江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ マイフェアレディ 最後の楽曲

2020年12月24日 | 江利チエミ(続編)

あのひとに馴れた(あの娘に馴れた)

動画アップされた方のすてきな編集です!!
英語タイトル:I've grown accustom to her face でもわかる通り劇ではヒギンズ教授(高島忠夫さん)がイライザ(チエミさん)を思って歌う曲です。

昭和38年週間平凡(ちなみに定価50円)『マイ・フェア・レディを終えて』特別手記・江利チエミ...より

この記事でも「慎重だったチエミ」さんが、当初は「私が今までやってきたものとは雰囲気が違う」ということを思っていた。それは一番彼女が信頼を置いていたであろう亨(トオル)お兄さんも同意見だったこと...が語られています。

昭和38年2月、チエミさんはマイフェアレディのオファーを東宝からうけたそうですが、私の役柄ではない・・・いづみちゃんを(当時、在米でマリアさんを37年に生んでナイト・クラブなどでの仕事をこなしながら子育てをしていた)呼び戻して出演させたら・・・と思ったこと、11月に新宿コマで舞台が既に決まっていた(菊田一夫脚本「百万人の天使」)ことを理由に断っていることが書かれています。

※この配役オファーには諸説あるのですが、ひょっとすると東宝は「チエミ」「いづみ」双方に水面下でほぼ同時期に交渉していた可能性も見え隠れします。

さて、今度は4月チエミさんは東宝の専務室=菊田一夫氏の部屋に呼び出され、説得されます。
チエミさんはすでに昭和36年にニューヨークでこのミュージカルを見ていたのだそうです。
そして返事をおそらく半ば承諾、半ば保留した形で38年にハリウッドにマイフェアレディ公演を見に行きます。
そして、雪村いづみさんの自宅に2泊するのです。
そして今一度彼女は「トンコ!日本に戻ってマイフェアレディおやんなさいよ!菊田先生は私が話をつける」から・・・と。
しかし、彼女はマリアちゃんを胸に抱き、前よりすこし疲れてやつれて見えたそうですが、女性としての人生の至福の時...だった。
チエミさんはその足で、ハリウッドのワーナー撮影所を訪れ、映画版の撮影中のオードリー・ヘップバーンを訪ねます。下の写真はこのときのものだったのだそうです。
2月のリハーサル中は面会禁止!...のオードリーでしたがチエミさんとの面会を快諾してくれたのだそうです。 まさにこのとき、チエミさんに本格的にイライザのスイッチが入った・・・のかもしれません。昭和38年7月のエピソードでした。

 
イライザのロンドン・コクニー訛りを「翻訳劇として日本語に置き換えるため」に...
江戸弁の「ひ」と「し」が言えないベランメイスタイルを採用したことが書かれています。
また、チエミさん自身が「サシスセソ」の言葉をあまりはっきり発音しないように提案したことも書かれています。
※コクニー訛りのことは...
  http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/4b3dbbdf5515bee88035710fb4e709e8
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9月5日に、美空ひばりさんが観劇に来てくれて「やっぱり、やってよかったわね・・・」といった...

公演が続くにつれて評判がよく、三階の立ち見席もいっぱいになっていった...

当時はまだ客席で公演中にお弁当をあける人もいた...が、この舞台ではそんなことは一度もなかった...

ダーリン(当時の夫君)が舞台を見にきて「もう1回見てもいい」といってくれた...

公演を通して1回もトチルことがなかった...

公演20日目くらいにフレディ役の藤木孝さんが短いシーンですぐにイライザの歌になるシーンだったからよかったけれどワイヤレスマイクを忘れて舞台に出てしまったことがあった。
長いセリフの場面だったら喉を壊してしまうのでは...と思った。
※やはりもう当時、ワイヤレスマイクはちゃんと使われていたのですね。

同じころ、ボン(高島忠夫さん)が、チョコレートの蓋をあけて、ひとつ私の口に放り込む場面があった....その日に限って誰かが楽屋で食べてしまったらしく、開けたら中は空っぽ... しょうがないので私は食べたふりをして済ませました...

食べ物といったら、昼も夜も出ずっぱりで1時間しかなかった...
スタミナをつけるためにステーキを食べたり、時には好物の「鮭」や「目ざし」を持ち込んで焼いていました...   などなどエピソード満載です。


 


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