旧刊時空漂泊

さまざまな本・出版物がランダムに現れます。

南街映画劇場パンフレット

2011-07-29 22:57:58 | 日記
昭和13年6月8日 発行
編輯兼発行人 吉村 豊
発行所 南街映画劇場
印刷所 プラトン印刷社
縦19cm、横13cm

     

表紙 竹久千恵子
パンフレットの下部に次の言葉が出ています。
         今週の映画
        八日ヨリ十四日マデ
こういうパンフレットは週刊だったのでしょうか。
梅田映画劇場の案内欄には「九日より十五日まで」とあります。
「国民精神總動員」という言葉も出現します。

日満支石炭時報 第十八號

2011-07-24 12:55:26 | 日記
昭和16年10月30日 発行
社團法人 日満支石炭聯盟 

        


表紙 米国露天掘炭坑に於ける十九立方碼能力電気ショベル

          
写真の説明は次のようです。
   (上圖) 佛領印度支那のホンゲイ炭礦に於ける石炭捲卸、運搬の状況と積出港
   (下圖) 佛領印度支那のホンゲイ炭礦に於ける露天掘の實況 従業者は安南人

昭和15年(1940)9月に日本軍は北部ベトナムに「進駐」しています。歴史年表では仏印進駐。
ホンゲイ炭礦の無煙炭が重要目的だったのでしょう。
50日後に戦争を始めるアメリカの「電気ショベル」が表紙を飾るというのは不思議な話です。
アメリカの工業力を日本人に伝えようとした人がいたのでしょうか。

        
写真の説明
     佛領印度支那のホンゲイ炭礦
     ホイゲン炭の積出驛
     同上山元より捲卸し場迄の炭車手押運搬

ところで、日満支石炭聯盟の所在地は東京麹町區丸の内一丁目二、仲二十八號館
になっています。

最初の一冊

2011-07-14 13:37:00 | 日記
紀田順一郎 著

1981年3月31日 第1版第1刷発行

三一書房 刊



       



著者が少年時代に接した本と「戦争の時代」についての回想です。

読了した紀田順一郎氏の著作のなかで最も愛着のある本です。

「V 炎の予感 <地図帖>」の中に次の記述があります。



        【いまも、私は時折、この丘の上からわが町を見おろすことがある。外人居住地の山手の丘にかこま

        れた盆地にひしめく無慮何十万という住宅の波は、見なれた者にさえ息を呑ませるに十分である。横

        浜市中区の本牧地方の住宅地は、東京都の江東区、墨田区、世田谷区などと並ぶ全国有数の住宅

        密集地であろうと思う。

         むかしの世代は一生に少なくとも二度、天災か戦争に遭遇したという。私の両親は大正初期の生ま

        れで、関東大震災と第二次大戦の空襲という二度の大打撃を経験している。

         「今度は自分の番だな」

         と私は思う。東海大地震や未知の直下型地震が念頭にあるからだ。九九%の確率で、私は再び焼

        け跡を見ることになると思っている。】                (175頁)



この本を読んでから、30年が過ぎました。

その間に、阪神淡路大震災、東日本大震災が起こりました。

「今度こそ自分の番だな」と考えています。

歴史の暮方

2011-07-12 09:59:31 | 日記
林 達夫 著
昭和21年9月30日 発行

筑摩書房 刊



              



本書の「鶏を飼ふ」という文章の次の一節が非常に印象に残っています。


     「去年の秋、わが国の養鶏界では二羽の白色レグホーンと同じく二羽の横斑プリマス・ロ
     ックが一年三百六十五日を一日も休まずに卵を産みつづけてつひに世界待望の輝かしい記

     録をつくった。丁度それを合圖のように、日本養鶏の全面的崩壊がはじまったのである。
     たった三四ヶ月のうちに、忽ちにして五千萬羽もゐた鶏が最小限に見積もってもその二三割
     を失った。愛知縣では四五割だと云われてゐる。しかも農林省は有名な増産五ヶ年計畫な
     るものを發表して、その努力に乗り出した第一年目なのである。満洲からは苞米(唐もろ
     こし)も高粱も大豆粕もろくろく来ない。しかも大豆粕たるや魚粉と共に無機質肥料の逼
     迫のため慌てて作られた有機質肥料會社との争奪の的である。佛領印度支那や爪哇や南米
     の苞米、カナダの小麥屑が殆ど輸入できなくなった故にこその飼料難だから、そこから

     何かを期待することもできない。」     (163~164頁)

                                              

「鶏を飼ふ」は岩波書店『思想』214号、1940年3月号初出。

  (『林達夫著作集4 批評の弁証法』平凡社 412頁 解題による)       

満洲の苞米、高粱、大豆粕はなぜ来ないのか。

「満洲は日本の生命線」というスローガンは何だったのでしょう。

林達夫は昭和研究会に参加していたようですから、満州の事情も知っていたかもしれません。

十誡

2011-07-01 20:33:26 | 日記
トーマス・マン 著
加藤子明 訳
1948年11月20日 発行
世界の日本社

          



          「先づその装釘を遠く盤谷(バンコック)に滞在中の里見宗次畫伯に、
          更に挿繪をわが前衛派の巨匠福澤一郎畫伯に依嘱し、坊間流布の
          一般出版物とは確然異なるものにするに努めた。サトミの名は、往時
          巴里に於いて畫家のフヂタと並び、邦人の最大出色者として喧傳され
          た圖案界における第一人者であって、   ・・・中略・・・
          たゞ、彼が送り届けた原圖案は今の日本に於いては餘りにも豪華過ぎ
          るものであり、到底資材や經費やの上からそのまゝに採用することが
          できず、僅かの部數にそれを用いることにしたゞけで、普及版にはそれを
          應用せる圖案を制作・使用するの他はなかったことは、獨り彼に對しての
          みならずわが読書界に對しても、遺憾この上もない次第である。」
                                           (11頁)

僅かの部数の特装版が出版されたようです。

そして、それはトーマス・マンの手元にも届けられました。



 『トーマス・マン日記 1949-1950』 紀伊國屋書店 53頁

          「パシフィク・パリセイズ、

           四九年二月十四日 月曜日

           『十誡』の日本語版の金糸で綴じたコピー、美しい印刷。」

           

 『トーマス・マン日記 1949-1950』 紀伊國屋書店 101頁

          「パシフィク・パリセイズ、

           四九年四月一日 金曜日

           『掟』の日本語版を国会図書館での展示会のために。」



特装版『十誡』は何部、現存しているのでしょうか。