憂国の花束

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二人のご学友・・・ご学友と言う名の臣下

2021-07-11 23:40:23 | 皇室
上皇のご学友明石元紹 さんが週刊女性のインタビューに答えた記事がネットの話題になっている。記事に対して様々な感想が述べられているが、私は記事を読んでなんともいえない痛ましさを感じてしまった。


「ご学友」は友人なのだろうか。と。
上皇は明石氏に友情を感じていたのだろうか、明石氏は上皇に友情を持っていたのだろうか、と。
伝統的な位置づけでは、天皇以外の全ての人は天皇の臣下である。
皇族も例外ではなく、天皇以外の皇族は全員天皇の臣下という位置づけである。
現在の皇室典範でも天皇別格、あと皇族。皇族の長が皇后。という位置づけにかっての天皇以外は全員臣下。の名残がある。
生前退位後は天皇と皇后の間に上皇上皇后が割り込んで、天皇の下だが皇族の長である皇后より上ということで上皇上皇后は臣下ではないらしい。

今上、秋篠宮殿下の学友は違うのかもしれないが、明石氏が遊び相手に選ばれた幼稚園から初等科、同級生、御学友といっても対等な関係ではなかったろう。

1945年 疎開先日光御用邸の朝礼。


1946年3月学習院初等科卒業式後 記念の催し物をご覧になる上皇と学友。
終戦の翌年が初等科の卒業式。初等科の殆どを戦争下に過ごしたことになる。
上皇も明石氏も”世界平和”という言葉がすんなり出て来るのは、この体験の影響が大きいのではないだろうか。

明石氏は生前退位に関しての報道番組の中で、「初等科あたりまでは威張り腐って傲慢で、実に嫌な子供だった。」「中等科は寮だったので生意気だからと級友と一緒に時々呼び出してシメテやった。」と冗談めかして述べていたが、さもあらんというというようなところは後年まで残っていらっしゃいましたね。笑。

明石氏は上皇に対して変わらない親近感を持ち続けて来られたようですが、上皇のほうはどうだったのでしょうか。明石氏は陛下と美智子さまから特別の思し召しを受けて来たと思われているようですが、上に立つ者は下の者に対して「あなたのことは特別に思っている。」と思わせるテクニックを使うことがあるからねー。
明石氏は明石氏で刎頸の友なら外へ向かって友との間の出来事や友への個人的な思いをべらべら話さないだろうと思うのですが。
明石氏には陛下の代弁者として語るのだという自負があるようですが、その昔もう一人陛下の代弁者として有名な方がいらっしゃいました。
2017年8月に故人となられた橋本明氏です。

橋本氏は「銀ブラ事件」で上皇と行動を共にした一人でもあり、1951年スキーに出かけた蔵王でこんな写真も一緒に撮る仲でした。


皇太子 千家崇彦氏 大久保忠恒氏 橋本明氏
の位置が全く同じなのが興味深い。

一緒に写っている女性は地元の女性だそうですが、楽しそうですね。
橋本氏は前列中央。上皇が肩を組んでいる男性は千家崇彦氏。
老けて見えますが1951年といえば三人とも17,18歳です。
つるんでチョッピリ悪さする仲間に明石氏は入れて貰えなかったのか?
どうなのでしょう。学生時代、本当に親しくしていたのは明石氏ではなく、橋本氏だったのではないかと思うのですが。

千家家は高円宮典子さまの結婚で注目を浴びましたが、出雲国造出雲大社の大宮司を務める家で、もう一つの天皇家といわれるくらいの歴史を誇る。上皇と千家氏が肩を組まれるのは互いに同族めいた思いもあったのでしょうか。

共同通信社の記者になった橋本氏は精力的に陛下の代弁者を務めていて、そのころは明石氏の名が出ることは無かったように記憶しています。
いつだったか忘れてしまいましたが、ある時橋本氏が上皇の承諾を得ないで何事かを記事にし、激怒した上皇から橋本氏は出禁をくってしまった。
明石氏が代弁者として出て来るようになったのは、その後だったような。
出禁事件がいつだったか、ネットを検索してみましたがヒットしませんでした。
AERAdot2017年8月の追悼文中に「余計なことまで話してずいぶん叱られたり、疎んじられたこともあったようですが、 」とあるのは、その出来事を指していると思われるが。
橋本氏には上皇との親しさを過信するところがあったのかとも思うが、資料が無いので解らない。

上皇の代弁者としては過去の人である橋本明氏は女系派だったようだ。
上皇の最後の代弁者明石氏は「(眞子さまと小室さん)おふたりは早く結婚なさって、一般の方として暮らすのがよいと思います。 」などとおっしゃる。
どちらのご意見も私は受け入れがたい。