江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 少し遅れてやってきたシンデレラ 雪村いづみさん と 江利チエミさん

2021年08月16日 | 江利チエミ(続編)

yamapan2020さんUPの動画

驚きももの木20世紀(テレ朝)からの編集と思います。UPありがとうございます。

東宝の大プロデューサーで首領といわれた菊田一夫。彼は日本にミュージカルを根付かせたいという構想から、ジュリィー・アンドリュース主演でブロードウェイのロングラン記録も更新していたヒット作「マイフェアレデイ」の上演権を獲得します。
当初、東宝の舞台でのミュージカルはチエミには和モノ、雪村いづみには「赤毛もの」で...といった構想を持っていたようにも推察できます。
当初イライザ役は、雪村いづみにオファーが...
しかしその時いづみさんは最初の夫/ジャック・セラーの故国アメリカで、赤ちゃんだった長女マリアさんを胸に抱き...女性としての幸せを噛み締めていたとき。
彼女は丁重に菊田先生に辞退を申し入れます。
そして...「イライザには親友江利チエミを紹介します。イライザを演じられるのは江利チエミをおいて他にありません!」と手紙を菊田あてにしたためます。

昭和38年東京宝塚劇場、主演/江利チエミ 本邦初演ブロードウェイミュージカル
 「マイ・フェア・レディ」が幕を開けることになります。

当初はチエミさんも悩んで悩んでこの役を受けた...と思います。
また、世間の前評判も...
ハスキーなアルトのチエミがソプラノのジュリィ・アンドリュースの当たり役をするのはミスキャスト...とか、興行第一主義の安易なキャスティングなどとたたかれます。

しかし、実際の舞台が幕を開けると...
初めてのミュージカルにお客さんのほうにむしろ照れが見受けられるも、初日には数度もアンコールの拍手がなりやまず、出演者はみな感激の涙で前が見えないほどの大成功を収めます。
チエミさんはハスキーでアルトな声ということを、むしろ武器にかえ「待てばいいのよ」などダイナミックな歌唱でお客のハートをつかみます。
この芝居は、最初から江利チエミの為に書かれた物語じゃないのか?...と錯覚させるほどに。

この時の様子を次の本から読み取ることができます。
「戦後」~美空ひばりとその時代 著/本田靖春 講談社 より...
>・・・チエミは絶頂期へと向かう。62(昭和37)年には新宿コマの「スター誕生」で芸術祭奨励賞を、日劇の「チエミ大いに歌う」では第8回テアトロン賞を受賞し、東京宝塚劇場の「マイフェアレディ」でゴールデンアロー賞に輝いた。
このマイフェアレディを演出した菊田一夫は、初日の幕が下りたときに、手放しで泣いたといわれている。
それが菊田の自己陶酔ではなかったのは、たまたま来日中のロバート・ヘルプマンがチエミを激賞したことで証明された。
ヘルプマンといえば、英国「ロイヤル・バレイ団」の出身で、映画「赤い靴」「ホフマン物語」などの振り付けを担当した、世界でも有数のミュージカル・デレクターである。
別の目的で来日したのだが、チエミに国際級の折り紙をつけたのである。
「私はロンドン、ニューヨークをはじめ、あらゆる『マイフェアレディ』を観てきた。東京のももちろん。江利チエミは、どこの国のイライザにもひけをとらない。素晴らしいミュージカル女優だ」
江利チエミ株はこれで急騰した。・・・

この当時、日本テレビの「テレポール委員会」が実施した世論調査の推計も引用しておきます。
ファン数の対比
 ひばり:163万人 チエミ:135万人

女王ひばりとの差は肉薄します。


ブロードウエィミュージカル本邦初演「マイ・フェア・レディ」と江利チエミさんの話は、上に掲示しましたが、ここでまた補足を...

マイ・フェア・レディの原作は、イギリスの作家で機知に富んだジョージ・バーナード・ショウが1916年に発表した戯曲「ピグマリオン」です。
この物語...オウィディアスの「転身物語」が話の元になっています。
キプロスの王「ピグマリオン」は、白い象牙から美女の人形をつくります。王はこの人形に恋をして女神に魂を吹き込んで欲しいと懇願します。そして願いは聞き届けられ2人はめでたく結婚を...

この「ピグマリオン伝説」は後世においていくつかのバリエーションが生まれます...
その中のひとつがショウの「ピグマリオン」...ただ、彼のピグマリオンは元のストーリーと反してハッピーエンドでは終わらない。
当初ショウは自身の作品の映画化は決して認可しなかったのだが、ハンガリー生まれの大プロデューサー・ガブリエル・パスカルと知り合い、彼に全作品の映画化権を与えました。パスカルは1950年「ピグマリオン」のミュージカル化を計画、ラーナー・ロウに協力を依頼しますが、ショウもパスカルもあいつで亡くなり、しばらく棚上げになってしまいます。
しかし、1954年遺族の許可を得て、55年CBSから40万ドルの資金を受け、56年3月15日初日の幕をあけました。原作と舞台の差は、結末をハッピーエンドにしたところです。
イギリスの階級社会への痛烈な批判をこめて作り出されたブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」は結局1962年9月29日まで、実に2717回の続演公演を打ち立てる大ヒットとなりました。

この「マイ・フェア・レディ」というタイトルですが、高級住宅地「メイ・フェア」を、「マイ・フェア」と発音する(ロンドン・コクニー訛りを話す...サッカーのベッカムもこのコクニー訛りが抜けないとか)下層階級の女性の物語であることを題名に表している...のだそうです。

舞台の主演は、ヒギンズ教授にレックス・ハリスン...映画・演劇界でイギリスを代表する演技派スター。イライザのシュリィ・アンドリュースは当時新進スターで54年ミュージカル「ボーイフレンド」のブロードウエイ上演に初出演のために渡米したところを大抜擢されたのです。
舞台はロングラン...当然、映画化の際の主演もジュリィ・アンドリュースに...
しかし、イライザは(歌は完全に吹き替えの)オードリー・ヘップバーンになってしまいます。
この裏には...ジュリィがハリウッドのスクリーンテストを「なにを今更!」と断ったのが原因だったとか...
しかし、彼女は「メアリー・ポピンズ」で見事、アカデミー主演女優賞を獲得...
8つのアカデミー賞に輝いた映画「マイ・フェア・レディ」で、主演女優賞のみを逃したオードリーは次の作品「おしゃれ泥棒」で更にゲッソリとやつれて...その消沈は非常に大きなものだったそうです。
このイライザ役を厳しい選考争いから勝ち取った時、オードリーは歓声をあげながら家中を飛び回った...と伝えられています。
「ジャンヌ・ダルクよりもクレオパトラよりもやりたい役だった」とか...
オードリーは「ティファニーで朝食を」で窓辺でギターを爪弾きながら「ムーンリバー」を歌うシーンがありましたが、江利チエミのアルトなんて目じゃない位の低いハスキーボイス...最初から歌は吹き替えになるということは必然だったはず!
彼女の大抜擢は当時の「ヘップバーン人気」にあやかる...という部分も見え隠れするような気がします。
この「マイ・フェア・レディ」は後に「プリティ・ウーマン」としてリメイクされました。
1963年(昭和38年)9月、江利チエミマイ・フェア・レディ初演...
翌1964年にはオードリーの映画版が日本で公開されました。
東京宝塚劇場と同じ建物にあった「スカラ座」で封切りされたと思います。(再演と同時期の1月だったかも知れません...?)

江利チエミ版の舞台は大好評...
1964年1月には東京宝塚劇場での再演、5月には梅田コマ劇場でも再演されました。やはり、日本にミュージカルが本格的に根付いたのは、この「マイ・フェア・レデイ」によるところが一番大きかったといえると思います。
原作には「思いっきりなイギリス階級社会」への批判が根底にあったこの作品ですが、江利チエミという決して美人ではないけれどドル箱の庶民派スターが演じたことで、まずチエミ目当てのファンが会場に足を運んだということ。
また当時はまだまだ馴染みのなかったミュージカルを、非常に「親しみやすく」「とっつきやすい・わかり易いものにした」...という点で大きな成功に繋がったのだと思います。

また、日本人にとってついつい応援したい気持になる「判官びいき的な部分」...この作品の成功の最大の要因であったと思います。
江利チエミというキャラは「男性からも女性からも支持される大看板」であったこと...これも馴染みの薄い赤毛ものミュージカルで2ケ月のロングラン公演の集客を満たした大きな要因であったと思われます。
イライザが美空ひばりが...ってことは「当然考えられない」ですが、ひばりファン...とりわけ熱狂的な女性ファンが多い。これは彼女のある意味「中世的な魅力」によるものと思いますが、会場にこの「あまりに熱狂的な女性ファンが多い」ことは、「宝塚歌劇」同様、「おとなしいお客さん」「男性客」には「いたたまれない状況」を生み出します。
私は子供なりに一生懸命江利チエミ公演は通いつめました。チエミ熱ほどの熱心さはありませんでしたが美空ひばり公演にも数回足を運んでいます。
また他の舞台もいい作品は観にいきましたが、チエミ公演は思えば「男性客」が他の公演に比べ多かった気がします。
またお客さんも「ジェントル」でマナーがイイ...スマートに感じられました。
美空ひばりの舞台公演は「美空ひばりショウ」になるのに対し、チエミ公演は「ショウはショウ」「お芝居はしっかりお芝居!」というものでした。
※決してひばりさんは大根役者ではありませんでした。
女優としても一級の腕をもっていましたが、あまりに「美空ひばり」というキャラの濃度が濃いのだと思います。女優としての評価は彼女の場合二の次になってしまう...と感じていました。

舞台「マイ・フェア・レディ」の成功を受け、1963年に娘マリアさん、夫ジャック・セラーさんと共に生活の基盤を日本に戻した雪村いづみさんを主演に「ノー・ストリングス」が64年に東宝ミュージカル・ブロードウェイもの第2弾として上演されました。
(共演:高島忠夫さん 脚本は菊田一夫先生)
しかし、この題材は「人種差別」という、すこしばかりストレートに難しい物語であった為に、興行的には失敗に終わりました。

チエミさんはこの後、百万人の天使(新宿コマ)、アニーよ銃をとれ(新宿コマ・11~12月ロングラン)、キス・ミー・ケイト(東京宝塚)と、ミュージカル女優の道も突っ走ることになります。

※オードリーとの2ショット画像は日本のイライザが映画マイフェアレディを撮影中のA・ヘップバーンを訪ねたところ...だそうです。(拾い物です。)

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1 コメント

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Unknown (twig)
2021-09-04 19:35:02
もう、チエミさんのイライザですよ

残念ながら観ていませんが、

晩年まで、「もう一回マイフェアレディをやってみせる」と言われてました
いろんな役を演って、演技力もあったチエミさんでしたから、観てみたかったです
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