江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ どうしても書いておきたいこと(2)

2007年01月19日 | 江利チエミ(続編)

彼女に実刑判決が下ったあと、昭和49年3月の週刊誌から...

義姉のことはここから「Y」と表現します。

Yは昭和8年4月に名古屋のN尋常小学校に入学します。
この学区は繁華街から程近く、東京で言えば麹町の番町小学校...といった裕福な商家の多い地域だった。しかし彼女の家は芸者置屋さんに出入りして着物のつくろいをして生計をたてる貧しい家庭だった。
しかし、Yは家業の手伝いもしながら決して卑屈なことろはみせない成績も優秀で1年~5年生まで級長を務めるような子供で、学芸会の演劇や、物語の読み聞かせが得意な少女だった。
彼女の育ての母はとても人柄のいい人間であったが、Yが6年生の時に早世します。
そして貧しいがゆえに女学校には進学できない...そんな事情から急に成績は落ちていった...と(級友の証言より)。
そして育ての母から亡くなる前に「あなたの本当のお母さんは旅芸人だった」と聞かされます。

チエミさんとYの実母、谷崎歳子さんは「東京少女歌劇」という大正末期から昭和初期に流行した「少女歌劇」という名のレビュー劇団のスターでした。
その劇団の座長格だったSという俳優と結ばれ巡業中にYを生みますが、谷崎歳子さんはS氏とは別れ、楽団長であった久保益雄さんと結婚し新たな家庭をつくります。
Yは養女に出されることに...

Yは小学校(高等科)を卒業後、当時は難関であった電話局に市外通話係として2年勤務した後に昭和18年に退社、鉄工所の女工に転職。
また、愛知県西春村の児童疎開の炊事婦に転職、終戦は養父母の弟の家で家事手伝いをしている時に迎えます。
名古屋も大きな戦争による被害をこうむったことがこの転職につながったのか...
あるいはより高い給料を求めてのことだったのか...
昭和21年11月、Yは腕のいい仕立て屋のY氏と結婚します。
「腕に職のあるひとは喰うに困らない」...と。

Yが「江利チエミ」に異常なまでの興味を持つようになったのは昭和28年7月のこと。
江利チエミの母が「東京少女歌劇」のスター「谷崎歳子」と知ったからです。『あの歌手が私と血のつながりのある人間かも知れない』...と。

(S氏の率いる東京少女歌劇は東京から名古屋に大正9年8月に本拠地を移しています。名古屋で養女に出されたというのは、こういった事情からだったかも知れません。)


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