旧刊時空漂泊

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日本三大洋食考

2015-07-20 11:34:04 | 日記
著者 山本嘉次郎
昭和48年6月15日 第1刷発行
装釘者 伊丹十三
発行所 株式会社昭文社出版部

    

日本三大洋食とはライスカレー、コロッケ、トンカツのことです。
「コロッケの巻」に次の一節があります。

      ワイフもらって
      嬉しかったが
      いつも出てくる
      おかずはコロッケ
      きょうもコロッケ
      あすもコロッケ
      これじゃ年ごら年中 (年がらの誤植?)
      コロッケ
      アッハッハ、アッハッハ
      こりゃおかしい

   大正初期に流行した「コロッケの唄」である。
   これは、帝劇で上演されたオペレッタ「カフェーの夜」のなかで歌われた一節であるが、
   この歌だけが独立して、世間の流行歌になってしまった。
           (中略)
    作者は、益田太郎冠者である。太郎冠者は三井の大番頭益田孝男爵の御曹子である。益田孝
    は明治大正きっての茶人であった。鈍翁と号し、織部、遠州と並らぶ日本の三大茶人といわれた。
    その御曹子がコロッケの唄を書いた、これがそもそもの間違いであった。
     太郎冠者は帝劇の大株主であったので(一時期は社長でもあった)、その顔を利かして道楽半
    分にいろいろ脚本を書いて上演したが、受けたのは、この「カフェーの夜」一本くらいであった。
           (中略)
     ところが大流行のコロッケの唄を聞いて、首をひねるひとが多かった。
    ――さすがは大金持のセガレだけあらァ、毎日毎日のおかずがコロッケなんて、豪儀なもんじゃ
   ねえか。
    ――こちとら、コロッケなんて話にゃ聞いたことがあるけど、まだお姿さえ拝んだこたァねえぜ。
   というのである。
   そんな時代だった。一般庶民にとって、洋食を食うなんて、容易ならざることであった。
           (中略)
    よしんば、有福な家にしても、家庭でコロッケを作るのは、面倒な技術を要して、素人の手に負える
   ものではない。
    当時は、そのような、本格的なコロッケしか存在しなかった。
    ところが、太郎冠者はコロッケは洋食のなかでは一番カンタンなものであり、一番安物であると思い
   込んでいたのである。益田邸では、コックの二人や三人は雇っていた。だからコロッケが、いかに手の
   かかるものであるかを知らなかった。チェッ! またコロッケか、バカにするな、と太郎冠者は嘆いたに
   ちがいない。
    太郎冠者は庶民とは次元の異る立場で、コロッケの唄を書いた。コロッケを笑いの対象としてブチョク
   したのである。そこに世人が首をひねる要因があった。ソンケイすべきコロッケをブチョクするとは・・・・。
    私は太郎冠者の長男とは小学校以来の級友だったので、高輪の御殿山の大きな森に囲まれた益田
   邸に、ときどき遊びに行った。
    その台所は、レストランやホテルも及ばぬような豪壮なものであった。白い服を着たコックが、いつも
   忙しそうに働いていた。
    こんな生活をしているから、コロッケの有難さなんか分ろう筈はなかった。   (61~64頁)

山本嘉次郎が益田家に行ったことがあるとは意外でした。

       

本書の裏表紙です。
ヤマモト カタロウ
父嘉太郎、親子どんぶりの発明者とか、稀代の食いしん坊なり。
嘉次郎、その薫陶を受ける。 

 ところで、三大洋食ではありませんが、親子どんぶりについて、こんな文章があります。

      さて東京のテレビ局では私の指示によって俳優の伊丹十三氏が九州に素ッ飛び、熊本県の
     菊池米、有明海のノリを求め、引返して和歌山県御坊市の堀河屋の醤油を買い、名古屋の郊
     外で農家の飼育する名古屋コーチンと卵とをわけてもらい、裏丹沢の青野原でミツバを得て、
     わが家にもち込むという筋書になった。その筋書どおりに材料を選んで、私が関東風の濃い味
     で作って見せると、昼飯を食ったばかりのスタッフがうまいうまいとみな食ってしまった。
                                            (132頁)

これは「遠くへ行きたい」のことですね。伊丹十三氏が出演した「親子丼珍道中」です。
現在、これと同じように材料を揃えたとして、山本嘉次郎さんが納得する親子どんぶりができるでしょうか。