江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 本邦初演ブロードウェイミュージカル

2022年05月06日 | 江利チエミ(続編)

フジの江利チエミ特番より

昭和36年・37年の東西コマ劇場(新宿・梅田)で、当時としては画期的な公演が行われました。
江利チエミ特別公演「スター誕生」...
今では誰もが座長公演をしますが、この舞台公演で歌手が座長を勤めるのは当時としては画期的なこと...です。
近年美空ひばりがパイオニアだったという間違った歴史が語られています。しかし美空ひばり新宿コマ「女の花道」公演は39年です。(川口松太郎先生にひばりママがジカダンパンをして本を依頼。ひばり離婚のタイミングにあわせ、離婚記者会見もコマで行いました。女一人芸に生きる...という内容のお芝居。ここにも「ひばり流の公私混同的な売り方=ママのアイディア」がいかんなく発揮されています。)
それ以前にも「浅草国際」など、ロング公演はありましたがこれは寸劇と歌謡ショウの構成。
第1部 お芝居 第2部 ショウ(一部二部の順序は入れ替わる場合も)という構成でむしろ芝居に重きを置く(時間を含め)1月のロングラン公演というのはこの江利チエミ特別公演がルーツです。
この座長公演の成功は次のステップへとチエミさんが進むきっかけを作ります。

東宝の大プロデューサーで首領といわれた菊田一夫。彼は日本にミュージカルを根付かせたいという構想から、ジュディー・アンドリュース主演でブロードウェイのロングラン記録も更新していたヒット作「マイフェアレデイ」の上演権を獲得します。
当初、東宝の舞台でのミュージカルはチエミには和モノ、雪村いづみには「赤毛もの」で...といった構想を持っていたようにも推察できます。
当初イライザ役は、雪村いづみにオファーが...
しかしその時いづみさんは最初の夫/ジャック・セラー氏の故国アメリカで、赤ちゃんだった長女マリアさんを胸に抱き...女性としての幸せを噛み締めていたとき。
彼女は丁重に菊田先生に辞退を申し入れます。
そして...「イライザには親友江利チエミを紹介します。イライザを演じられるのは江利チエミをおいて他にありません!」と手紙を菊田あてにしたためます。

昭和38年東京宝塚劇場、主演/江利チエミ 本邦初演ブロードウェイミュージカル
 「マイ・フェア・レディ」が幕を開けることになります。

当初はチエミさんも悩んで悩んでこの役を受けた...と思います。
また、世間の前評判も...
ハスキーなアルトのチエミがソプラノのジュリー・アンドリュースの当たり役をするのはミスキャスト...とか、興行第一主義の安易なキャスティングなどとたたかれます。

しかし、実際の舞台が幕を開けると...
初めてのミュージカルにお客さんのほうにむしろ照れが見受けられるも、初日には数度もアンコールの拍手がなりやまず、出演者はみな感激の涙で前が見えないほどの大成功を収めます。
チエミさんはハスキーでアルトな声ということを、むしろ武器にかえ「待てばいいのよ」などダイナミックな歌唱でお客のハートをつかみます。
この芝居は、最初から江利チエミの為に書かれた物語じゃないのか?...と錯覚させるほどに。

この時の様子を次の本から読み取ることができます。
「戦後」~美空ひばりとその時代 著/本田靖春 講談社 より...
>・・・チエミは絶頂期へと向かう。62(昭和37)年には新宿コマの「スター誕生」で芸術祭奨励賞を、
日劇の「チエミ大いに歌う」では第8回テアトロン賞を受賞し、東京宝塚劇場の「マイ・フェア・レディ」でゴールデンアロー賞に輝いた。
このマイフェアレディを演出した菊田一夫は、初日の幕が下りたときに、手放しで泣いたといわれている。
それが菊田の自己陶酔ではなかったのは、たまたま来日中のロバート・ヘルプマンがチエミを激賞したことで証明された。
ヘルプマンといえば、英国「ロイヤル・バレイ団」の出身で、映画「赤い靴」「ホフマン物語」などの振り付けを担当した、世界でも有数のミュージカル・デレクターである。
別の目的で来日したのだが、チエミに国際級の折り紙をつけたのである。
「私はロンドン、ニューヨークをはじめ、あらゆる『マイ・フェア・レディ』を観てきた。東京のももちろん。江利チエミは、どこの国のイライザにもひけをとらない。素晴らしいミュージカル女優だ」
江利チエミ株はこれで急騰した。・・・

この当時、日本テレビの「テレポール委員会」が実施した世論調査の推計も引用しておきます。
ファン数の対比
 ひばり:163万人 チエミ:135万人

女王ひばりとの差は肉薄します。

活動範囲は レコード歌手 芝居公演の舞台 歌のステージ 映画...
そしてすでに、高視聴率のTBSドラマ「咲子さんちょっと」でもお茶の間の人気者になっていました。
歌手が連続ホームドラマの主演をする...これもパイオニアです。
そして、昭和38年大晦日・紅白歌合戦でも「歌手としてはじめての司会・キャプテン」も勤めます。

歌手としても素晴らしい仕事をしています。
デルタリズムボーイズとのジョイントコンサート...カウントベイシー・オーケストラ日本公演で「日本歌手の代表として」の共演...チエミの民謡集LPの続編のリリース...カールジョーンズ氏との「ジャズLP」のリリース...

まさに絶頂期を迎えた...といえます。

※写真は昭和39年日劇「チエミ大いに歌う」を報じる週刊誌の記事です。
 右下の写真は琴の伴奏でマイフェアレディメドレーを歌う場面

◆キャスティングでの裏話

森繫久彌さんは当初はヒギンズ教授役でキャスト発表もされましたが急遽降板して、フレディを演じるはずの高島忠男さんが代役となりました。

「ミュージカルを演じて出演するのは時期尚早では?」との「賢い判断」で森繁さんはマイ・フェア・レディを降板したのでは?...という説もあります。

森繁さんのライフワークにもなった「屋根の上のヴァイオリン弾き」はブロード・ウェイでは昭和39年に初演されました。
その3年後、昭和42年9/3---10/27に森繁久弥、越路吹雪、浜木綿子、松本幸四郎(当時の市川染五郎)、黒柳徹子、益田喜頓という豪華キャストで初演されました。
すでに「マイ・フェア・レディ」「アニーよ銃をとれ」の江利チエミ主演ミュージカルで機は熟したか?に思われていた時期です。
しかし、この興行は「赤字」で集客ができなかったのです。
朝日新聞刊「戦後芸能史物語」でも、
>帝劇の舞台そのものが、当時はミュージカルを上演する場所としてなじみが薄く、劇場の使い方にもなれていなかった・・・ 機が熟していなかった...と評されています。 この舞台が成功に繋がるのは、2度目の上演... 8年後の昭和50年2月からです。アメリカから演出家サミー・ベイスを招き、抜本的な改革がなされてからです。

江利チエミ主演「キスミー・ケイト」の本邦初演はこの1年前の41年2月でした。
この話は ココ にあります。
この興行は残念ながら失敗に終わり、すぐ後の名古屋公演では主演が草笛光子さんに代わりますが、これもヒットはしませんでした。
コール・ポーターはまだまだ「早すぎた」のでしょう・・・
江利チエミにこのまま主演を勤めさせるわけにはいかない・・・という配慮もあっての降板だったそうです。

マイ・フェア・レディが好評裡に終了した後、色々批判も出た訳ですが、一番はチエミさんがキーを下げて歌ったこと。クラシックの人に「我々クラシックの人間にはあり得ない」と権威ある方々に言われたのです。
(※当たり前です!クラシックの歌手がテネシー・ワルツをあのように日本人に判りやすく、そして「民謡」をジャズのりで歌い、そしてなにより「美しい日本語」で歌うことは逆にできない!そして、チエミさんのアルトだから大衆に受け入れられたんだ・・・と私は思します。)
このことがキスミーケイトでキーを原曲に忠実に、下げても半音まで、と言う呪縛に執り憑かれ、チエミさんにとって取り返しのつかない結果・・・ポリープになってしまった最大の要因です。
ハスキーなアルトがメゾ・ソプラノキィで歌うということ自体・・・これは無謀です。
江利チエミが江利チエミのままに演じてよかったのだと思います。
この舞台が今でも永年のファンが一番悔やまれる公演・・・ではないでしょうか?

東宝ミュージカルを「ホンモノにしたい!」・・・この「ホンモノ」という呪縛。
いったいこの「ホンモノ」とは何だったのか?
大昔「付け鼻」をして「赤毛もの」を演じた時と、なんら替わらぬ「モノマネ」を目指したのではないだろうか???
これがこの時期、さまざまな失敗をした、いわば菊田一夫氏の「失策」でもあったのではないでしょうか?
後年の森繁ミュージカルは「森繁節」をそのままに、♪陽はのぼり また沈み 時移る~ 喜び悲しみを・・・と、日本人の心に訴える森繁節で堂々と歌った・・・これが「森繁のテビエ成功」の要因だったのでは?と思います。
当初、森繁さんに白羽の矢が立ったのは、アメリカで主演した俳優「ゼロ・モステロ」に似ていたから・・・という理由だったからだそうです。
観客は「モノマネ」を観にいくのではない...と思うのです。
森繁さんという人自身も丸裸の状態で満州から引き上げたいう憂き目にもあった経験を持っています。そんな彼が演じる「テビエ」を観客は観にいったのでは...と。
江利チエミのイライザに、アニーに...観客は「共感」と「感動」を覚えたればこそ「成功」に繋がったのだ...と思うのです。
歌劇団のお芝居を観にいくんじゃない。「ミュージカルというカテゴリーにくくられる云々は、多くの観客には二の次」なのではないだろうか?
39年、芸術座で「ノー・ストリングス」(雪村いづみ・高島忠夫)が上演されますが、ここは箱が小さくまずまずの入りで成功と報じられましたが、人種差別という難しいテーマが元のストーリーでもあり、「マイ・フェア・レディ」の方が面白かった!」という観客の声が多く、また「アメリカを意識しすぎて演技がオーバー!」など、非常に一般の評価は良くなかった作品でもありました。
   まだまだミュージカルは日本人には早すぎた...のでしょう。


江利チエミであればこその名唱:待てばいいのよ!


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