上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 18

2013-04-28 09:40:58 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

カンパのお願い 

5月30日に結審があります。 

徳永弁護士も手弁当で支援して下さっていますが、 

打ち合わせ等をするにも交通費等の出費を無視できません。 

カンパは支援している三善会にお願いします。 

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ゆうちょ銀行からの振込の場合 
【金融機関】 ゆうちょ銀行
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【名  義】  サンゼンカイ
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【金融機関】 ゆうちょ銀行
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【店  番】  708
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【名  義】  サンゼンカイ  


前回の続き

~轟の壕編~ 12

 玉城朝子さんは口に出して言うことはできなかったが、アメリカ人に対する信頼が揺らぐことはなかった。だが、沖縄戦が始まり、砲弾が雨あられと降ってくると彼女は逃けるしかなかった。砲弾を撃つアメリカ人は嫌いだった。
 運命は彼女を轟の壕に導いた。玉城朝子さんも数百人の避難民の一人となったのだ。その壕で山里和枝さんの近くにいたのが朝子さんだった。和枝さんにとっても避難民にとっても幸運だったのは、朝子さんが下の壕から上の壕に移ったことだった。
 その場所は、物語の冒頭で述べたように轟の壕の巨大な口の上部(南側)の洞窟だった。南側の洞窟には佐藤特高課長ら数十人の住民が潜んでいた。
 そこヘアメリカ軍の馬乗り攻撃が始まる直前、海軍兵士が数人やってきた。その指揮官が宮城嗣吉兵曹長だった。彼は人も知る空手の達人で、しかも根っからの海軍魂の持ち主で、絶対に日本が勝つ、と信じていた。海軍根拠地隊司令官の大田實提督を崇拝していた。
 後年、筆者が第6海兵師団G2隊長だったウィリアムズ大佐に会い、大佐が大田提督の海軍司令部壕に入り、撮影した大田提督らの遺体の写真を筆者が新聞紙上に発表した時のことだ。
 筆者が大田提督ら六人の遺体の首は掻き切られていた、とのコメントを発表するや否や、宮城さんから電話がかかってきて「大田提督がそんな無残な死に方をするはずがない。君は提督の遺体にはウジが湧いていた、と言っているが、提督の遺体にウジが湧くはずはない」とお叱りを受けた。
 筆者は思わず、吹き出しそうになったが、宮城さんは一途に大田提督を崇拝していることが分かったので、筆者は反論することもなく「ハイ、分かりました」と殊勝に返事をした。今は楽しい思い出になっている。
 こうした一本気な性格の宮城兵曹長は敬愛する大田實海軍司令官が六月十三日、自決したことを知ると、涙を流して悔しがった。
 大田司令富は八原博道高級参謀が企んだ南部撤退作戦に素直に応じ、直ちに小禄、豊見城の広大な海軍基地の施設を破壊し、真栄平一帯に武器弾薬を運べるだけ運び、最後の決戦態勢を敷いていた。だが、長勇第三二軍参謀長は「俺たちより、先に撤退するとはけしからん。直ちに元の陣地に戻れ」と理不尽な命令をしてきた。
 大田司令官は、はらわたが煮えくり返ったが、涙を呑んで、部下に元の陣地に戻るよう命令した。南部に撤退したばかりの海軍兵らは「なぜだ、なぜだ」と雨の中、わけも分からず、運んできたばかりの武器弾薬を元の陣地に運んだ。大田司令官は海軍壕で玉砕することを決めた。士気を失った海軍兵らは次々と集団で自爆していった、とアメリカ軍の記録は伝えている。
 約八千人の海軍の兵士で生き残ったのは数百人にすきなかった。その一人が宮城兵曹長だった。宮城は空手では負けたことがなく、アメリカ兵でも一対一なら倒す自信があったが、戦争では空手は何の役にも立たなかった。彼は戦って死ぬのならまだしも、自決する気はなかった。アメリカ軍に一泡吹かせたかったのだ。投降する気はさらさらなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神は骨身に染みついていた。
 宮城兵曹長は佐藤特高課長に敬礼すると、元気よく言った。「海軍の宮城兵曹長です。ここの指揮官はどなたですか」。佐藤は「指揮官はおらんが、下の壕に大塚軍曹の陸軍部隊がいる。隈崎警察部運輸課長もおられる。県庁の上級職員もいる」と力なく言った。すっかり意気消沈していた。
 宮城は「では挨拶に行って参ります」と言うと、都下を引き連れて、下の壕に向かった。そこで宮城は隈崎に出会うことになった。

つづく


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