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上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 19

2013-04-29 09:15:06 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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【名  義】  サンゼンカイ
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【店  名】  七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店  番】  708
【口座番号】 普通:1034797
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前回の続き

~轟の壕編~ 13

 宮城嗣吉兵曹長は部下を引き連れて、この巨大な轟の壕を支配していた大塚軍曹に挨拶した。「海軍の宮城兵曹長です」
 大塚は冷ややかに言った。「海軍は玉砕したそうだが、お前ら敗残兵が生き残っているとはね。情けない奴らだ」。宮城は敗残兵と言われて「この野郎!」と思ったが、言い返す言葉がなかった。言われてみればその通りだった。
 宮城ら海軍兵は隈崎ら警察部や県庁の職員の中に割り込んで座った。隣で沖縄の人が苦しんでいるのを座視するしかなかった。
 六月十八日、壕はアメリカ軍に包囲され、最期の時を迎えようとしていた。連日、機関銃や爆薬の攻撃を受け、最後にはガソリンを入れたドラム缶が投げ込まれ、壕内にガソリンが流れ込み、火が燃え移り、住民は逃げまどったが、火傷で死傷者が続出したことは先に述べた。
 六月二十二日ごろのことだった。宮城兵曹長は部下と共に轟の壕に移った。住民が死に直面しているのに何もできないでいる自分が情けなかった。見ておれなかったのだ。どうすればよいのか、佐藤特高課長らと話し合ったが、何も知恵は出てこない。ただ死を待つしかないのか。
 その時、あの美しい女性が前に進み出て、あっさり言ったのだ。「皆さん、投降しましょう」。その声は凛と壕内に響いた。みんなハッとした。「投降」、宮城が最も恐れた言葉だった。
 彼女は続けた。「私は玉城朝子と甲します。十歳になるまでハワイにおりました。もちろん、英語も話します。ハワイで多くのアメリカ人を見ております。みんな優しい人たちでした。私たちと何も変わりません」。壕内はシンと静まり返った。
 ハワイで生まれ、英語が話せる、というだけでスパイ扱いされる時代だった。”鬼畜”と恐れたアメリカ人を優しい人たちだ、と言っているのだ。みんな呆気にとられた。
 「アメリカの兵隊さんが皆さんを殺すことはありません。皆さん、ここを出ましょう。アメリカさんはきっと皆さんを大事に受け入れてくれるはずです」。宮域は「私は軍人だ。降伏するわけにはいかない。そんな恥ずべきことはできない」と反対した。
 彼女は静かに、だが、きっぱりと言った。「降伏するのではなく、生きるのです。生まれる者は、皆死んでゆきます。精いっぱい生きる、そのために、私たちは生かされているのではないでしょうか。今、このまま死んではもったいないことです。沈んだ太陽はまた上がります。皆さん、太陽の下に出ましょう」。こんな、まともな発言は長いこと誰も聞いたことはなかった。
 壕の中にいた数十人の住民の中から「ヤサ、ヤサ」(そうだ、そうだ)と声が上がった。どうせ、死ぬのなら、太陽の下に出て、おいしい空気を吸って死にたい、と思っていた住民は、ちょっと勇気をもらって「生きる」気になった。だが、佐藤特高課長は慌てた。「ま、待て。それはならん」と言ったものの、その声には力がなかった。あの女性が言っていることはまともだ、と知っていたからだ。
 玉城朝子さんはその声に怯むことなく、続けた。「今、この上の壕では死者はほとんど出ておりませんが、下の壕では、女も子供も老人もたくさん死んでいます。早くしないと、全員、死ぬのです。ぐずぐずしてはいられません」
 だが、佐藤特高課長はまだ「投降する」勇気が出なかった。宮城兵曹長も彼女の言葉で骨身に染みついた「生きて虜囚の辱めを受けず」という概念がガラガラ崩れ落ちてゆくのを感じていたが、まだ「投降」すべきかどうか迷っていた。
 六月二十四日の朝がやってきた。壕の外の拡声器から「オキナワのミナサン、出テキテ下サイ。ワタシタチハ、ミナサンヲ助ケマス。殺シマセンカラ出テキテ下サイ」とアメリカ人の話す日本語が聞こえてきた。「出テ来コナイト、ガソリンヲ流シテ火ヲツケマス。ミナサン、出テキテ下サイ」

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 18

2013-04-28 09:40:58 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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~轟の壕編~ 12

 玉城朝子さんは口に出して言うことはできなかったが、アメリカ人に対する信頼が揺らぐことはなかった。だが、沖縄戦が始まり、砲弾が雨あられと降ってくると彼女は逃けるしかなかった。砲弾を撃つアメリカ人は嫌いだった。
 運命は彼女を轟の壕に導いた。玉城朝子さんも数百人の避難民の一人となったのだ。その壕で山里和枝さんの近くにいたのが朝子さんだった。和枝さんにとっても避難民にとっても幸運だったのは、朝子さんが下の壕から上の壕に移ったことだった。
 その場所は、物語の冒頭で述べたように轟の壕の巨大な口の上部(南側)の洞窟だった。南側の洞窟には佐藤特高課長ら数十人の住民が潜んでいた。
 そこヘアメリカ軍の馬乗り攻撃が始まる直前、海軍兵士が数人やってきた。その指揮官が宮城嗣吉兵曹長だった。彼は人も知る空手の達人で、しかも根っからの海軍魂の持ち主で、絶対に日本が勝つ、と信じていた。海軍根拠地隊司令官の大田實提督を崇拝していた。
 後年、筆者が第6海兵師団G2隊長だったウィリアムズ大佐に会い、大佐が大田提督の海軍司令部壕に入り、撮影した大田提督らの遺体の写真を筆者が新聞紙上に発表した時のことだ。
 筆者が大田提督ら六人の遺体の首は掻き切られていた、とのコメントを発表するや否や、宮城さんから電話がかかってきて「大田提督がそんな無残な死に方をするはずがない。君は提督の遺体にはウジが湧いていた、と言っているが、提督の遺体にウジが湧くはずはない」とお叱りを受けた。
 筆者は思わず、吹き出しそうになったが、宮城さんは一途に大田提督を崇拝していることが分かったので、筆者は反論することもなく「ハイ、分かりました」と殊勝に返事をした。今は楽しい思い出になっている。
 こうした一本気な性格の宮城兵曹長は敬愛する大田實海軍司令官が六月十三日、自決したことを知ると、涙を流して悔しがった。
 大田司令富は八原博道高級参謀が企んだ南部撤退作戦に素直に応じ、直ちに小禄、豊見城の広大な海軍基地の施設を破壊し、真栄平一帯に武器弾薬を運べるだけ運び、最後の決戦態勢を敷いていた。だが、長勇第三二軍参謀長は「俺たちより、先に撤退するとはけしからん。直ちに元の陣地に戻れ」と理不尽な命令をしてきた。
 大田司令官は、はらわたが煮えくり返ったが、涙を呑んで、部下に元の陣地に戻るよう命令した。南部に撤退したばかりの海軍兵らは「なぜだ、なぜだ」と雨の中、わけも分からず、運んできたばかりの武器弾薬を元の陣地に運んだ。大田司令官は海軍壕で玉砕することを決めた。士気を失った海軍兵らは次々と集団で自爆していった、とアメリカ軍の記録は伝えている。
 約八千人の海軍の兵士で生き残ったのは数百人にすきなかった。その一人が宮城兵曹長だった。宮城は空手では負けたことがなく、アメリカ兵でも一対一なら倒す自信があったが、戦争では空手は何の役にも立たなかった。彼は戦って死ぬのならまだしも、自決する気はなかった。アメリカ軍に一泡吹かせたかったのだ。投降する気はさらさらなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神は骨身に染みついていた。
 宮城兵曹長は佐藤特高課長に敬礼すると、元気よく言った。「海軍の宮城兵曹長です。ここの指揮官はどなたですか」。佐藤は「指揮官はおらんが、下の壕に大塚軍曹の陸軍部隊がいる。隈崎警察部運輸課長もおられる。県庁の上級職員もいる」と力なく言った。すっかり意気消沈していた。
 宮城は「では挨拶に行って参ります」と言うと、都下を引き連れて、下の壕に向かった。そこで宮城は隈崎に出会うことになった。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 17

2013-04-27 09:38:53 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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~轟の壕編~ 11

 銃剣が明かりを反射してキラリと光った。彼女は四歳の息子にそっと言った。「泣いたら、兵隊さんに殺されるよ。戦争が終わったら、いっぱいマンマをあげるから、泣かないでね」
 友軍の兵士が子供を殺した、というヒソヒソ話が伝わってきた。一番心配なのはいつも胸に抱いているわが子のことだった。赤ん坊が日に日に弱っているのが分かった。泣き声も出なくなった。母乳を出ずために水をガブ飲みするのだが、乳は出てこない。ただ気休めに赤ん坊に乳首を吸わせておくのだが、その吸引するカが弱くなっていくのが母親だから、よく分かる。手のひらを闇の中でわが子の顔にあてる。今は熱がある、息はしている、と手のひらで判断していた。
 その日、わが子に触っていると、足先から冷たくなって、鼻から息が出なくなった。乳飲み子の娘は死んだのだ。自分の腕の中で死んだのだ。彼女はこのまま一緒に死んでしまいたい、と長い聞、じっと娘の骸を抱きしめていた。声を押し殺して泣いた。
 その後、彼女は死んだ子を抱いたまま、ぽかんと闇の天井を見上げるだけだった。自分の体力が尽きようとしていることを感じていた。今日か明日か、死が近づいている。彼女だけではなかった。数百人のじっと、うずくまっていた住民も死が追っていることを知っていた。赤ん坊も子供も老人も、次々倒れ、死んでいった。壕の中には死臭が立ち込めていた。外に出るに出られず、絶望が暗黒の壕を満たしていた。
 だが、奇跡が起きようとしていた。この闇の世界に天女が降りてきたのだ。山里和枝さんは”天女”のことをはっきり覚えている。天女のように美しい女性だった、と筆者に語ってくれた。
 その人の名を知ったのは、つい最近のことだ。二〇〇二年夏、和枝さんは親戚にあたる沖縄テレビの山里孫存ディレクターから連絡を受けた。轟の壕から数百人の住民が救出される場面のフィルムを入手したが、その中にアメリカ兵に囲まれた女性の正体が判明したというのだ。
 その人の名は玉城朝子さんと言い、ひょうとしたら和枝さんがよく話してくれた”命の恩人”かも知れない、と言うのだ。
 フィルムに登場する女性は確かに、壕から救出された数百人の住民の命の恩人だった。山里ディレクターはてきぱきと仕事を進め、和枝さんがハワイに住んでいる玉城朝子さんに国際電話で六十年ぶりに”再会”し、命を救ってくれたお礼を述べる機会を与えてくれた。その場面は沖縄テレビの「むかし、むかし、この島で…」と題された番組で紹介されたことを読者は覚えて、いるだろう。いや、激しく動いている時代の潮流の中では、いかに賢明な読者でもすっかり忘れているかもしれない。
 和枝さんが「命を助けていただいて、本当にありがとうございます」と言うと、電話の向こうの”命の恩人”は「いいえ、私はただ、人として当然のことをしただけですの。お互いに六十年後にこうして話し合えて、よかったわ。いつか、お会いできたらいいですね」と明るく答えた。和枝さんは胸がいっぱいになった。
 あの轟の壕では日本兵は鬼畜以下の存在となり子供まで殺し、危うく全滅するところだった。人の命を救う、という当たり前のことをできる状態ではなかった。玉城朝子さんはいかにして「人として当然のこと」を成し遂げたのだろうか。
 玉城朝子さんは十歳までハワイに住み、英語も日本語も自由に話せた。子供のころ、八ワイで出会ったアメリカ人はみんな優しかった。アメリカ人には悪い印象は全くなかった。だが、戦争が近づくと新聞も世間も「鬼畜米英」一辺倒となった。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 16

2013-04-26 09:53:33 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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~轟の壕編~ 10

 立派な軍国少女だった山里和枝さんも「友軍ってこんなむごいことをするんだね。あんな子供の黒砂糖を取り上げて、その上、撃ち殺すなんて、友軍ってこんなものだったのか」と思った。あの恐ろしい鬼畜米英に向けられていた敵憮心は、この時から友軍に向けられるようになった。敵はアメリカ軍ではなく、かえって友軍だと思うようになった。
 お国の為、天皇陛下の為に命を捧げても惜しくはない、と思っていた和枝さんも、尊敬していた島田知事に「日本軍と行動を共にするな。白旗を挙げて投降せよ」と言われ、今、目の前で子供から黒砂糖を取り上げるため、子供を射ち殺す日本兵の姿を見て、生きてやろうと、いう気持ちがふつふつとわいてきた。
 その後、赤ちゃんが泣くと、母親の周囲のみんなが、子供を泣かすな、と言うようになった。泣くな、と赤ちゃんに言っても泣きやむはずがない。赤ちゃんが泣くと、母親はたまらず、オシメを赤ちゃんの口に押し込んで、泣き声を止めようとするが、赤ちゃんは息ができず、死んでしまった。こんなことが何度も続いた。
 名前は伏せるが、ある母親の話をしよう。その母親はまだ九カ月の女の子を背負い、家族と共に南部をさ迷って、敵の艦砲射撃の中、友軍の壕に助けを求めて入った。「兵隊さん、お願いします。避難させて下さい」と言うと、いきなり「バカヤロー、お前らがついてくるから、敵が嗅ぎつけて、オレ達はヒドイ目に遭っているんだ。出て行け、撃つぞ」と銃を向けた。
 どの壕に入っても同じことだった。戦争が始まるまで、友軍の兵隊さんにひもじい思いをさせてはいけない、と進んで食べ物をあげたのに、いざ、となったら、こんな仕打ちを受けるのだ。
 この母親も山里和枝さんと同じく、 「家族みんなを一撃で死なせて下さい」と願った。それが当時の沖縄の人々の共通の思いだった。これ以上、愛する家族が苦しむ姿を見たくなかったのだ。
 そんな中で、彼女と家族は轟の壕に辿り着いた。壕の下に降りて行くと、開口部の出入り口に負傷した老人と子供が座っていた。「ここは民間人も避難できますか」と尋ねると、老人は「ウー、ナイビンドー」 (入れますよ)と答え、右(東)奥には友軍がいるから、左側に行くよう、教えてくれた。彼女と家族九人は壕の奥の暗闇の中に、人をかき分け、進み、ひっそりと座り込んだ。戦場の音は聞こえず、別天地だと思った。
 一息つくと、みんなお腹が空いてきた。この十日間、食事らしい食事はとってなく、生きていることが不思議だった。子供はマンマが食べたい、と訴えた。壕の入り口に大鍋があったので、そこへ行き、コゲでももらえないか、頼んだ。
 それは大塚部隊の大鍋だったが、幸いにも部隊の炊事婦が知り合いの「辻の女性」だった。彼女はこっそりと、おにぎりを分けてくれたのである。四個のおにぎりを九人の家族で分け合い、足元を流れる小川の水をガブ飲みして、腹をふくらませた。その親切な「辻の女性」のことを彼女は今も忘れない。
 世間では「ジュリ」や「慰安婦」と言われる女性たちに同情するが、理解していない。彼女たちが「人間が試される究極の舞台」である戦場で、実に人間的に生きたことを忘れている。アメリカ軍の記録では、沖縄の女性たちが嫌がる臨時看護婦の仕事に、懸命に尽くしてくれたのが、朝鮮人の慰安婦だった、と感嘆しているのだ。
 話を戻そう。彼女らの一行が轟の壕に入ったころ、壕の中では赤ん坊の泣き声や幼児が食べ物をねだる声がうるさいほどだった。明かりは、ところどころに点されていた。アメリカ軍の馬乗り攻撃の前だったが、日本兵らが川下の避難民のところへやってきて、脅かした。 「子供を泣かすと殺すぞ」

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 15

2013-04-25 09:33:15 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

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~轟の壕編~ 9

 首里小学校の小山先生が隈崎の所へやってきて、手榴弾をくれ、と言った。欲しいならあげてもよいが、何をするのだ、と聞くと、小山先生は「私は今まで皇軍を神兵と讃えて、予供たちを教育してきたが、今、彼らのどこに神兵の姿があるのですか。子供たちをだましたことが心苦しい。毎日、彼らの仕草を見ていると我慢ならない。手榴弾であの友軍兵を殺し、私も死にます」と体を震わせて言った。
 隈崎はハッとした。大塚軍曹らの人の道を踏み外した言動は許し難いものだったが、「友軍兵を殺す」ことまでは思いも及ぼなかった。彼はまだ日本が最後に勝つ、と信じていた。
 彼は小山先生を諭した。気持ちは分かるが、同士討ちはやめなさい。この戦争はどうしても負けるわけにはいかない。戦争に勝ってこそ神兵も現れるだろう。負ければみな敗残兵だ。手榴弾を投げつければ、君は気も済むだろうが、迷惑する者も出るだろう。一個の手榴弾ではどうにもなるまい。さらにひどいことになるだけだよ」。小山先生は涙を流しながら戻っていった。
 一方、山里和枝さんは一つの事件をはっきり覚えている。忘れようにも忘れらない悲劇だった。アメリカ軍の馬乗り攻撃が始まる直前のことだった。
 その言葉から糸満出身と分かる老女が孫を二人連れて壕内を流れる小川の川下にいた。一人の孫は七、八歳、もう一人は三、四歳だった。二人の孫は「ハーメー、サーターカミブサン(おばあちゃん、黒砂糖が食べたい)」と泣いていた。老女は手ぬぐいに黒砂糖をくるんで持っていたが、少しそれを割って、孫たちに与えたが、しばらくすると、「ナーヒンカムン(もっと食べたい)」と、また泣きだした。
 黒砂糖はこの家族だけでなく、壕に避難した多くの沖縄の人々の命をつないだ大切な食料だった。老女は黒砂糖が唯一の命綱だから、残り少なくなった今、やたらにあげるわけにはいかない、と糸満口で孫たちに言い聞かせたが、お腹の空いた子供たちに通じるわけもない。孫たちは泣き続けた。
 そこへ大塚部隊の兵士がやってきて、怒鳴った。「子供を泣かすな! 子供の泣き声でこの壕に人がいることが敵に察知されるんだ。泣くな! 今度泣いたら撃つぞ」
 二人の子供は兵士の怒声にびっくりして泣きやんだが、その兵士がいなくなると、また「サーターカムンドー」と言って泣きだした。再び兵士がやってきて、さらに大きな声で怒鳴つた。「いくら言っても分からんのか。こんど泣かせたら、撃つといったぞ。なぜ泣かせるんだ」
 老女は「この黒砂糖を食べたいと泣いているんですよ」と糸満口で答えたが、その兵士はイライラして「どの国の言葉をしゃべっているんだ。お前は日本語も話せないのか。スパイだな」と毒づいた。
 傍らにいた人が慌てて日本語に通訳してやると、兵士は「その黒砂糖を出せ」と命令した。老女は「この黒砂糖は三人の命だから、渡せない」と糸満ロで答えたが、兵士は構わず黒砂糖を取り上げた。すると、上の孫が「クレー、ワッタームンドー(これは自分たちの物だ)」と叫んで兵士に跳びかかった。
 その兵士は一瞬ひるんだが、「この野郎!」と叫ぶと、手にしていた拳銃の引き金を引いた。 「パーン」と音がし、子供は声もなく、崩れ落ちた。闇の中だったから、誰も確認できなかったが、子供が即死したことは確かだった。
 静寂が壕を支配した。老女は目の前で孫が殺されたが、抗議の声を出すことができないばかりか、声を上げて泣くこともできない。泣き声を上げれば、自分ばかりか残された孫も殺されるのだ。闇の中で老女の表情を見た者はいないが、恐怖と悲しみと怒りをこらえていたのだ。

つづく


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