江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ チエミの民謡集vol.1 串本節 伴奏:東京キューバンボーイズ

2012年07月07日 | 江利チエミ(続編)

UPしてくださった方が...
  ↓
 http://www.youtube.com/watch?v=LjpTy6E9kFk

内藤法美さんのなんとも「内藤さんらしいアレンジ」...
 昭和33年...この当時このノリで民謡を歌えた...
                  「チエミならでは」という気がします。

>ヤフー百科事典より引用

和歌山県最南端の港町、串本地方の民謡。串本は風待ちや台風の避難港としてにぎわい、港町の酒席の騒(さわ)ぎ唄(うた)として歌われてきた。この唄の源流は、千葉県の粉屋の娘を歌った『白桝(しらます)粉屋』という唄で、これが江戸時代末期に「おいとこそうだよ」という唄を生み、旅芸人か獅子舞(ししまい)かの口から串本地方にも伝えられたものであるという。囃子詞(はやしことば)に伊勢(いせ)お陰参りの「エジャナイカエジャナイカ、オチャヤレ」がつき、「エジャナイカ節」あるいは「オチャヤレ節」になり、神社祭礼の神輿(みこし)行列唄や酒宴の唄として歌われていた。1924年(大正13)アメリカから水陸両用機が串本にきた際、取材で集まった京阪神の新聞記者たちにより紹介され、当時の上方(かみがた)漫才師砂川捨丸(すてまる)がレコードに吹き込んでから、『串本節』として全国的に広まった。

とあります...

また地元「串本町」のHPでは...
> 串本節の話が出ると、必ず其の古事来歴を尋ねられる。歌は世につれ、世は歌につれのことわざ道り、江戸未期から永い歴史は秘められているようで、古老の言い伝えを大別してみますと、「地元の農漁民から自然に生まれた」「黒潮に乗ってきたという漂流説」の二つになり、其の時代もよく判らないが、氏神の祭礼につきものである串本節であった事から、祭礼の獅子舞の屋台に記されている弘化年号からして、それ以前のものとも思える。
 そうした古い歴史を持つ串本節は、全国に有名になったきっかけは、大正十三年六月米国の世界一週水上機が串本に着水した時、東京や大阪の新聞記者、カメラマン氏合わせて三十人余が取材に来串したが、悪天候のため、十日余りも飛行機は来ず、記者たちの退屈をまぎらわすため、町長から土地の民謡でもと披露したところ、大喝采を受け、取材を終えた記者団は夫々任地に帰り、あらゆる席上で串本節をPRして全国流行の糸口を開いてくれた。
又一方で、漫才師・砂川捨丸さんが大正十四年頃、九州巡業中、串本節を出し物にして大当たり、舞台生活六十五年の大半、串本節を歌い続けました。
 串本節が全国的に知られるようになったのは、「砂川捨丸師匠」の功績による物で、後に串本町から師匠に感謝状が贈られています。
 宣伝はお手の物の新聞記者さんや、漫才師さんに依って宣伝され、日本民謡の「三大節」の一つとまで言われる串本節は東京・仙台・四国・九州・ハワイ等の各方面から出演申込みがあり、歌の外に踊りも所望され、観光協会ではうれしい悲鳴を上げている。
昭和三十五年から正調串本節免許証を発行し、正調に歌われた方に交付され、平成5年9月、15,000人に達し、好評を博しています。

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おいとこそうだよ... 
   これもチエミの民謡のレパートリー...名唱を残してくれています。

この曲は「歌われている地域」が非常に広いのが特色です。
宮城県から旧仙台藩の所領だった岩手県地方の民謡...とされる場合が多いのですが、諸説混沌としています。

おいとこそうだよ
 紺ののれんに 伊勢屋と書いてだんよ
    お梅十六 十代伝わる 粉屋の娘だんよ

 なるたけ朝は早起き
  のぼる東海道は五十と三次 粉箱やっこらさとかついで
    あるかにゃなるまい おいとこそうだんよ

...これは今でも宮城~岩手地方で歌われている「おいとこそうだよ」の歌詞です。
チエミさんも、この東北版のアレンジに近い歌詞、メロディで歌われています。

しかし、この「おいとこそうだよ」を調べると、非常に奥が深いのです...

東京堂出版発行の「日本民謡辞典」には、「おいとこ」という項目で、次のような解説があります。

>「宮城県仙台付近でうたわれる酒盛り唄。岩手、山形、秋田と東北地方で広くうたわれている。伝説的には、天保年間、印旛沼(いんばぬま)干拓工事の折に、そこで働く土工たちによって、うたわれたものが流行歌となって各地に普及したと伝えられている...」

>白桝粉屋(しらますこなや)おどりがおいとこのルーツ
宮城県迫町(はさまちょう)も「おいとこ」の盛んな町です。迫町森地区では平成元年から「伊達(だて)なおいとこ踊り宮城大会」を開催しています。
その大会の発案者である星勲さんの面白い調査があります。星さんによれば、仙台藩は下総(しもふさ)の国、つまり現在の千葉県に飛び地の領地を持っていた。そこから干拓工事に駆り出された人々が、「おいとこ」を覚えて国元に持ち帰ったことは十分に考えられる。というのです。

さて、それでは「おいとこ節」は、どんな歌詞なのでしょうか。再び民謡辞典を引くと、こう解説してあります。
>「この唄は、千葉県多古町(たこまち)に伝わる白桝粉屋(しらますこなや)と呼ばれる唄で、“おいとこそうだよ”とうたい出すところから、おいとこ節とも呼ばれている」
この歌詞で「白桝粉屋」とうたわれている「白桝」というのは地名です。現在の千葉県芝山町(しばやままち)白桝がそれにあたります。多古町のすぐ近くで、成田にも近いところです。
  (京成電鉄に接続する第三セクター/芝山鉄道の芝山です。)

芝山町は、「おいとこ節・発祥の地」をうたっている町でした。この町では「おいとこ」と言わず、「白桝粉屋おどり」として受け継がれ、今では県指定の無形民俗文化財になっています。
  ついに「おいとこ」のふるさとにたどり着いたようです。

若い僧侶が娘を見初め唄を作って流行させたもの。

その芝山町で伝えられている「白桝粉屋おどり」、つまり「おいとこ」の由来は次のようなものです。

>「江戸時代の半ばごろ、多古町の日本寺(にちほんじ)に、中村檀林(なかむらだんりん)という学問寺がありました。当時この檀林で学んでいた若い僧侶が、芝山町の白桝粉屋の美人看板娘の久子さんを見初め、唄を作って檀林内で流行させました。やがて修学を終えた僧侶たちはそれぞれの故郷へ帰り、仏の教えとともにこの唄が各地に伝わっていきました」白桝粉屋は、銚子から江戸へ抜ける、いわゆる江戸街道の道筋にありました。江戸街道は、さまざまな産物を運ぶ街道でもありました。この街道の人と物の流れの中に、印旛沼の干拓工事に駆り出された人々の一団がいたことは、想像に難くありません。

---->こうなると...この「おいとこそうだよ」は、江戸時代の「ヒット曲」ということとなります。
 
そして、もうひとつ見落としがありました。
それは、チエミのムード民謡[チエミの民謡集第4集] SKF149 (1962発売 1,300)...のクレジットです。
(第2面)1.おいとこそうだよ(1分57秒)...千葉県地方/宮川泰編曲 と、しっかりと「元々は千葉県の民謡」ということが記載されていました。

>おいとこの語源は諸説さまざまです。・・・「おいとこ」は、伝えられた地方に次第に定着し、やがて歌詞をその地方向きに変え、その地方の民謡として受け継がれ、発祥の地である芝山町を離れて、より多くの人々にうたわれるようになったと、芝山町の人々は言います。


ところで、「おいとこ」の語源については、不明な点が多いのです。これまでのさまざまな節を述べてみます。
 「オーイ、ドッコイショ」=土工作業の掛け声と受け声から
 「高砂そうだよ」=北房総地方の小念仏唄から
 「お江戸っ子」
 「佐渡方言説」=佐渡出身の僧侶が原作者か
 「オイ、ドッコイショ」=相撲甚句の掛け声から
 「おーい、いとこ」=従兄弟、親しい者への呼び掛けから

さて、白桝粉屋が、どうして千厩地方では伊勢屋になったのか、久子がお梅になったりしたのか、その訳は、今となっては知る由もありません。


民謡=伝承唄... 奥が深いです!!






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