上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 7

2013-04-17 09:13:50 | 暗闇から生還したウチナーンチュ


これは2008年6月10日~7月8日に琉球新報で「パンドラの箱を開ける時 第10話 住民の命を救った天女─轟の壕」として掲載されたものです。

~轟の壕編~ 1

 両側に雑草の生い茂る小道を行くと、次第に辺りが暗くなる。樹木の陰が深くなり、森に入ったのか、と思うと目の前に直径四十メートルほどの巨大なスリ鉢の縦穴が道を塞ぐ。この「スリ鉢」の周囲をガジマルなどの樹木が覆い、スリ鉢の底を薄暗くし、幽気が漂う。
 人が踏みしめた跡のある急勾配の坂を下り、奈落の底に同かう。右手、つまり南の方角に大きな横穴の入り口が見えてくる。左手に進むと、人がひとり通れるほどの小さな暗い口が、ぽっかり下に向いて開いている。懐中電灯を照らして、下に降りると、底に着く。懐中電灯で穴の底を照らす。思わず、息を呑む広大な空間だ。
 東の山の手から西の海岸に向かって巨大な洞窟が走っている。暗黒の洞窟の奥に向けて、懐中電灯を向けるが、光は闇に吸収され、目と鼻の先しか見ることができない。闇はどこまでも深い。足がすくむ。
 これがカーブヤー(こうもり)ガマとか轟の壕とか呼ばれている洞窟だ。ここには沖縄戦の最終段階で千人とも千五百人とも言われる人々の恐ろしい「闇」の物語と眩しいばかりの「光」の物語が眠っている。今回はこの物謡を伝えよう。
 ─一九四五年五月二十四日夜、首里城地下の第三二軍壕の幹部室で作戦担当の八原博道高級参謀は彼が秘かに温めていた南部撤退案を牛島満司令官、長勇参謀長と全軍の指揮官に提示した。そこには海軍の沖縄方面根根拠地隊司令官大田實少将も列席していたが、一言も口をはさむことはなかった。
 八原は沖縄戦をできる限り長引かせ、敵軍に最大限の出血をさせ、大日本帝国が敵軍の日本上陸までに、十分な応戦態勢をとれるようにすぺきだ、という戦略持久戦を主張した。激しい論争が交わされたが、牛島司令官が断を下し、南部に撤退することが決められた。
 南部撤退は首里司令部壕に呼ばれていた島田知事ら民間人指導者らにも伝えられ、全軍と全民間人の大規模な撤退が始まった。
 二十五日夜明け前、大田提督は小禄の海軍壕に戻ると、小禄全体を守備していた海軍の将兵らに撤退を命令した。大田提督は真栄平の壕に退避し、そこで敵を迎え撃つことになった。連日続く雨の中、海軍兵らは重い武器、弾薬を続々、運び出していった。
 ところが、大田提督が真栄平の壕に着き、首里の司令部壕に到着を知らせる電報を送ったところ、予期せぬ返事が入ったのだ。
 長参謀長は「わが本隊より先に、撤退するとはけしからん」と激怒し、「小禄に戻れ」と命令してきたのだ。こんな理不尽な命令はない。大田提督がいかに憤慨したか、記録はないが、その心中は察しがつく。彼は涙を呑んで、小禄に撤退することを部下に命令した。彼はその時、小禄で玉砕することを決心したのだ。
 小禄に戻ることになった海軍兵らは哀れだった。雨の中、わけも分からず、重い銃器を引いて小禄に戻ることになった。生き残って捕虜になったわずかばかりの海軍兵はアメリカ軍第6海兵師団の尋問調書で、涙ながらに「無残な撤退」について語っている。
 六月四日、小禄に上陸した第6海兵師団は「日本兵が集団で自殺する」姿をあちこちで目撃した。海軍兵は既に戦意を喪失していたのだ。牛島司令官は南部に撤退せよ、という命令を出したが、遅きに失した。大田は「小禄で玉砕する」と打電したのだ。これに驚いた牛島は親書を送り、南部に撤退してくれるよう、頼んだ。だが、大田の決意は揺らぐことはなかった。
 六月六日、大田提督はあの有名な「沖縄県民かく戦えり。後世に格別のご高配を賜らんことを」という電文を東京の軍令部に送ったのである。こうした間題を抱えて、南部撤退は行われたことを忘れてはならない。

つづく


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