
アメリカは『個人主義(Individualism)』の国です。個人主義とは、国家などの権威に対して個人の権利と自由を尊重することを主張し、また国家などの共同体の根拠を個人におき、その尊厳および権利と義務の発生原理を説く考え方。平たく言えば、「わたしはワタシ、ぼくはボク」を"みんないっしょに"実現できる社会を創ることに価値をおくという考え方です。
アメリカの個人主義が強固なのは、子どもの日常生活にも、小さなときから、それこそ生まれた時から「わたしはワタシ、ぼくはボク」が徹底されているからだと思います。
アメリカでは、家庭の中だけでなく、学校でも、子どもたちはファーストネーム(First Name)で呼ばれます。名字(Family NameまたはLast Name)が自分のというより自分の"家族"の名前であるのに対し、ファーストネームはまさに自分自身の名前。子ども同士は初対面でもお互いをファーストネームで呼ぶことで互いの距離を乗り越え、すぐに打ち解けます。(ブログ記事:『たかが呼び名、されど呼び名』)
同じ名前の子がクラスに二人以上いるときは、それぞれを区別するために、ファーストネームの下に名字の頭文字をつけて呼ばれます。そんなときでも、先生はそれぞれの子どもの名前を呼び間違えたりすることはなく、しかも、それぞれの子どもの個性をできるだけ際立たせるような演出を考えてくれます。(ブログ記事:『ここにもマシュー、そこにもマシュー』)
だから学校にはふつう制服がありません。「周囲の人に不快感を与えない」という程度の服装規定で、それぞれの責任においてかなり自由です(ブログ記事:『スカートをはいた男の子』)。
一般に現代のアメリカでは、他の子と違って際立ってユニークな子でも、もっと言えば、ちょっと「変わり者」に見えるときでも、周囲はできるだけ力を尽くしてその子をサポートしようとします。それは、かなり小さい子どもの場合も同様。親や周囲がその子どもをサポートするかどうかの判断基準は「この子がほかの子と違っているとして、それでこの子が誰かを傷つけることになるだろうか?」ということだけ、だといいます(ブログ記事:『プリンスとプリンセス』 )。もし誰も傷つけたりしないなら、正々堂々と自分らしくあればいい!というのが子どもたちへのメッセージです。
個性がほんとうに大事にされ、子どもたちがほんとうに「わたしはワタシ、ぼくはボク」と思える時、子どもたちは自分が好きになり、ハッピーになります(ブログ記事:『わたし大好き!になる絵本』)。
でも時には、「わたしはワタシ」と信じるのがなかなかむずかしいこともあります。素敵な人気者の子がクラスにいると、ついついその子のようになりたくて、悪気はないのに、思わずその子のマネばかりしてしまって、うるさがられたり、ちょっとうとまれてしまったり……(ブログ記事:『まねて まねして まねられて』)。
でも、お互いにちがっているからこそ素敵!だからこそお互いに惹かれあい、だからこそ仲良しなんだって、だんだんわかってきます。(ブログ記事『ふたりはともだち』http://blog.goo.ne.jp/uppercase/d/20110120)だって、ふたごだってそっくり同じじゃない、ふたごだってそれぞれ個性があるんですもの(ブログ記事:『それぞれにユニーク』)。
それに……現実は、お互いにどんなに大好きでも、どんなに仲良しでも、やっぱり「わたしはワタシ、ぼくはボク」。一緒に溶け合って同じひとりになることはできません(ブログ記事:『アーティストの創った絵本』)。自分にぴったり!な相手だと思っても、いよいよほんとうに一緒になったら「わたしはワタシ、ぼくはボク」と歌うこともできなくなってしまうかも……(ブログ記事:『わたしにないもの』)。
だからアメリカ社会は、できるだけ『ひとりひとりを大切に』しようとします。ユニークな個性はコミュニティにとってジャマなものではなく、むしろ必要なものであり、お互いに個性や違いを尊重し合えることこそ大事なのだと生真面目に信じ、また社会の危機に際してはこういう個性こそが人々を危機から救うことがあるのだ……と本気で考えているからです(ブログ記事:『どこにでもいるおタッキー』、『アーティストのメタファー』)。