太上天皇となっていた夫の聖武天皇が亡くなった2年後には「天平応真仁正皇太后」と皇太后号が贈られ、「天平應眞仁正皇后佐保山東陵」と書かれています。
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子と文武帝との間に生まれた生粋の藤原一族である。しかも不比等と橘三千代との子・安宿姫(後の光明皇后)を正妃に持ち揺るぎ無い藤原氏の一員である。 729年、政敵・長屋王(高市皇子の子で天武の孫)を滅ぼし一族の繁栄を謳歌していたが、737年天然痘が蔓延し藤原四兄弟が揃って死亡したところから、藤原氏に代わって橘諸兄が台頭し左大臣まで登りつめた。 東大寺発願が四兄弟死亡の6年後であり、反藤原氏の意図であったことは重要な意味を持つ。 東大寺の隣には藤原の氏寺・興福寺があるが、これへの挑戦のようでもある。 藤原氏の傀儡でもあった天皇が、藤原権力と戦う意図があったようにも思えるのである。
藤原氏の祖ともいえる鎌足の意思を受け継いだ藤原不比等は持統天皇の息子・草壁皇子、その息子・軽皇子(後の文武天皇)、その息子・首皇子と関わり、天皇系を牛耳ることにより藤原氏の権力を固めていった。 平城京遷都の710年には大和朝廷の実権をほぼ手中にした。 時の天皇は不比等の傀儡の元明天皇(持統天皇の妹・阿閉皇女)である。720年に不比等が死ぬと、息子の武智麻呂、房前が独裁政権を執るが、この時立ちはだかったのが高市皇子の息子・長屋王で、右大臣になっていた。首皇子即位をまじかに控えて、首皇子の母・宮子の尊称問題(大夫人)で意義を申し立てた長屋王に面子を潰された藤原一族は、呪詛の疑いで長屋王を自殺に追い込んだ。 祝杯を挙げたのも束の間、737年に疫病で藤原四兄弟が死ぬと、橘諸兄は僧玄坊、吉備真備とともに藤原氏を蹴落としていく。 このときに起きたのが藤原広嗣(宇合の子)の叛乱である。広嗣は処刑され、不比等の諸領土は全て朝廷に返上となった。 橘諸兄は県犬養宿三千代と美努王の子で、彼にとって不比等は母を寝取られた宿敵である。 ここに藤原氏への復讐が達成されたとも思えるのである。(744年頃) そして橘諸兄に傾注する聖武天皇は度重なる流浪遷都、東大寺の建立を繰り広げる。
藤原不比等の娘・光明子は仲麻呂とともに藤原政権を立て直したが、結果、夫・聖武天皇を裏切ったことになる。 見事に裏で聖武天皇を操った光明子は高僧・玄坊との醜聞、権力の女という一面のほか、悲田院・施薬院を創設し貧困の人々を救ったという一面もある。 これは懺悔の表れであり、法隆寺の夢殿を作ったとされる光明子の祖先の懺悔の表れと同じかもしれない。 藤原の祖・鎌足や不比等の陰謀を見、長屋王の変の祟りで藤原四兄弟が亡くなり、安積親王の変死が聖武天皇に影響されるかもしれないと怯えた光明子が、貧困の民衆を救おうとした懺悔はある意味当然のことであると思われる。
光明子は正倉院に直筆の「楽穀論」を残しているが、その書体は男勝りで強烈な個性を持っているというが、通称法華寺(法華滅罪寺)を考えると本質が伺える。 法華寺は藤原不比等の館を光明子が寺にしたもので、平城京の拠点ともいえるこの場所を滅罪の場所に選んだ。 光明子の受難と悔悟は藤原四兄弟の滅亡に端を発している。 4兄弟の死は平城京を震撼させたが、それは長屋王の祟りであり、藤原武智麻呂にも祟りの被害が及んだというから、滅罪寺の建立のきっかけとなったはずである。 こうして反藤原派の女人となっていった。 原因は藤原四兄弟の死だけではなく、 聖武天皇の母・宮子が大きく影響している。 宮子は聖武天皇を産むと、藤原不比等の邸に幽閉され親子は37年間会えなかった。 不比等のやり方に疑問を持った光明子は、僧・玄坊と宮子を自分の邸に呼び、宮子が憂鬱の呪縛から解けた。 光明子は姉の宮子の悲運を見るにつけ、また藤原に操られた聖武天皇を思うにつけて、自ら藤原の娘であることから開放され、夫と姉の真の幸福を願った結果が宮子事件であった。
この時俄かに暗躍していたのが藤原武智麻呂の子・仲麻呂である。聖武天皇の唯一の皇子安積親王が若くして急死したのは仲麻呂の毒殺とも言われている。 長屋王の祟りを怯えるかのように不可解な行動をとる朝廷側に対して非難材料に事欠かなかった仲麻呂に対して、聖武天皇は阿部内親王に譲位するという自分の非を認めるかのような行動にでたのが749年である。 この後仲麻呂の兄・豊成が右大臣となり、仲麻呂とともに、橘諸兄を包囲し徐々に追い詰めていくのである。 755年には諸兄の子・奈良麻呂が朝廷に反旗を翻し、そして聖武天皇が崩御する直前の756年、諸兄は左大臣の職を投げ出し敗北した。
聖武天皇が王位を譲り、娘の孝謙天皇が即位すると、光明子は藤原仲麻呂に利用されていく。 藤原仲麻呂は光明皇太后の紫微中台という立場を利用して私的な政治を行うのである。 756年の聖武天皇の崩御後、遺愛の宝物が正倉院に納められると天皇御印が仲麻呂の手に渡り、翌年橘諸兄死去、奈良麻呂の叛乱、大炊王の即位と進み、 仲麻呂は頂点を極めたのであるが、 奈良麻呂の叛乱では430人もの死刑・流罪者を出し、諸豪族の恨みは仲麻呂に集中することになる。 また、藤原一族からも仲麻呂の突出に反感を買うこととなり、ついには孤立していくのである。
参道を進むと左側には聖武天皇陵へ、右側には光明皇后陵へと分かれています。(撮影:クロウ)
聖武天皇陵 光明皇后陵
┏ 蘇我娼子娘-693
┣ 安麻呂 ┣ 武智麻呂(南家)680-737
┃ ┗ 仲麻呂706-764 後に恵美押勝
┣ 房前 (北家)681-737元正の内臣
┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737
┃ ┣ 広嗣 諸兄に対乱 白壁王709-781光仁天皇
┃ ┣ 良継 白壁王支持 ┣ 他部親王
┏許米━大嶋 ┃ ┗ 百川 道鏡追放 県犬養広刀自 ┣ 酒下内親王
┏□ 金(反大海) ┃ ┣ 井上内親王717-775
┣□□意美麻呂 ┃五百重669-695(天武夫人) ┣ 安積親王728-744
┃舒明┓ ┃┣ 麻呂 (京家)695-737 ┃
┃ 鏡女王 ┃┃ 文武天皇683-707 ┃
┃ ┣氷上娘 ┃┃ 賀茂比売 ┣ 首皇子(45代聖武724)701-756
┃ ┣五百重 ┃┃ ┣ 藤原宮子682-754┛ ┣ 基皇太子727-728
┗□ 鎌子614-669┃┃ ┣ 長娥子694-(長屋王妾) ┣ 阿部内親王46代孝謙718-770
┣ 藤原不比等659-720 ┃
┣ 定恵644-667 ┣━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
與志古娘 ┃
県犬養(橘)三千代668-733
┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用)
┃ ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757
美努王