第十一代垂仁天皇 菅原伏見東陵
垂仁天皇陵は平城宮後のすぐ西、安康天皇陵のすぐ東にあり、濠に囲まれた立派な前方後円墳でした。
活目入彦五十狭茅尊(後の垂仁)には兄・豊城入彦命がいた。 父崇神天皇は弟の器量を認め(といっても、二人が見た夢の内容で占ったという)、 活目入彦五十狭茅尊が垂仁天皇として即位し、兄・豊城入彦命が皇太子となった。 垂仁天皇は狭穂姫命を皇后として三輪山の纒向に都を置いた。
垂仁は崇神天皇(御間城入彦)同様に天神地祀を怠らず、天照大神を倭姫命(日葉酢媛命との間にうまれた)に託し鎮座する場所を探させた。 倭姫命は諸国をめぐって伊勢に辿りつき五十鈴川のほとりに祠をたてた。これが伊勢神宮の起こりである。 また垂仁は殉死の禁止を行った。奈良市・佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の一つ日葉酢媛命陵に、垂仁天皇(崇神天皇の第三皇子)の皇后である日葉酢媛命が眠っている。 日葉酢媛命陵は、かつては神功皇后陵にあてられたこともあり、野見宿禰(のみのすくね)の献策で人身御供にかえて埴輪を初めて立てたという『日本書紀』の説話でも有名。 橿原市鳥見町にある枡山古墳に眠る倭彦命(垂仁の兄弟)が亡くなった時、従者を殉死させたので生き埋めになった人たちの泣き叫ぶ声が何日も続いた。それが哀れなので、次に日葉酢媛命が亡くなった時に野見宿禰の建言によって人を殉死させる代わりに埴輪を立てた。 その為に出雲の国から100人の土師部を呼んで埴輪を作らせたという。
丹波道主王の娘・日葉酢媛命には、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ) 、 薊瓊入媛(あざみにいりひめ)という妹がおり、いずれも垂仁天皇の妃となっている。 実はこの4姉妹の他にも妹がいたが不細工であったため里に返され、その途中で身投げ自殺をしたという。 また日葉酢媛命を皇后に迎える前に、狭穂姫という皇后がいたが死なれている。 垂仁は狭穂姫を愛していたが、狭穂姫の兄・狭穂彦が王位を狙って謀反をおこし、狭穂姫は兄の稲城にはいってしまった。 稲城が垂仁により焼かれる前に、皇后親子を助けようとしたが、あえなく狭穂兄妹は焼死する。 焼死する直前に生まれた子の本牟智和気御子だけは助け出されたが30歳になっても喋ることができなかったという。 本牟智和気御子は狭穂姫が火中から生まれたために付けられた名前であるが、そのときの逸話は哀しい物語として、日本書紀、古事記の両方に記載されている。 (撮影:クロウ)
大物主神(蛇) 尾張大海媛
第七代孝霊天皇 ┣ ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与かも) ┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
┣ 吉備津彦 ┣ 開化天皇 ┃ ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
┣ 稚武彦命 孝元天皇 ┣ 崇神天皇(御間城入彦) (みまきいり彦)
倭国香媛 ┃ 伊香色謎命 ┃ ┣ 豊城入彦命
┃ ┃ ┣ 垂仁天皇━┓(いくめいり彦)
┃ x 御間城媛 ┣ ┃
┣ 武埴安彦命 ━┛ ┏迦具夜比売┃
埴安媛 ┣ 大筒木垂根王 ┃
吾田媛(隼人族) ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┃ 肥長姫(蛇) 葛城高額姫
┃狭穂姫命┃ ┣ 神功皇后
┃ ┣ 誉津別 播磨稲日太郎姫 -122 垂仁天皇 ┃
11代垂仁天皇-69-70┣ 櫛角別王(くしつのわけのみこ) ┣両道入姫命 ┣ 15代応神天皇
┣ 五十瓊敷入彦┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代仲哀天皇
┃ イニシキイリヒコ ┣ 小碓尊 (おうすのみこと) 日本武尊 ┣麛坂王
┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 ┣忍熊皇子
┣ 倭姫命 ┣ 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと13代成務天皇)大中姫
┣日葉酢媛命 ┣ 神櫛皇子(かむくしのみこ)讃岐国造の祖
┣渟葉田瓊入媛 ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖
┣真砥野媛 ┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮
┣薊瓊入媛 ┣ 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖
丹波道主王 ┣ □
10代崇神天皇 ┣ □
┣ 八坂入彦命 ┣ □
御間城姫 ┣ 八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)