旧刊時空漂泊

さまざまな本・出版物がランダムに現れます。

銀座界隈ドキドキの日々

2013-05-30 13:41:27 | 日記
著者 和田 誠
1997年1月10日 第1刷
発行所 株式会社 文藝春秋

        
          カバー  和田 誠

 1959年から1968年まで銀座のデザイン会社「ライト・パブリシティ」に勤めていた時期の自伝的エッセイ。
タウン誌「銀座百点」に連載された。
登場する人々
 細谷巌、杉浦康平、粟津潔、横尾忠則、植草甚一、高橋悠治、ベン・シャーン、立木義浩、寺山修司
篠山紀信、星新一、恩地日出夫等々。
 「文庫版のためのあとがき」のなかの一節
       小林さん(小林信彦)があるテレビ局のPR雑誌のために「テレビの笑い」という連載をされていた。
      ぼくはその挿絵を描いたのだが、ある回の原稿は「九ちゃん!」の台本作りについてであった。
      合議している人たちの様子を描かなければならない。ぼくは「ヒッチコック・マガジン」の編集長とし
      て面識のあった小林さん以外の人の顔を知らない。それで小林さんにお願いして、現場に同行し、
      みなさんに紹介してもらい、スケッチをして帰ったのである。  (324頁)

このテレビ局は名古屋テレビ、PR雑誌の名は「若い11」です。「九ちゃん」は日本テレビ制作の坂本九の番組。

鉄道ピクトリアル NO.416 特集 飯田線旧型国電

2013-05-21 11:04:16 | 日記
昭和58年5月1日 発行
発行所 鉄道図書刊行会

        

 飯田線は昭和18年に伊那電気鉄道、三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道が国有化
されて出来た路線です。

    三信鉄道建設の困難さは、その路線のほとんどが、日本列島を構成する地体構造上の境界線となる
   メジアン・ライン(中央構造線)に沿う事実に裏うちされている。巨大な断層線上に位置するために、地
   盤の変化がたえず起こり、そのことが落石のひん発、崩壊事故の度重なる発生要因ともなるわけである。
    そのことにかかわる最大の事故は、橋梁からの電車転落だろう。昭和30(1955)年1月20日21時
   5分頃、田本―門島間で発生した落石は、下り229電車の直前で線路を閉塞し、非常制動の効なくこれ
   に乗り上げたがために、2両編成(モハ14033-クハ18003)の電車は、脱線したまま約50mを逸走
   のうえ、橋梁から転落した。
    車両はともに大破し、死者5名、重軽傷31名を生じている。これほどの惨事に至らなくとも、台風襲来
   による線路不通は、年中行事の感がある。中央構造線の存在に伴う断層活動、地すべり発生によるトン
   ネル崩壊に悩まされ、危険予防措置としての路線変更工事を、絶えず必要とするのが、飯田線の宿命と
   いえるだろう。    (「飯田線形成への途」 中川浩一  15頁)

飯田線の豊橋―辰野間は195kmで、平均駅間距離は2,1kmということです。東京、大阪の「国電」なみですね。

版画と詩 黒木祥一

2013-05-11 12:37:31 | 日記
昭和50年9月10日発行
長野県東筑摩郡山形村
発行人 黒木祥一
長野県東筑摩郡山形村
発行所 夕暮社

         


             

             風吹けば林に入りて木を拾ふ負ふてもどれば女房よろこぶ

         大正十三年頃初めて私は画を彫ってみたのであった。其の后折にふれ
        彫ったものを集めたのがこの集である。そのなかで十何枚かの画はどこ
        かへいってしまって今版木が手元にない。それが惜しまれもするが致し
        かたなく思ふ。        
         もとよりこの集は残すに足る価値ある程のものではないがそれでも私
        の手がけたものの一つとしてのいのちあるうちの私の心ばかりの記念
        である。こんなものでも記念として残さねば残すもののないいのちは哀
        れである。
        二三の友のつよいすすめによってこの集を出すにあたりひとことしるして
        この集の終りの扉の言葉としたいと思ふ。 
                 昭和五十年九月一日

鉄道ピクトリアル No.426 特集 流線型半世紀

2013-05-02 14:46:55 | 日記
昭和59年1月1日 発行
発行所 鉄道図書刊行会

         
          流線型時代のヒーロー  モハ52  国鉄吹田工場

 モハ52は昭和11年宮原電車区に配置され大阪―神戸間の急行電車として第1次形1編成が華々しく
デビューした。歯車比を減少した高速用電車と斬新なスタイルは流線型ブームにわく当時、世相の注目を
集めたことはいうまでもない。 (中略) 戦後においては輸送の合理化を目的として23年4月に東海道本
線三島―沼津間で行われた高速試験の試験車となり、80系をはじめとする長距離電車運転の布石を築
いた。その後一度は京阪神急電に復活をみたが以後阪和線から飯田線への流転はご存知のとおりである。
                                                         (36頁)  

 「新幹線車両の流線型―その生い立ち」の頁で、新幹線の車両先頭部形状の風洞試験に携わった客貨 
車室長の三木忠直氏は元海軍航空研究所に属し、銀河の設計を担当したと書かれています。
やはり、あの流線型はそれまでの鉄道とは異質のものだったということでしょう。