うな風呂

やる気のない非モテの備忘録

道化師と神―SF説序論  中島梓  う

2009年01月05日 | 栗本薫
道化師と神―SF論序説 (1983年)
中島 梓
早川書房





結論から云うと、中島梓に評論は無理。

こんだけ感想書いておいていまさらなんだが、正直、いままであんまり梓の評論をちゃんと読んだことがなかった。
つうか、そもそも梓、評論家としての仕事はすごい少ないんだよね。
デビュー作である『文学の輪郭』と、この本と、『コミュニケーション不全症候群』と、『タナトスの子供たち』だけでしょ、結局。

『文学の輪郭』は、ぶっちゃけ論じてる本をおれが読んでないから、評論として優れてるかどうかわからなかった。
『タナトスの子供たち』は、文章も内容も論外だった。
『コミュニケーション不全症候群』は、内容は変なところもあったが、語っていることが現代的で珍しかったから良かった。(でも今、とても懐疑的になっているので、あとでじっくり読み直して考え直してみる)
で、この本。

この本はタイトル通りSF評論本。
たぶん、いまの自分は、この当時の梓程度には、SFについて知っていると思う。
つまり、自分も詳しいものについて梓が論じているのを読むのは、はじめてだ。
そしてわかった。梓はあらゆる意味で、評論のできる人格じゃない。

この本は執筆された1981年当時のSF界について論じている。
SFとはなんなのか? その定義は? そしてSFにはなにが出来、どこへ行こうとしているのか? と云ったことだ。
これがいちいちトンチンカン。
梓の云っているのであろうことを自分なりに要約すると。


SFとはセンス・オブ・ワンダー
センス・オブ・ワンダーとは文字通り、異邦人感覚。
「外」の人間の視点で「内」を語ることにより「内」を再発見すること。
その際、実際に「外」の人間が書いたものはSFにはならない。
「内」の人間が、「外」の眼をもって「内」を語るのがSF意識であり、それをもってはじめてSF足りうる。

センス・オブ・ワンダーによって書かれたものを読むことにより常識は崩壊し、思考的自己改革が進む。
個々人の自己改革が進めば、世界を変革させうる。
もはや宗教も政治も世界を変革させられない。SFのみがその可能性を有している。
だからみんなでSFを読み、書き、世界を変革させよう。


端的にまとめると、こうなる。というか、おれにはこうとしか読めなかった。
うん、こういうのを電波と云うんだよね。

梓の評論のなにがいけないのかと云うと、自分の願望で論理を恣意的に曲げてしまっている。
評論の世界というのは、論理が絶対だ。
自分がいくらAだと思っていても、論理的思考の果てにBという結論が出たら、絶対に従わなくてはいけない。その結果、だれがどんなに傷つこうとも、そこを曲げては評論は成り立たない。
そして論理的思考というものは、自分を切り刻む刃となる危険を、常に秘めている。
だから、自分が傷つくことを恐れるものは、評論などをしてはいけないのだ。

この論をはじめるにあたり、梓はまず「SFとは特別であるべき」と思ってしまっている。
(ちなみにこの文が評論ならば、本文のどこがその気持ちを表しているのか提示しなくてはならないのだが、おれはあくまで勝手な感想として書いているので、そんな面倒なことはしない。おれは評論なんて絶対にしないずる賢い男としていきたい)
確かに、当時のSFは奇妙なブームのただなかにあり、歴史の浅さもあいまって不思議な状況をていしてはいた。
そしてまた、戦争体験を根底にもつがゆえに世界の破壊と再生、そのシミュレートにとりつかれたSF第一世代と、第一世代の創作物を読み、彼らの世界観・ガジェットを継承しながら、リアリズムを無邪気に排除して世界を破壊せしめるSF第二世代とが混在し、ともに『SF』でくくられていた異様な時代ではあった。

だが梓の云っているのは、そういうことではまったくない。
梓はSF作品が読者として好きだった。だから真似をしてSFっぽい作品を書いた。
SFっぽい作品を書いたから、自分はSFの人間だ。
自分が属しているから、SFは特別に違いない。いや、特別でなくてはならない。

梓の根底にあるのは、結局それだ。
自分の所属する場所を持ち上げるための論理、屁理屈にすぎない。
また、彼女にとって神々であった存在、小松左京や筒井康隆と自分を同じSFという枠でくくることによって、自己をも神格化させようという、いやらしい自己撞着に過ぎない。
自らの願望・邪心をまじえた思考は、決して論理にはなりえない。

彼女が語ろうとするのは、常に彼女がその内にいるグループだけだ。
自分が近々その内に入る予定だった文芸。
入ったつもりのSF。
自分がつくったんだから間違いなく入っているはずのやおい界。
彼女は本当に、常に自分の所属グループをしか語ろうとしない。
なにせ評論のなかで、必ず自分の作品についても言及するのだから律儀なものだ。
そして、自作を含めたそれらがどんなに特別なものであるかを熱弁する。
結局は、自分がどんなに特別であるかをしか語ろうとしないのだ。

そんな邪心のあるものが、評論となりえるものか。
彼女のSF分類には、そのよこしまな心が如実に表れている。
バロウズをSFと認め、コナン・サーガをSFと認め、なのにペリー・ローダンをSFには加えず、SF大賞を受賞した『吉里吉里人』を外部と呼ぶ。
優れた漫画家のほとんどはSFを描いていると云い、手塚作品の九割はSFで、永井豪の作品はすべてSFとのたまい、あげく『ポーの一族』や『綿の国星』までもSFに分類させる。
明らかに、梓が好きかどうかで峻別している。
好きなものと自分の作品を同じSFで一括りすることによって、彼らと自分を仲間にしたいのだ。

余談ではあるが、SF漫画の例としてやたら『デビルマン』を語るのも頭が痛かったが、ラストシーンの解釈は本当に同じ漫画を見ているのかと眼を疑った。
永井豪のテーマは「光と闇の結婚」であるとし、その例の一つとしてデビルマンのラストシーンを挙げ、こう書いている。

かぎりなく美しいラストシーン――光り輝く魔王・サタンがデビルマン不動明への愛を告白するシーンと、そこに満たされる光とを思い出して欲しい――

率直に聞きたいのだが、梓はあの光がすべてを消滅させる神々の軍勢であると、サタンとデビルマンの戦いをすべて無に帰すものだと、読み取れているのだろうか?


とにかく、論理の前提に私心があるため、前提条件から狂っている。
小松・筒井たちと自分を並べたいため、戦争体験を軸にもつSF第一世代と、戦争を知らない第二世代の間にある明確な溝を理解していない。
というか、今日にいたるまで、梓は自分が典型的なオタク世代であること、創作物ばかりを見て育ち、現実と物語世界と同列に並べる夢見がちな世代の代表的存在であることを、まったく理解していないと見える。
梓がこの本の前半でしきりと述べているSFインサイダーの特徴は、SFではなくオタク世代の特徴でしかない。

おれは梓のエッセイは好きだ。
しかし同じ方法で評論が成り立つわけもない。
評論をしたければ、まず客観的なデータを揃え、それを読者にそれを提示し、巻末には参考資料をしっかりと載せて欲しい。参考資料が存在しないようなものを、評論と呼んではいけない。

文章も無駄に一文を長くして、やたらと本のタイトルばかりを挙げて勢いで煙に巻き、カッコイイ比喩表現で説得力があるような素振りをしてはいけない。それは評論の文章じゃない。
評論はまず第一に理論・論理だ。
カッコよくても面白くても読み物として優れていても、云わんとする内容が順序だてて並んでいなければ評論とは呼べない。

考えてもみれば、結局、中島梓は評論家としてはほとんど認められていないが、それも当たり前のことだろう。おれが編集者だったら、彼女に評論家としての仕事なんて、絶対に頼まない。
梓は、自分が評論家として求められていないことに早々に気づき、その理由に想いを馳せるべきだった。

皮肉にも、彼女が自らの特別性を証明するために語った分野から、彼女は常に拒絶を味わっている。文学界・SF界・やおい界、すべてが彼女を外なるものと認識した。
小説界から完全に排除されるよりも先に彼女の命が尽きようとしているのは、あるいは小説の神様の最後の情けであるのかもしれない。



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