江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 江利チエミ テネシーワルツ 

2010年04月27日 | 江利チエミ(続編)

未確認ですが5/14(金)22:00~22:55
BS朝日さん「うたの旅人」という番組で、
 「テネシーワルツ/江利」チエミ」がオンエアーされる予定とか...
 未確認な部分があるので、受信できる方は再確認をお願いします。
こうやっていつまでも江利チエミさんが取り上げられて...嬉しい限りですね!!

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おそらく私の説とは違う内容になるだろうな??...と思うのでここで再度チエミさんのテネシーワルツのこと、チエミさんのデビューのころを掲載します。


ネット検索で貴重なジョー・スタッフォード盤がUPされていました。
 Jo Stafford - Tennessee Waltz http://www.youtube.com/watch?v=5Q8Js81p5C4

そしてこちらがたびたびこのブログでも取り上げているチエミさんのデビュー盤
 江利チエミ テネシーワルツ Tennessee Waltz http://www.youtube.com/watch?v=Nqf121MyoSc

ジョー・スタッフォード盤の最初のテイクを持っていませんでした。しかしのちに「100円ショップCDに入っていたジョー盤テネシー」を入手し、とくにチエミさんの2度目のテイク(29年)がジョー盤に「そっくり」なので、「江利チエミはパティ・ペイジのテネシーワルツをお手本にした」というのはおかしい... と思っていたのが、間違いなく「ジョー盤」こそが、進駐軍時代に江利チエミさんを可愛がってくれた米兵/ケネス・ボイド氏がプレゼントしたテネシーのうちの「1枚」に違いないと確信と変わったしだいです。
なにより「歌詞」がパティ・ペイジ盤は dancin' と チエミ盤/ジョー盤の waltzin' と全く違うのですから...

※ほかにも江利チエミ・テネシーワルツには 英語 にも 日本語 にも謎があります。
私の「説」は以下の通りです。

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江利チエミさんのデビュー曲
テネシーワルツの歌詞には様々な「謎」が秘められています。
過去に解明した(?)この歌詞の謎を編集・再掲示させていただきます。

オリジナル...は、P・W・キング作のカウントリー・アンド・ウエスタンです。
チエミデビュー盤は 荒削り で 男っぽい といった印象を受けます。
地方公演に行ったときに待ち構えていた沿道の聴衆から「な---んだ江利チエミって女なんだ」...といわれたエピソードもあります。
この男性が歌う失恋のCWが、お手本の1つに違いない...と思います。

江利チエミ/入社テスト盤のさわりが先般テレ朝さん「江利チエミさん」の特集でオンエアーされました。
When an old friend,I happened to see.
I introduced him to my loved one,and while they were... と歌っています。

これはオリジナル盤でもそうですが、
旧友=him に loved one=恋人 を紹介して...揚句に奪われる という男性用歌詞のままです。
 --->しかし本番では him --->her に歌い替えています。

これはもうひとつお手本があったからに違いない!
パティ・ペイジ?? 
いえいえ...彼女のものも聴いたでしょうが、チエミさんは ジョー・スタッフォードのファンであったし、日本では本命「ワルツの女王/パティ・ペイジ」のものより先に、ジョー盤が発売されていたのです。
また、ほとんどのテネシーワルツが...
I was dancin' with my darlin'... and while they were dancin'... であるのです。これはオリジナルのP・W・キング盤もそうです。
しかし、ジョー盤の方は ワルツを踊る ではなく、ワルツをワルツする...
I was waltzin' with my darlin' で  and while they were waltzin'...
このイギリス英語(?)的な歌詞なのです。
確実に手本としたのは、オリジナル盤とジョー盤だったと思います。

このレコードはチエミさんを可愛がってくれたケネス・ボイドさんというGIさんがプレゼントしたものだという記述までは書かれているのですが、誰の??というのはどの文献・文章にも残っていません。
しかし...わたしは絶対にこの2枚!と確信しています。

もうひとつチエミデビュー盤は歌詞に謎があります。
それは後年のレコーディングには歌いかえられている部分。
Now I know just how much,I have lost...これは現在入手できるP.W.キング盤/パティ盤/ジョー盤もそうです。
この部分を初回テイクのみ...
Only you know how much I have lost... と歌っているのです。
しかし...この歌詞は、カントリー&ウエスタンの歌手がこのパターンで歌う場合が多い...
昔、外国のものはなんでもかんでもJAZZだったころ、チエミさんとの競演も多かった黒田美治さんも昭和54年7月20日...これが最後のチエミさんとの共演だったと思われる「第34回ジャズフェスティバル(日比谷公会堂)」でもオンリーユーで歌っています。
 いま、しみじみ私は失ったのもものの大きさを噛みしめている...
      と
 ボクがどんなに大きなものを失ったか...それを本当に知っているのは君...
下手な訳詩ですが、どうもオンリーユーの方が別れたあとウジウジしがちな男らしい?歌詞で、逆に上の歌詞は、過去は過去!...と心底ではけっこう割り切ってる女の人らしい歌詞...と感じます。

チエミさんが手本にしたP・W・キング盤もオンリーユーの歌詞だったのではないかと思われます。(P・W・キング盤には両方の歌詞で歌うテイクが残っています。)

またニッポン語の歌詞と半々になることですが、チエミさんのキング入社をゴリ押しした初代/音羽たかし(訳詩のペンンネーム、歴代チエミさんの担当デレクターが襲名していきます)こと、和田寿三さんが「チャンポンで行こう!」というアイデアで英語/日本語チャンポンでのレコーディングとなりますが、最初に出来た歌詞がチエミさんにはどうしても納得がいかない...ようやく受かったキングの大デレクターに14歳の少女ははっきりと涙ながらに本番直前に訴えます!
「あの詩じゃ歌えない!あの詩はワルツにのらないの...」と...

※その歌詞はこうです... (去りにし夢~麗しテネシーワルツの箇所です。)

♪涙で聴く あのテネシーワルツ 儚い恋のうた
   一人で帰った あの夜も聴いた 美し(うるわし)テネシーワルツ

そして本番直前、和田デレクター苦肉の即興であの歌詞が生まれます。

♪去りにし夢 あのテネシーワルツ なつかし愛の歌 
         面影偲んで 今宵もうとう 麗しテネシーワルツ

♪思い出懐かし あのテネシーワルツ 今宵も流れ来る
         別れたあの娘(こ)よ 今は何処 呼べど帰らない...

このリフレインの思い出~のフレーズは後年のレコーディングからは割愛されます。
それは、ジョー盤の影響とも思われますが、訳詩の部分の あのこ(あの娘)と、himからherへと歌いなおしている英語歌詞との「整合性のなさ」に後から気がついたのでは??というようにも思えるのです...

※NOW I KNOW... と ONLY YOU... の歌詞については、やはり元々のオリジナル/P・W・キング盤の影響だった... ゆえに「少女歌手/江利チエミ」が可愛がってくれた米兵/ケネス・ボイドさんにもらったレコードは、ジョー盤&P・W・キングのカントリー盤の2枚であった... と力説させていただきます。

※動画サイトの
   http://www.youtube.com/watch?v=K6ejvhIrA94
これは昭和51年テレ朝「にっぽんの歌」です。このとき久々に日本語で封印されていた歌詞を披露したのです。それ以前はほとんど「思い出懐かし」の部分は歌われてはいなかったのです。

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※先日(5/16)朝日新聞で毎週土曜日に配達される be に、江利チエミのテネシーワルツ...という特集がありました。
しかし私とは見解が違います。
 というか... これに疑問符をつけている私が少数派のようなのですが...

◆あきらかに間違ってる点/不明瞭な点

1)横浜の戸塚のキャンプ<---あきらかにNG
 これは進駐軍/東京・新宿に程近い「戸塚」の駐屯地のはずです。

※横浜/旧戸塚区の「深谷」「上瀬谷」通信隊...ではなく、「戸塚駐屯地」である...と。
間貸ししていたダンサーのお姉さんに誘われて(親に内緒で)キャンプで歌ったのがチエミさんの進駐軍デビュー... 小学生の大家さんの娘を吉祥寺から横浜まで、まさか間借りしているダンサーさんが連れ出すわけはないでしょうし、チエミさんも とつかのきゃんぷ とテレビで話していました。 横浜の戸塚=とづか です。

2)あたかも「横須賀の米兵」から「パティ・ペイジ」のテネシーワルツのレコードをプレゼントされる...との記載もあったのですが...
米兵=ケネス・ボイド氏は「横須賀在勤の兵士」であったかどうかは確証がなく、またプレゼントされた「テネシー」のレコードは「P・W・キング」と「ジョー・スタッフォード」盤である可能性が濃い...
チエミさんは「米兵さんに可愛がってくれる人がいて銀座線の電車にその人が乗ってくるのを待って電車の中で英会話を習った」と発言していました。
この人=ボイドさんでは?? だとすれば東京在勤の進駐軍の兵隊さんなのでは?
立証できる文章は残っていないのですが。

3)歌手のスタートは「進駐軍」に限定はできない...
   というか昭和23年11~12月の銀座にほど近い演芸場の「新富劇場」だったのでは?というのが私の説です。

※この考察については...
http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/a13dffecea2a4a0fe9ea1a45aa0caddf

http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/d9be9688e6b31e2bb7069efa7dfdabe7

この過去の2つの記事(そしてそこからジャンプできる関連記事)をご参照ください。1)2)3)についてのわたしなりの「疑問符」と「これまでの説をくつがえす私の推察」がそこに書いてあります。

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この貴重なデビュー盤...
 悲しいかなクレジットミスがある話...

 よ---く 作詞・作曲者をご覧ください・・・
R・スチュアート P・W・キング・・・ これが本当の「テネシーワルツ」の作者であります。

この裏面の「家へおいでよ」の作者のクレジットが載っています。(R.Bagdasarian. W.Saroyan )
初版は「表裏逆」のクレジット記載となってしまっているのです。
そう... 家へおいでよ の面に R・スチュアート P・W・キング と記載されているのです。

キングレコードさんは残念ながらクレジットミスが多いのですが・・・       
「キング」さんは「舶来モノをカバーで発売する」のには慣れていなかった...ともいえる気がします。
江利チエミデビューは「一か八かの賭け」だったのでは...と、このミスクレジットからも想像できると思います。

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※そしてテネシーワルツを日本でレコーディングしたのは江利チエミさんだけではなかったのです...

丸...という雑誌がありました。
(現在発刊されている戦争モノ「丸」誌とは別物です。)
昭和27年11月「丸」で、江利チエミを扱った記事があります。
『p25~31.ジャズ界を魅了する十五歳の江利チエミ』に、私の見落としていた事柄を発見しました。
>テネシーワルツは、アメリカでケイ・スターという歌手が(<---これはこの記事の間違いであると思います。ケイ・スターはテネシーワルツを吹き込んではいないと思われます。和製ケイ・スターなるキャッチで記者がパティ・ペイジと間違えていると...)吹き込んで数百万枚売ったという代物であるし、日本に輸入した盤だけでも2~3種類あり(<---日本では本命パティ盤よりも、ジョー・スタッフォード盤がコロムビアより先に発売になったこと...などは、本編でも先に述べています。)翻訳して日本の歌手が吹き込んだものでも、ビクターの灰田勝彦、タイヘイのエト邦枝のものがまだあるというのに、江利チエミのテネシーワルツは群を抜いて全国通津浦裏に流行っているのだ。・・・

『翻訳して日本の歌手が吹き込んだものでも、ビクターの灰田勝彦、タイヘイのエト邦枝の・・・』...これは完全に私も見落としていました。
テネシーは競作... すでに発売されていて、ゆえにキングは「ダイナ」と「ブルー・ヘブン(私の青空)を打診した。
参考記事)http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/6b0d09a5ceb1ab12d145f5aa4198805f
しかし、チエミさん自身が、頑として「テネシーワルツ」と「カモンナ・マイ・ハウス(家へおいでよ)」で行きたいと主張してなんとかデビューを果たした... のでは。


灰田勝彦さんとは...
>1911年(明治44年)8月20日、米国ハワイ州ホノルル生まれ。歌手。
兄に、作曲家でウクレレ奏者の灰田晴彦(有紀彦)がいる。
1923年(大正12年)、両親とともに日本に凱旋帰国をするが、所持品全てを盗難にあい、
日本定住を余儀なくされる。
1930年(昭和5年)立教大学入学。兄の作ったモアナ・グリー・クラブに参加し演奏活動を行う。
1936年(昭和11年)大学卒業と同時にビクターの専属となり歌手デビュー。ハワイアンや流行歌を歌う。
1982年(昭和57年)、死去。

代表曲
(ハワイアン)
ハワイのセレナーデ(昭和11年)
真赤な封筒(昭和14年)
お玉杓子は蛙の子(昭和15年)
(流行歌)
燦めく星座(昭和15年)
森の小径(昭和15年)
新雪(昭和17年)
鈴懸の径(昭和17年)
加藤部隊歌(昭和18年)
ラバウル海軍航空隊(昭和18年)
紫のタンゴ(昭和22年)
東京の屋根の下(昭和23年)
水色のスーツケース(昭和26年)

エト邦枝さんとは...
>宇佐美エトと名乗っていた時期もあったとか...
昭和30年、カスバの女を最初に吹き込んでヒットさせたのはこの人です。
後の沢たまき、竹越ひろ子...らの競作の吹き込みはリバイバルでのものです。

エト邦枝さん...おそらくはこの時期「洋モノ」を歌う歌手だったと思われます。
チエミさんとはどうでしょう...10歳は歳の開きはあったのでは?

テネシー=日本では江利チエミがルーツとばかり思っていましたが、いわば隠れたディスコグラフィーとして「灰田盤」と「エト盤」が存在していたようです。

テネシーワルツはチエミ盤が発売される段階で、先輩歌手が既に吹き込んでいた...というこの記事を、私は以前に八幡山の大宅壮一文庫さんに篭り発見したしだいです。
大宅文庫には「江利チエミ」で検索できる記事が(インデックスに載っているだけでもリアルタイムのもので)500余のものがあります。(没後のものを含めるともっと膨大なものになり、角度を替え「美空ひばり」「雪村いづみ」...と調べてもその記事はまた膨大に膨らむのです。)

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江利チエミさんのことは「まだまだ明らかになっていない事柄」が多いのです。
また「通説となっているパティ・ペイジのテネシーワルツ」も絶対に違いますし、カモナ・マイ・ハウスもローズマリー・クルーニーが手本ではなくケイ・スター盤なのに... などなど、間違って伝えられているものが多いのが残念でなりません。
このことも「レコード」を聞き比べてくれれば「明白」なはずと思うのですが...

参考記事)
 http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/6b0d09a5ceb1ab12d145f5aa4198805f

ここをご訪問くださる方にはお知らせしたい...と、再編集して記事にしました。
 チエミさんのルーツの話...ですがら。






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4 コメント

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こんばんは。 (よっちゃん)
2010-04-24 22:45:34
今日届いた スカパーのテレビガイドに この番組が載っていました。また、録画してお送りいたします。忘れたらいけないので 放映間近にミクシィのメッセージなどで お知らせくださいまし。
返信する
ありがとうございます。 (うーでぶ)
2010-04-25 07:42:55
私の説は前回の朝日新聞さんを否定するものですし、このような偏狭のブログ管理人の意見など反映されることもないと思います。
ただただ良い番組となる事を一ファンとして祈っています。
返信する
はじめまして。 (JOJO)
2010-07-06 20:18:00
その昔、黒田美治(くろだびじ)というカントリーミュージックの草分けとなったかたがいらっしゃいました。
このかたのバックバンドのバンマスだった山口玉三郎というかたが、「黒田さんが生前、ステージでテネシーワルツを歌ったあとに一人の女の子が目を輝かせながら≪おじさん、その歌、わたしに教えて≫と言ってきた。彼女は後年、江利チエミとして成功した。とよく語っていらした。」
とおっしゃってました。

真実はわからないけれど、どちらにしてもロマンチックでいい話ですね。
返信する
はじめまして (うーでぶ)
2010-07-06 21:41:18
貴重なコメントありがとうございます。
黒田さんは私もナマでステージ拝見したことがあります。

新たな考察ができます。
貴重なエピソード ありがとうございます。
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