こんな本を読みました

気ままで偏りのある読書忘備録。冒頭の文章は、読んだ本からの引用です。

『シュレディンガーの哲学する猫』(竹内薫+竹内さなみ)

2018-03-23 | ルポ・エッセイ
喰わず嫌いで数式を恐れる人は、宇宙を記述するアインシュタイン方程式の
一編の詩としての美しさに一生、接することがない。


 ただただ、「猫」というワードのみをよすがに、(入門書とはいえ)苦手意識の高い哲学ジャンル。
生意気な「シュレ猫」に翻弄されつつ、古今東西の哲学者の持論をめぐるストーリー部分は楽しかったが、
肝心の哲学パーツに入ると案の定、頭に入らない〜何度も戻っては読み返し、解釈に努めるもわかったよう
なわからんような・・・思索の迷宮に置いてけぼり気分〜哲学無理〜!と思っているところに、真の教養人
であった小林秀雄の章にて「理系と文系のバランス」という筆者の所感に打ちのめされた。曰く、理系文系
の片方しか「見えない」、偏った理解しか持ち合わせないことがいかにもったいないか。筆者は「頭の固さ」
を指摘する。で、「柔軟性を欠いた知性は、もはや、知性の名に値しないであろう」と一刀両断。あ〜自分
はバカだと自覚していたけど、そういうことだよな、と核心を突かれて地味にショック。…と、この本の主
題とはまったく違うところに反応しているのであった。
 主題ハズレついでにもうひとつ。非常に感銘を受けたのが大森荘蔵氏の実在論。「過去の想起」について
の持論のなかで、彼はこう語る。長いけど、そのまま引用の引用。

死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りで
あると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。その友人は今は生きて
は存在しない。しかし、生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の
眼や肌で直に「知覚する」ことはできないが、私は彼を直に「思い出す」のである。そのとき、彼の影の
ような「写し」とか「痕跡」とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのであ
る。「彼の思い出」がかろうじて今残されているのではなく、「思い出」の中に以下彼自身が居るのであ
る。(『流れとよどみ』「記憶について」より)

 ちょうどこれを読む前の夜、亡友が生き生きと夢に出てくるという体験をして動揺を引きずっていたから
余計に心わしづかまれ。泣けた。

 それにしても、「我思う。ゆえに我あり」を超えるシンプルでわかりやすい言葉はないなあ。



2月に読んだ本

2018-03-23 | そのた
またやっちまった〜ごぶさたしてごめんなさい。
2月もいろいろ読んではいたのに、感想書く気分になれず。
いや、もう「引っかかりのないものは書かない」とスタンスを決めたのだけど
このブログには
自分が読んだことを忘れてまた同じ本を手にする無駄を避けるための
覚書としての機能も求めていたのだった。

しかし、それもあとになって「あーやっぱり読んでた」と確認するための
検索用になったりしてるしな。

ちなみに前回更新からは
吉村昭は脱獄囚の生涯を描いた『破獄』、
江戸時代にロシアに漂着した人々のお話『大黒屋光太夫』
久々の時代小説、朝井まかでの『すかたん』

箸休めに猫小品集『我輩も猫である』荻原浩『神様からひと言』
あとはちょろちょろと仕事の資料系。

吉村昭はやはり読み応えありで、しばらく小説世界をひきずってしまう。
朝井まかでさんは、ほっこりした。
『我輩も〜』は錚々たる現代作家が名を連ねていたけれど
「猫にこんなことさせたらあかん」とか「この飼い方はどうなのか」とか
いらんことをいっぱい思ってしまって話に集中できなかった。
結論・猫関連の小説には要注意。