こんな本を読みました

気ままで偏りのある読書忘備録。冒頭の文章は、読んだ本からの引用です。

『教科書に載った小説』(佐藤雅彦編)

2018-04-25 | そのた
覚書として。
中学や高校の教科書に載った小説や物語から、編者が心ひかれた12編を抜粋。
どれもほどよい短さのなかに、人生とか感傷とか皮肉とかが凝縮されていて
作家の個性がバーンと伝わる。読み応えがあった!
できるだけ作家名を伏せて読むようにしたのだけど、これが面白かった。
心に残った作品のひとつ『少年の夏』が吉村昭だったことを知り驚いた。
やっぱり達者な人は達者なんだな〜(あたりまえ)。
残念ながら、私が学んだ頃の教科書のものはなかったのが残念。
・・・といっても、教科書で読んだ小説って『城の崎にて』くらいしか
ぱっと思い出せないけど。あと、小学校時代のあまんきみこ先生。

『細雪』(谷崎潤一郎)

2018-04-14 | 近代小説
「そのお婆ちゃんの日本語いうたらなあ、この間もうちに『あなた
キノドクでごぜえます』云うねんけど、発音がけったいで早口やさ
かい、『あなたクニドコでごぜえます』と聞こえるねんわ。そんで、
うち、『わたし大阪です』云うてしもてん」


 少なくとも、タイトルを知らない人はいない谷崎センセの代表作のひとつ。何より、その映像化による浸透
効果もあるだろう。「日本における『よきもの』はことごとく不可逆的な滅びのプロセスのうちにある。だか
ら私たちの最優先の仕事はそれを哀惜することである」と語られたとおり、半世紀以上を隔てた今ではほぼ見
ることのできない美しき日本人のありようが、文字だけでなく映像に残されていることはありがたい。小説中、
登場人物たちが当たり前に持ち合わせている教養・・・普通に和楽器をさらい舞をたしなみ歌を詠み美しい手
紙をしたためる光景には、その都度感嘆せずにおれない。
 ・・・て、かなり小説の文体に引っ張られてるか、今!?(いや及ばんどころかかすりもしていないけど)
ちょっと前に見たドラマ「平成細雪」(残念ながら原作の格調はほとんど失われていたにしても、人間はよく
描かれていて好感)がきっかけで、数十年ぶりに再読したこの本。少女時代には理解しようもなかった大人た
ちの心の機微が思った以上にリアル。しかも完璧なこてこて関西弁。こればっかりは、時代を超えてもあるあ
るということが多く、「ほんま、この人らおもしろいわあ」と身近に感じられたのである。共感できるかでき
ないかは別として。
 で、映像化しても尺の関係でカットだわな、と思うのが(少なくとも観た三作にはちらりとも出てこなかっ
た)二女幸子邸のお隣のシュトルツ一家、四女妙子の弟子のキリレンコ一家との交流。そのカルチャーギャッ
プもおかしく、したたかな立ち回りを見せる妙子が実はひょうきんで物真似上手というのも、小説を読んでの
拾い物であった。これだけ生き生きと人々が描けるのは、モデルありきとはいえやはり文豪ならではの観察眼
と再現力ゆえなんだろうな。会話がとにかく楽しかった。
 食べ物であれ景色であれ、季節ごとに「どこそこのなんとか」を愛でるのは関西人のブランド好きゆえ?お
かげで今年の京都の桜は、ことのほかありがたく拝見できた気がする。

『赤ひげ診療譚』(山本周五郎)/『ゆうじょこう』(村田喜代子)

2018-04-14 | 現代小説
またまた放置してしまいました〜っ!

この2か月、写真を撮ることもせず返してしまった本も多々。
この2冊なんか、図書館のフロアで返却前に慌てて撮ったという・・・。

いつか読みたいと思っていた山本周五郎氏の有名作。
実は映像も子どもの時に見たかな?くらいで、よく知らず。
ただ、赤貧の名医の心温まる交流をイメージしていたのだが
ちょっと思っていたのと違った。
赤ひげ先生はなかなか粗暴であり、話も淡々と進む。
下手に甘くなく、淡々とした骨太の物語であった。

村田喜代子さんは信頼厚い現代作家の一人だが
この物語も「遊女」の世界を体験する少女の厳しい現実はあったが
その強さ、頑なさゆえに、よくあるお涙頂戴に走らず
しかも小気味好いラストが待っていた。

以上、覚書として。


『シュレディンガーの哲学する猫』(竹内薫+竹内さなみ)

2018-03-23 | ルポ・エッセイ
喰わず嫌いで数式を恐れる人は、宇宙を記述するアインシュタイン方程式の
一編の詩としての美しさに一生、接することがない。


 ただただ、「猫」というワードのみをよすがに、(入門書とはいえ)苦手意識の高い哲学ジャンル。
生意気な「シュレ猫」に翻弄されつつ、古今東西の哲学者の持論をめぐるストーリー部分は楽しかったが、
肝心の哲学パーツに入ると案の定、頭に入らない〜何度も戻っては読み返し、解釈に努めるもわかったよう
なわからんような・・・思索の迷宮に置いてけぼり気分〜哲学無理〜!と思っているところに、真の教養人
であった小林秀雄の章にて「理系と文系のバランス」という筆者の所感に打ちのめされた。曰く、理系文系
の片方しか「見えない」、偏った理解しか持ち合わせないことがいかにもったいないか。筆者は「頭の固さ」
を指摘する。で、「柔軟性を欠いた知性は、もはや、知性の名に値しないであろう」と一刀両断。あ〜自分
はバカだと自覚していたけど、そういうことだよな、と核心を突かれて地味にショック。…と、この本の主
題とはまったく違うところに反応しているのであった。
 主題ハズレついでにもうひとつ。非常に感銘を受けたのが大森荘蔵氏の実在論。「過去の想起」について
の持論のなかで、彼はこう語る。長いけど、そのまま引用の引用。

死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りで
あると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。その友人は今は生きて
は存在しない。しかし、生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の
眼や肌で直に「知覚する」ことはできないが、私は彼を直に「思い出す」のである。そのとき、彼の影の
ような「写し」とか「痕跡」とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのであ
る。「彼の思い出」がかろうじて今残されているのではなく、「思い出」の中に以下彼自身が居るのであ
る。(『流れとよどみ』「記憶について」より)

 ちょうどこれを読む前の夜、亡友が生き生きと夢に出てくるという体験をして動揺を引きずっていたから
余計に心わしづかまれ。泣けた。

 それにしても、「我思う。ゆえに我あり」を超えるシンプルでわかりやすい言葉はないなあ。



2月に読んだ本

2018-03-23 | そのた
またやっちまった〜ごぶさたしてごめんなさい。
2月もいろいろ読んではいたのに、感想書く気分になれず。
いや、もう「引っかかりのないものは書かない」とスタンスを決めたのだけど
このブログには
自分が読んだことを忘れてまた同じ本を手にする無駄を避けるための
覚書としての機能も求めていたのだった。

しかし、それもあとになって「あーやっぱり読んでた」と確認するための
検索用になったりしてるしな。

ちなみに前回更新からは
吉村昭は脱獄囚の生涯を描いた『破獄』、
江戸時代にロシアに漂着した人々のお話『大黒屋光太夫』
久々の時代小説、朝井まかでの『すかたん』

箸休めに猫小品集『我輩も猫である』荻原浩『神様からひと言』
あとはちょろちょろと仕事の資料系。

吉村昭はやはり読み応えありで、しばらく小説世界をひきずってしまう。
朝井まかでさんは、ほっこりした。
『我輩も〜』は錚々たる現代作家が名を連ねていたけれど
「猫にこんなことさせたらあかん」とか「この飼い方はどうなのか」とか
いらんことをいっぱい思ってしまって話に集中できなかった。
結論・猫関連の小説には要注意。