久保益雄さん...
江利チエミさんのお父様です。
久保益雄さんは1906年(明治39年)福岡県田川郡添田町の雑貨商を営む久保家の5人兄妹の3男として生まれています。
>独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、チエミが生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業の所属になっていた・・・ 後に柳家三亀松さんのピアノ伴奏/相三味線まで勤めるように・・・
どういった経歴でミュージシャンになったのかは実の妹さんにもわからない(著書/テネシーワルツが聴こえるより引用)... といった、ある種のベールに包まれている方ですが、このたび「日本の音楽史」を研究されている方とのやりとりから貴重な情報を得ることができました。
久保益雄さんは、相当腕のいい超一流のミュージシャンだったことがしっかり判明しました。
※現在研究をまとめられているところ無理を聞いていただいて、こちらで掲載させていただける運びとなりました。
また、研究がまとまられましたらこのブログでリンクさせていただけることにも...
皆様!!
期待してくださいね!!(私も待ち遠しいです。)
--久保益雄さんに関して-------------------------------♪
>1.)久保益雄さんは、バンド屋の“大日本中央音楽団”の出身だった。
>バンド屋とは、明治から昭和初期まで存在した、職業音楽家、ジンタの派遣業のこと。大日本中央音楽団とはバンド屋の最大手。 『日本の洋楽 第1巻』(大森盛太郎著:1986:245p)には、大日本中央音楽団について書かれており、その構成員に“久保益男”とある。なおジンタといっても、今日想像されるような騒々しいものではなく、本格的な西洋音楽の演奏を志向した者もあった。大日本中央音楽団からも一流の音楽家を多数輩出している。
>2.)太平洋を航行する豪華客船の音楽家としてある時期を過ごした
>大正初期から太平洋戦争まで、横浜とサンフランシスコを結ぶ客船に実力ある音楽家が乗り組み、演奏していた。その乗組員については、アメリカ国立公文書館に保存されている当時の乗組員のリストから確認できる。
>1926年10月にサンフランシスコに到着した豪華客船“さいべりや丸”の乗組員のリストには、氏名“Kubo Masuo”、職業“Musician”、年齢“21”の人物の記載があります。
※(う--でぶの注釈)
当時は「数え年」で自分を表わすのが日本人の常ですから今の20歳=当時の21歳です。それとお正月にみな一歳年をとる...というのが一般的だったと...
>船の音楽家は、大正初期から戦前昭和初期にかけて、多くの音楽家の憧れでした。戦前・戦後の日本ジャズ史の第一人者ともいえる内田晃一は次のように書きました。(内田晃一『日本のジャズ史 戦前戦後』(1976),22p)
>アカぬけたアメリカ帰りの身だしなみ、本場のショー、バンドの土産話、その頃の船の楽隊はバンド界のエリートだった。昼と夕べのサロン・ミュージックと土曜夜のダンス・パーティー、上陸前夜のお別れコンサートなどなど輝く星の下、白い波をけたてて太平洋を渡る豪華船での「船の楽隊生活」は、古き良き時代のジャズを語るに欠かせない一ページである。
>黎明期の日本のオーケストラやジャズ界で活躍した音楽家・紙恭輔は、東京新聞の記事にこう書きました(紙恭輔 「あのころのジャズ」(『東京新聞』) 1957/10/7)
>大正末期から昭和の初めにかけて、オーケストラ・プレイヤーの補給源は主として“戸山”“海軍”“船”の三つであった。戸山とは、戸山学校陸軍軍楽隊のことである。この三つのうちで、とりわけ“船”出身の音楽家は尊敬されていた。彼らは、当時としては一等モダン派だったからである。だから、私達がまだかけ出しの楽隊だったころ“船”の楽隊といえば一目置いたものである。
-------------------------------------------------♪
江利チエミさんのお父さまは若くして才能を開花させた相当な天才肌のミュージシャンだったことが偲ばれます。
また「戸山」=戦後、進駐軍に接収された「戸塚キャンプ」になったエリア。
(戸山地区には昔「戸塚」という町名もありました。横浜ではありません。)
進駐軍歌手/江利チエミ誕生の地...であることもなにかの縁だったのかもしれません。「戸山」「海軍」「海」が日本のミュージシャンのルーツ...
益雄お父さんがもしも戸山育ちでその後「海」へと進出した...としたら...
お父さんはチエミさんがプロ歌手として活動することへの心配も大きかったでしょうが、「自分と同じ道を歩んでくれる」ことへの「喜び」「期待」そして「誇り」もさぞかし大きなものだったろう...などと想像が膨らみます。
チエミさんの長兄/トオル兄さんも軍関連のエリート校の卒業生... 益雄お父さんも背が高くがっしりした方でしたから戸山学校のエリートで音楽の才に秀でていたために、それまで「特別な音楽教育」を受けていなかったものの、軍学校で「エリート教育」を受けて才能をいっぺんに開花させた...という可能性も想像できます。
(想像は膨らみます!)
本当に興味深い情報を賜り... ありがとうございました。
※トップ画像は三鷹/牟礼に立てたチエミ御殿で...
父君:久保益雄さん 娘:江利チエミ(久保智恵美)さん
さいべりあ丸...
北日本汽船の「豪華客船」です。
詳しくは...
http://homepage3.nifty.com/jpnships/ships_topics.htm
↑
こちらをご参照ください。
チエミさんは謙遜して... 父は今のクィーンエリザベスみたいなものじゃないのでしょうが客船のバンドマスターだったのです... と語ったことがありました。(自分の名前が智恵美=昭和12年当時は珍しいモダンな名前であることに答えて)
何をおっしゃる...
クィーンエリザベス並みの豪華客船であったわけです。
チエミさんのお父さんの故郷添田町
http://www.its-mo.com/map/?action=addr&lvl=11&lat=120846800&lon=471082760&id=40602,%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%94%B0%E5%B7%9D%E9%83%A1%E6%B7%BB%E7%94%B0%E7%94%BA
↑
この町から益雄お父さんは世界に通じるミュージシャンとして太平洋航路で活躍するようになったわけですね。
江利チエミというひとには、このお父様、そして西に天津乙女あり、東に谷崎歳子ありと小林一三にいわれたお母様... その素晴らしいベースがあったわけです。
江利チエミさんのお父様です。
久保益雄さんは1906年(明治39年)福岡県田川郡添田町の雑貨商を営む久保家の5人兄妹の3男として生まれています。
>独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、チエミが生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業の所属になっていた・・・ 後に柳家三亀松さんのピアノ伴奏/相三味線まで勤めるように・・・
どういった経歴でミュージシャンになったのかは実の妹さんにもわからない(著書/テネシーワルツが聴こえるより引用)... といった、ある種のベールに包まれている方ですが、このたび「日本の音楽史」を研究されている方とのやりとりから貴重な情報を得ることができました。
久保益雄さんは、相当腕のいい超一流のミュージシャンだったことがしっかり判明しました。
※現在研究をまとめられているところ無理を聞いていただいて、こちらで掲載させていただける運びとなりました。
また、研究がまとまられましたらこのブログでリンクさせていただけることにも...
皆様!!
期待してくださいね!!(私も待ち遠しいです。)
--久保益雄さんに関して-------------------------------♪
>1.)久保益雄さんは、バンド屋の“大日本中央音楽団”の出身だった。
>バンド屋とは、明治から昭和初期まで存在した、職業音楽家、ジンタの派遣業のこと。大日本中央音楽団とはバンド屋の最大手。 『日本の洋楽 第1巻』(大森盛太郎著:1986:245p)には、大日本中央音楽団について書かれており、その構成員に“久保益男”とある。なおジンタといっても、今日想像されるような騒々しいものではなく、本格的な西洋音楽の演奏を志向した者もあった。大日本中央音楽団からも一流の音楽家を多数輩出している。
>2.)太平洋を航行する豪華客船の音楽家としてある時期を過ごした
>大正初期から太平洋戦争まで、横浜とサンフランシスコを結ぶ客船に実力ある音楽家が乗り組み、演奏していた。その乗組員については、アメリカ国立公文書館に保存されている当時の乗組員のリストから確認できる。
>1926年10月にサンフランシスコに到着した豪華客船“さいべりや丸”の乗組員のリストには、氏名“Kubo Masuo”、職業“Musician”、年齢“21”の人物の記載があります。
※(う--でぶの注釈)
当時は「数え年」で自分を表わすのが日本人の常ですから今の20歳=当時の21歳です。それとお正月にみな一歳年をとる...というのが一般的だったと...
>船の音楽家は、大正初期から戦前昭和初期にかけて、多くの音楽家の憧れでした。戦前・戦後の日本ジャズ史の第一人者ともいえる内田晃一は次のように書きました。(内田晃一『日本のジャズ史 戦前戦後』(1976),22p)
>アカぬけたアメリカ帰りの身だしなみ、本場のショー、バンドの土産話、その頃の船の楽隊はバンド界のエリートだった。昼と夕べのサロン・ミュージックと土曜夜のダンス・パーティー、上陸前夜のお別れコンサートなどなど輝く星の下、白い波をけたてて太平洋を渡る豪華船での「船の楽隊生活」は、古き良き時代のジャズを語るに欠かせない一ページである。
>黎明期の日本のオーケストラやジャズ界で活躍した音楽家・紙恭輔は、東京新聞の記事にこう書きました(紙恭輔 「あのころのジャズ」(『東京新聞』) 1957/10/7)
>大正末期から昭和の初めにかけて、オーケストラ・プレイヤーの補給源は主として“戸山”“海軍”“船”の三つであった。戸山とは、戸山学校陸軍軍楽隊のことである。この三つのうちで、とりわけ“船”出身の音楽家は尊敬されていた。彼らは、当時としては一等モダン派だったからである。だから、私達がまだかけ出しの楽隊だったころ“船”の楽隊といえば一目置いたものである。
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江利チエミさんのお父さまは若くして才能を開花させた相当な天才肌のミュージシャンだったことが偲ばれます。
また「戸山」=戦後、進駐軍に接収された「戸塚キャンプ」になったエリア。
(戸山地区には昔「戸塚」という町名もありました。横浜ではありません。)
進駐軍歌手/江利チエミ誕生の地...であることもなにかの縁だったのかもしれません。「戸山」「海軍」「海」が日本のミュージシャンのルーツ...
益雄お父さんがもしも戸山育ちでその後「海」へと進出した...としたら...
お父さんはチエミさんがプロ歌手として活動することへの心配も大きかったでしょうが、「自分と同じ道を歩んでくれる」ことへの「喜び」「期待」そして「誇り」もさぞかし大きなものだったろう...などと想像が膨らみます。
チエミさんの長兄/トオル兄さんも軍関連のエリート校の卒業生... 益雄お父さんも背が高くがっしりした方でしたから戸山学校のエリートで音楽の才に秀でていたために、それまで「特別な音楽教育」を受けていなかったものの、軍学校で「エリート教育」を受けて才能をいっぺんに開花させた...という可能性も想像できます。
(想像は膨らみます!)
本当に興味深い情報を賜り... ありがとうございました。
※トップ画像は三鷹/牟礼に立てたチエミ御殿で...
父君:久保益雄さん 娘:江利チエミ(久保智恵美)さん
さいべりあ丸...
北日本汽船の「豪華客船」です。
詳しくは...
http://homepage3.nifty.com/jpnships/ships_topics.htm
↑
こちらをご参照ください。
チエミさんは謙遜して... 父は今のクィーンエリザベスみたいなものじゃないのでしょうが客船のバンドマスターだったのです... と語ったことがありました。(自分の名前が智恵美=昭和12年当時は珍しいモダンな名前であることに答えて)
何をおっしゃる...
クィーンエリザベス並みの豪華客船であったわけです。
チエミさんのお父さんの故郷添田町
http://www.its-mo.com/map/?action=addr&lvl=11&lat=120846800&lon=471082760&id=40602,%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%94%B0%E5%B7%9D%E9%83%A1%E6%B7%BB%E7%94%B0%E7%94%BA
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この町から益雄お父さんは世界に通じるミュージシャンとして太平洋航路で活躍するようになったわけですね。
江利チエミというひとには、このお父様、そして西に天津乙女あり、東に谷崎歳子ありと小林一三にいわれたお母様... その素晴らしいベースがあったわけです。